第十章(自分が変われば世界が変わる) その11

(筆者の第二霊園、美原東ロイヤルメモリアルパークの新しく増設されたガーデニング墓地)

丹南メモリアルパークの墓地がまずまずのペースで売れ出すのは、開園から一年後、平成七年の夏、二階建ての管理棟が建って以後のことである。
物語を平成七年に進める前に、開園の年の平成六年にあったことで、お話しなければならない重要なエピソードが幾つか残っている。
先ずは六月のことだ。税務署員が十名も大挙して、四ツ橋の事務所に早朝から駆け込んで来た。まるで警察の取り調べだ。容疑者は龍平である。
税務署は事務所に近い都市銀行から「野州川寝具産業株式会社 代表取締役 野須川龍平」名義の普通預金の口座の、開設以来五年間の取引の写しを持参していた。野須川龍平がこの五年間、何億もの売上金を抜いて裏勘定に振り替えたという嫌疑である。
もしもこれが横領であって、龍平が何億もの金を秘匿したのなら、空前絶後の脱税事件となるだろう。税務署員が十名も雁首揃えてやって来たのは頷ける訳だ。
龍平も池田祐介も笑ってしまう。この普通預金の入出金は総てその通り、会社の帳簿に反映させてある。会社の経理では第二口座に入った金額そのまま、売上げが赤伝で取り消され、出金した金額はそのまま、仕入が赤伝で取り消されていたからだ。それ以外の出金は父親に内緒の借金の返済ばかりだ。

「これは一体どういうことですか」と責任者は龍平に尋ねる。龍平はそのような処理に至った会社の事情を包み隠さず説明した。責任者は驚き、がっかりして「後は僕一人で確認するから、君たちは署に戻ってくれていい」と仲間を帰らせる。
彼は夕刻まで取り調べ、書類を預かり一旦署に帰って、翌日は龍平一人が税務署内で調査に立ち会った。
一週間後、結論が出たからと龍平は再度税務署に呼び出され、責任者から次のように言われる。
「野須川龍平さん、あなたは正直なお人だ。最初の日から事情は分かりましたよ。だけど、あんな多額の会社の入出金を、あなた一人が動かしていたのですよね。だからあなたを疑ったのです。どさくさに紛れて、あなたが必ずいくらかの金を自分のポケットに入れている筈だと。だから調査が長く懸かりました。あなたの嫌疑は晴れました。ただね、これって消費税の脱税ですよね。それに売上金額を勝手に触って決算するのも、処分なしと言う訳には行きません。署内でかなり議論しました。しかし私はあなたの仕入先を思う気持ちはよく分かります。ここだけの話ですが、そんなトップなら、私だって同じことをしたかもしれません。結論を申し上げます。野須川龍平さん個人に罰金十万円の支払を命じます。法人の野須川寝具はお咎めなし、消費税の追徴もいたしません。今後は霊園事業に転業なさるそうですが、繊維よりは良い仕事かもしれませんね」
近年は龍平も生活が困窮し、この金を使おうかと何度思案したかしれなかった。だが、もしもそれをしていたら、人生は今日で終わっていたなと龍平は思う。
龍平がそうしなかったのは、宮本光子講師から「常に神とともにあれ」と何度も何度も言われていたからだろう。

霊園の開園以後、俊平は本社にいる龍平、池田、関田の三名に、テレホンアポで墓地の見込客を集めろと指示した。龍平は工場の在庫や機械や什器の買い手を探しながら、池田と関田は工場の中のゴミを焼却したり、処分したりしながら、墓地の見込み客を探した。
元々訪販で飛込販売の経験がある龍平と池田は、半日電話帖で無作為に架けて二百軒が通じたなら、一軒くらい、資料を見ても良い客を探すことができた。見つけた客に資料を届け、見学の日取りが決まると、関西石材に繋ぐのである。
しかしずっと工場勤務だった関田には、このような仕事はできなかった。
関田は八月に会社を辞め、泉州の繊維工場で働くことになった。

開園と同時に龍平が取り組まなければならなかったのは、霊園への進入路の確保である。桜台西一丁目からの道は公園と擁壁で塞がれてしまった。後は丹比地区からの山の中の進入路だけだが、昔は二間幅(三・六メートル)の広い道路だったのが、今は両側から笹が生い茂り、一間(一・八メートル)幅の道になっていた。丹南町の薦めもあって、龍平と本田は道の両側の総ての地主に、道路用地を出し合ってもらって、昔の幅にまでさせてほしいと説得して回った。幸いにも反対者はおらず、話は一ヶ月くらいでつく。土地を測量し、地主同士の境界を確認し、笹を刈って土木機械で道路用地にするまでの費用は、野須川寝具が負担したが、舗装工事は霊園を公共のものと考えてくれたのか、丹南町が引き受けてくれた。
霊園の販売事務所は仮設の小屋であり、工事は中途半端で玄関も霊園を囲む塀もなく、桜台との境界の擁壁に乗る土塀も、丹比地区の要求で造った道路を支える北側の擁壁も、共にコンクリートの打ちっぱなしで、仕上げがなされていなかった。

