第十章(自分が変われば世界が変わる) その7

(小説に登場する丹南メモリアルパークのモデルである、美原ロイヤルメモリアルパークの園内の風景)

本業を廃業にしようと創業者である野須川俊平自身が宣言してくれたことは、龍平には心からほっとした気持ちになれることだった。龍平の事業は限界に来ていたからだ。
羽毛原料業者からの信用を保つことも出来ず、だからと言って手作業に頼る原始的な掛布団の製造に戻れる筈もない。掛布団を捨て、付加価値の高い製法特許を持つ、指圧型固綿敷布団に特化したのだが、販売するに説明を要する商品が、おいそれと売れる訳もなく、毎月月間経費を回収するに汲々とする事業に正直嫌気がさし始めていたところだった。
廃業となれば、月末の支払枠が足らないと俊平とどこの支払を保留するかで揉めることもなくなる。また俊平に支払が保留された先に、売上入金をピッキングしてまで内緒で払うという、背任まがいの行為も今後はせずとも済むのである。
ただ和議以降十二年間、龍平について製造部門で頑張って来たのに、今更会社を去らねばならない従業員たちには申し訳ないことだった。
それも当月の給与も払えず、退職金も払えない状況だ。それらは会社で未払いを計上し、墓地代が入って来たら、必ずお支払いしますと、龍平や池田祐介が工場に行って、従業員を納得させて来いと俊平から命じられた。
龍平は、すぐにでも職を探さねばならない者は、十五日以降なら有休を与えると、独断だったが工場の従業員に伝える。

俊平は今回の廃業に及んで仕入先とは揉めたくなかったようで、始めて経費よりも仕入支払を優先した。
池田が龍平に訴えたのは、そこまでしても仕入先が我慢できる水準にまで買掛金残高を落とせないということだ。
「池田君、じゃあ僕が百万円出したら、なんとかなるのか」
「社長が百万円も出していただけるのですか。それは有り難いです。私は会長に相談しなければと思いながら、とてもあれ以上出してくれとは言えず、悩んでいました」
池田の計算によると、廃業時点で残る買掛金は四百万。会長は様々な仕入先の中から、これまでの付き合いで長期に待っても良い先を何社か集めろと言われるのです。スムーズに廃業する為に、そこだけ未払いを残させてもらえと言う訳です。ですが、残がせめて三百なら話し合いも可能ですが、四百となると、うるさい生地屋なんかも残が残る方に回るので、これはいかんと社長に相談しました」
「じゃあ僕が百万出したら、強行に取り立てに来そうな先は全額払えるのだな」
「はい、後は私が責任もって話をつけます」
龍平がゴルフの会員権を売って作った百万円は池田に渡すしかなかった。
八月末は池田の計算通り、三百万の買掛金が残った。
恥ずかしいことながら、廃業するのに買掛金残をゼロにはできなかった。
だがもしあの時、東京で現金問屋をやっていた極道の坪井が二千万円を出していなかったら、その後、俊平が、生地問屋に残高が増えたと催促され、一千万円相当の遊休地を提供しなかったなら、そして羽毛原料代金一千万円を工場の売却代金から大村商店に弁済しなかったなら、そして前年、俊平が買掛金

を減らす為に二千万円出していなかったら、廃業どころか、訪販事業が突然終わった時点よりも、和議の債権者説明会よりも、激しい仕入先の怒号を浴びせられるという意味では、もっと収集のつかない状態になっていただろう。
「一年くらいは待ってやろう」と三百万の買掛金残高表に名を連ねる全社が言ってくれた。
給与を払えないから有休をとってくれと言ったが、誰ひとり休みをとる者はいなかった。給料の締め日の二十日を過ぎても、まだ全員毎日工場にやって来て、月末まで、とてつもなく広い工場を、毎日、毎日掃除して回ってくれたのだ。
最後の日に、皆口々に「私たちこそ、野須川社長の力になれなかったことが申し訳なくて。霊園開発のお手伝いはできないが、一日も早く開園できますようにと祈っています。野須川社長、頑張って下さい。くれぐれも、お身体をお大事に」と龍平に別れの挨拶をした。
中に龍平の入社以前から鶴見工場で、ベテランの縫製工として働いてくれていた女性がいた。もう定年間近い老婦人だが、龍平の手をとって涙ぐんでこう言った。
「龍平社長、いいえやっぱり龍平さんと呼ばせていただきます。龍平さん、どうか、どんな事業に転業しても、野須川寝具産業が、かつて日本一の生産量を誇る寝具工場だったことを忘れずに、その誇りをもって事業の発展と拡張に励み、将来は丹南町の周辺の空き地を全部霊園にして、日本一の霊園にして下さい。私はそれまで生きていないかもしれませんが、その時は天国から龍平さんの活躍を見守らせていただきます」
龍平の目に映る別れ行く皆の顔は、ぼんやりとなって揺らいでいた。

