第二章(個別訪問セールス)その8

(昭和五十一年、奈良学園前での新婚時代の妻が毎朝筆者の為に作ってくれた豪華な朝食)

多賀信也は、茨田(まった)横堤の工場が全焼する三日前、俊平に声を掛けられ、船場の繊維商社を辞めて転職して来た社員だ。まだ独身で家もなく、入社したその日から野須川商店本社三階の寮の一室で新生活を始めていた。
火事があった晩は、消防隊員らと共に消火活動に当たったが、翌朝、焼けただれた建物の鉄骨や機械類の残骸を残して真っ黒な灰燼に帰した工場を見て呆然と地面にへたりこんだ。
これで今日から俺は失業かと、自分の転職の決断の軽率さを呪っていた。
そこに俊平がやって来て、多賀の肩を叩いて言ったのだ。
「何も力を落とすことは無いさ、こんな工場、半年もあれば復旧してやるから心配するな。いや、今度はもっと生産力のある工場にしてやるさ」
一体、このポジテイブな自信はどこから来るのだろう、と多賀は勇気を取り戻し、生涯俊平について行く決心をした。この俊平の言葉を、後日になって何度も龍平に聞かせるのだった。
野須川商店は半年を待たずして本社工場を復旧する。

肌フトンの生産量は、火事以前より生産設備が拡充され、増産に増産が続けられ、龍平が太平洋商事から株式会社野須川商店改め、資本金を一億円に増資した野須川寝具産業株式会社に転職した昭和四十八年の四月、マックスに達していた。

不織布製造プラントが完成し、布団を横向きにキルトする広幅の量産型高速多針キルト機が新たに十台設置され、京都山本の販売力に合わせ、そのサンフラワーの商標の付いた肌フトンを月産十万枚以上生産するようになった。
不動産担保が条件の銀行借入よりも、購入する動産を担保にできて審査が楽なリース契約で、新たな機械設備が購入された。お蔭で年商が三十五億円を超えるようになり、そのようなことが出来るまでに野須川寝具産業の信用は高まったとも言えるだろう。
この肌フトンの四方のヘリ地は、帝都紡績のナイロン経編、フレンチパイルが使われた。
たかが十センチ巾のヘリ地と侮るなかれ、布団十万枚に必要なヘリ地は七十万メートルを超え、それを取るには帝都紡績製の経編生地を、毎月八百反以上潰して行くことになるのだ。
太平洋商事経編課を通した間接取引であるにせよ、帝都紡績ナイロン部隊と野須川寝具産業の蜜月関係を作るには充分な接着剤となった。

話を三年前の龍平が太平洋商事に入社した昭和四十五年に戻そう。野須川商店でベッド事業部が新設され、牛山がその責任者となり、門真に投資目的で持っていた土地に工場が新設された。
ベッド製造事業も京都山本の販売力を充てにしたものだったが、京都山本のサンフラワーの商標を付けようが、寝具店にベッドを注文する人は少なく、結局家具業界に販路を一から開拓せねばならず、この事業は最初から困難を極めた。

龍平が野須川寝具産業に入社した昭和四十八年四月に、帝都紡績と、第五位の総合商社、財閥系井筒商事の共同債務保証によって都銀花村銀行の長期融資を受け、泉州忠岡の大津川河口の敷地三千坪の染工場跡に新設された、テイボーアクリル使いのプリント・タフト毛布連続生産工場が竣工し、野須川寝具産業の三番目の生産アイテムとして毛布が加わった。
だが昭和四十八年は、世界にオイルショックが走った年である。その煽りを食らい、秋から冬にかけてはアクリルの相場が他の石油関連商品と共に急騰するように見えたが、年が明けると逆に大暴落し、これからテイボーアクリル使いの製品を世に売って出ようとした初年度は、帝都紡績アクリル総部にとってさんざんなスタートの年となった。
翌年、毛布事業の支援者として出資者となり、すっかり親会社顔になった帝都紡績の意見を容れ、野須川寝具産業は更に一億円増資され、資本金は二億円となった。
資本金一億円では、会社創設時の昭和二十八年の資本金二千五百万円から、貨幣価値を見れば、資本が増えたとは言えず、減資になったくらいだったからだ。
この払い込み資金作りに、俊平は昔会社から買った丹南町の山林を利用した。それを鑑定評価し、調整の山林でも坪五万円弱という評価が出たのを確認して、その価額で会社に再購入させ、約一億円の資金を作って、それで増資分を払い込んだのだ。
それから二年後の昭和五十一年四月四日、帝都紡績常務取締役の谷本夫妻の媒酌によって、俊平の長男、龍平は岩出智代と結婚する。新婚の二人は奈良学園前の俊平の旧居に棲み、俊平夫婦は隣町に新築したあやめ池南の新居に棲むことになった。

その年の十二月の某日。俊平は五十三歳、龍平は二十九歳だった。
龍平は帝都紡績から、忠岡の毛布工場で出来るアクリルタフト製品で、規格を変えて他業界へ売り込めるものを発掘せよ、との宿題をもらって、たったひとりでこの半年間、取り組んで来た岐阜のアパレルメーカー向けの、秋冬カット・ソーの新素材、ハイゲージ・タフトの今シーズンの商売が総て無事完了し、代金の回収が終わったことを報告する為、社長室のドアを開けた。
部屋の中では、寝具業界のコンサルタントであり、業界誌の発行者でもある山崎が俊平とソファに座って対談していた。
「入ります、あっ、ご来客でしたか、失礼しました、では後にします」
「おう、龍平か、丁度良いところに来た、この方、知っているだろう」
「山崎先生、お久しぶりです。アメリカの小売業界の視察旅行にご一緒して早三年になります」
「龍平さん、お久しぶり、もう三年になりますか、寝具には精通されたのでしょうね」
「山崎先生はお前の為に新しい仕事を持って来て下さったのだ、先生はあのミツバチ・マーヤのコンサルもされている、お前、ミツバチ・マーヤを知っているな?」
「アメリカ視察旅行の時に、とても親しく付き合って下さったあの遠藤専務の会社が確か」
「ミツバチ・マーヤですよ、龍平さん、専務から、あの会社がどんな会社か聞いていましたか?」
「いいえ、詳しくは、確か何か特殊な方法で布団を売っておられるのですね」
「セールスマンを使ったドア・ツー・ドアですよ」と山崎は笑った。

第二章 個別訪問セールス その⑨に続く