龍平にとって本業の廃止よりも、霊園事業への転業そのものが悩みの種だった。
当初は丹南町の開発調整区域の社有地三千坪の土地を、三十億で関西石材に売る為の準備作業だった霊園開発であって、開発成功の暁には、申請者の宗教法人もろとも霊園は、関西石材に売却され、関西石材によって経営され、運営される筈であった。
なのに、どうして野須川寝具が霊園事業者にならねばならないのだ。その理屈は頭では分かっている。しかしそれでも龍平にはしっくり来ないのである。
「人の死」を扱う仕事だと決して職業として差別する訳ではなかった。
ただ龍平の二人の娘はまだ若いが、将来縁談があった時に、相手が霊園事業者と親戚になるのは、などと思案したりしないだろうかが気になった。
龍平は自分がこの仕事を差別しなくとも、自分が差別を受ける側に立つのではと、漠然と将来に不安を感じるのだった。
ところがこの仕事をとても善い仕事だと言った人がいる。丹比地区の高齢で、人生経験が豊富に見える井川区長だ。
区長が俊平に「霊園事業とは善い仕事を思いつかれましたな。誰もが良い墓地を近くに求めていますし、自分の先祖を手厚く供養したいと思っていますのに、使い道のない土地を持っていても、墓地にしたくない人ばかりですよ。それを思うと、野須川俊平さん、あなたはご奇特な方です。あなたが積まれた徳は、きっと子孫に報いられるでしょう」
この井川区長の言葉に父親の心が動かされたのかもしれないと龍平は思っている。
霊園事業に就くのが運命なら、龍平も井川区長のように前向きに考えるしかない。

もう一つの不安は借金返済の可能性だ。
俊平は、龍平を含む本社の従業員には、九月から霊園が開園になるまで、暫しの間、給与の支払いは保留させてくれと申し渡した。嫌なら辞めなければならない。「それじゃ、辞めます」と言ったのは女子事務員の水野昌子だけで、池田も、工場から本社に転勤が決まった関田も、その条件を呑んだ。
龍平は戸惑った。今までは、まだ給与があったから、智代に渡す生活費を最小限に抑えてでも、事故無く返済して来たのだ。
返済だけが進む、大手カードローン三社と信販は残高の減少分を、新たに中堅カード会社に融資を申し込んで、なんとかここまでやって来た。
カード会社は龍平の銀行口座に引き落としで返済が回るので、そんな先を増やすのは龍平個人の資金繰りを更に緊迫化させた。
しかしサラ金の方の件数を増やさないのは、消費者金融の山富士とアイラブ社との約束でやむを得ない処置だった。

八月の月末が迫る頃、龍平は智代と、霊園事業への転業についてじっくりと話し合える機会があった。
智代は、霊園事業という職業に特別な思いはないと、はっきり言ったので、龍平は安心した。
龍平は自分の預金残の百万円は、九月からの借金の返済に使うから、生活費には回せないと言うと、「それは仕方ないでしょう」と智代は笑った。
九月から給与も生活費ももらえないのであれば、智代は仕事を探してみると言う。

智代は四年制大学を出て、そう期間をおかずに龍平と結婚したのだから、アルバイト経験はおろか、就職経験はまったくなかった。
そんな智代が、どうして仕事が探せるのだと、龍平は不審に思ったが、智代は「心当たりがあるから、心配しないで」と笑ってみせる。
龍平は一息つこうと、冷たいものを求めて台所に入って冷蔵庫の扉を開ける。ほとんど中は空っぽだった。
ふと気になって、龍平は米櫃を覗いてみた。米が殆ど残っておらず、底が見えていた。龍平はぞっとした。
給与から家計にと渡す金額を絞っても智代が何も言わなかったから、仕事に専念できたが、龍平の家計は火の車だったのだ。
今後も霊園開発の為の同意書とりに腐心しなければならないが、自分の家族の生活のことも、もっと考えてやらなければならないだろう。
長女は龍平と同じ奈良県立の進学高校に入学したばかり。その入学金と初年度の授業料は智代が学資保険をかけていたから、なんとかなった。次女は地元の市立小学校四年生である。二人に学費がかかるのはこれからだ。
しかし、今の自分に何ができるのだと、龍平は不安になるばかりだった。

いっそのこと、父親にこれまでのことを総て話して謝って、五百五十万円残った借金を、本来あるべき姿の、会社の負債に計上してもらおうかと思ったりもした。
しかし龍平は自分の息子がこれと同じ事をして、謝って来たら、笑って五百五十万円出してやれるだろうかと考えてみた。

五百五十万円ならそう大きな金ではないかもしれない。しかし初めは二千万円から始まり、この四年間、会社の売上入金まで手を付けて、徐々に返済を進めてきたという事実が明るみに出ると、龍平ならそんな息子はとても許せない。一緒に住むのも嫌だ。一緒の職場で働くのも嫌だ。
龍平なら、そんな息子は息子とも思いたくない。
だから父親もそれは同じことだろう。龍平を許せる訳がない。この家から出ていけと言われるに違いない。龍平は住むところも探さなければならなくなるだろう。
俊平の性格なら、きっとこのことを世間に公言するだろう。青色申告取り消しになるやもしれず、莫大な消費税の追徴もあるだろう。
ほんとうは、どんなに父親に白状して謝りたいか、しれなかった。
しかしどう考えても、本当のことは話せない。龍平は内緒を内緒で包み隠し、隠蔽を隠蔽しなければならない。許しがたき罪人である。
龍平は「お父さーん、ごめんなさーい、お父さーん、ごめんなさーい」と心の中で叫ぶのだった。

九月に入った。智代は近所のパン屋にアルバイトで雇ってもらった。月給十万にも満たなかった。
なんでも近所の親しいご婦人たちも、小遣い稼ぎで同じ職場でアルバイトしていて、智代はアルバイトするのがとても楽しいと龍平に言っていた。
その言葉に救われる龍平だったが、一緒に働くご婦人たちはまさか智代のアルバイト料が、唯一の龍平一家四人家族の生活を支える収入だなんて、誰も思わなかっただろう。

ある日、新町神の子会に龍平は参加した。その日のテーマは、光明の家の人類無罪宣言であって、輪読するのは光明の家の聖典「生命の光」第十三巻だった。
輪読が終わって、宮本光子講師はその日のお復習(さら)いを始めた。
「皆さん、罪とは何だったのでしょ。今日勉強した皆さんなら、罪は悪業を積むこと、なんて定義しないで下さいね。もう一度お聞きします。罪とは何なのでしょう」
「罪とは隠蔽することです」と十名くらいの出席者が口を揃えて答えた。
「そうです。よく出来ました。罪とは隠蔽、包み隠すことですね。包むからつみと言ったのでしたね。それでは第一の罪は、何を隠蔽することでしたか。はいそこの人」
「自己の神性の隠蔽です」と指さされた女性が答えた。
「その通りです。人間は神の子であるという真理を隠蔽することでした。人間は肉体ではなく、神と一体の霊的実在なのですから、自分は肉体なりと思い違いして、食欲、物欲、性欲、名誉欲、権勢欲等の煩悩に耽るなら、神性の隠蔽となって第一の罪、原罪を犯すことになるのです。それでは第二の罪は何を隠蔽することでしたか。その隣の人、どうぞ」
「自他一体の真理の隠蔽です」とその隣の女性が答えた。
「そうでしたね。これは説明はいりませんね。自分も周りの兄弟も総て一心同体の神の子であったのですね。それでは隣の野須川幹事さん、あなたには簡単な質問でしょうが、第三の罪は何を隠蔽することでしたか」
答えは、隠蔽を隠蔽することだった。つまり野須川龍平がいましていることだ。

龍平は立ち上がるなり、気でも狂ったようにまったく違うことを言い出す。
「ここにおられる方の実相は神の子さんで、生まれてこの方、罪など一切犯したことがない方々ばかりなのはよく分かっています・・・」
びっくりして、まりあが声をかけた。「野須川君、どうしたの」
皆驚いて龍平の方を見る。
「しかし、この私だけは拭(ぬぐ)いきれない罪の子であることを、神様が、誰よりもよくご存じなのです」と言って、その場で泣き崩れてしまった。
参加者全員が、何かに取り憑かれたような龍平の異変に言葉を失う。
その時、宮本光子講師は、つかつかと龍平の側に寄って来て、鬼の様な怖い顔になって大音声で渇を入れられた。
「野須川君、そんな頼りないことで、どうする!」と。                                        

第十章(最終章) 自分が変われば世界が変わる その⑧に続く