そんな状況では、初年度の墓地販売は遅遅として進まず、為に造成工事の分割払いも進まずに悪循環を繰り返した。
俊平は墓地代金のスムーズな入金を諦め、工事費の支払いから逃れたいが為に別の入金作りを、坂下や本田や、龍平に考えさせた。
俊平は「関西石材一社で営業するから、販売が進まないのだ」と、坂下に墓地の纏め買いをする財力ある石材店を探せと注文をつけた。
坂下は「それは出来ない」と言う。平成四年に野須川寝具に入金した三億円の半分が、別の八社の石材店からの借入だったと坂下は打ち明けた。だから既に関西石材を含む九社の石材店で販売に当たっていて、これ以上増やしたら収拾がつかないと言い張るのだ。
坂下社長には、このように他人を二階に上げた後で、梯子を外すような、ずるい性格があった。俊平は坂下に失望した。
それでも坂下は、石材店一社から新たに一千万円を借りてきた。次に本田が関西石材のグループではない地元の石材店から、一千五百万円を借りてくる。加えて龍平は水道局に行き、宅地開発時の供託金の一千万円を返金してもらった。また工場の商品在庫や機械や什器の販売で、龍平が入金したのは五百万円以上にはなった。
それでも資金が足りないと俊平は、丹南町役場に霊園協力金一千万円を出せと言い出した。丹南町は調整が外れないのを知りながら、宅地造成の指導をしたのだから、その損失の一部でも返せと言うのだ。まるでヤクザの言いがかりだった。

俊平は龍平をその交渉の担当にする。先方が断るなら行政訴訟をすると言えと交渉の仕方まで指図した。
龍平は何度も瞑想行の実相観をして、ひとつのアイデアを得る。
龍平が町役場に行くと、出てきた助役は真っ青だった。この助役が昔の建設部長で、宅地の工事をあれこれと指図した人物だ。助役は自分に責任が及びそうな行政訴訟を一番怖がっている。
龍平は「擁壁の上の土塀の公園側にある土地、それは霊園に入らない土地で、こちらも不要ですから、そちらで買ってもらえませんか」と提案した。
「分かりました。それなら一千万円は出せそうです。一ヶ月待ってもらったら、そちらに振り込みます」とほっとした表情で助役は回答する。
俊平は丹南町が何の名目で払ってくるのかなどは、まったく関心が無かった。

十月も後半にもなると俊平の精神状態はいよいよおかしくなった。
毎月、資金繰りのストレスに苦しんできたからであろう、俊平は突然、「関西石材を切る」と言い出すのだ。
これが原因で、龍平とも喧嘩になった。
俊平は本田を呼び、丹南メモリアルパーク専属の石材会社を二人で設立しようと誘った。本田も坂下に不満があったのか「それは面白い、自分がその資金三千万円を出しましょう」と言ったから、十一月にかけて、とんとん拍子に話は進むことになる。
本田は不動産屋であるから、俊平と石材会社を創る件でも、三千万円を貸す件でも、総て約款をぎっしりと書き込んだ契約書を交わさなければ気が済まない質だった。

しかも自分が薦めた霊園開発が成功し、野須川寝具は破産を免れたのだから、その謝礼として二億円くらいは自分に払ってほしいと、そんな契約書まで作成した。
結局十二月に、強欲な本田の性格に嫌気がさして、俊平は本田と縁を切り、坂下に詫びを入れて、関西石材とは元通りの関係に戻したのだった。

これほど資金繰りに苦しみながら、俊平は平成六年の暮れには、丹南メモリアルパークに管理棟を建てようと言い出す。それも二階建ての管理棟を。一階は墓参客の休憩室があって、ガラス張りの壁を通して、霊園から中が見える設計だった。これほどの規模の管理棟は当時、関西の霊園にはそれ程無かった。この建築を十ヶ月払いの分割払いで引き受けた工務店は、浪銀ファイナンスの秦田社長が紹介した大阪市内の会社だ。これが浪銀の社長として秦田が俊平の為に働いた最後の仕事になった。
既になみはや銀行は、浪銀ファイナンスへの融資額二百五十億を債権放棄し、縁を絶ち切っていた。だからそれ以後、なにはや銀行から俊平が三十億の浪銀の債権について督促されることは一切無くなった。
さて、龍平が平成三年から入会していた光明の家大阪府繁栄経営者会のその後であるが、平成六年になって、光明の家の教団が動き出し、この会の名称を光明の家○○教区繁栄会と変更させ、入会資格も法人から個人に変更した。信仰の会だから当然の話であって、はっきりと教団の一組織に生まれ変わったのである。
それが原因で、生命の光哲学のシンパに過ぎない経営者たちは、信徒にはなれないとこの会から退会した。龍平はこれを機会に寧ろ教団組織内に入って活動するようになって行く。しかしそれは新たに俊平と龍平が揉める原因となって行った。

平成七年一月十七日、朝五時四十八分、龍平は奈良市あやめ池の自宅の寝室の激しい揺れに飛び起きた。体験したことがない強い地震だ。しかも揺れる時間がかなり長く感じた。家族は全員無事だったが、台所の食器などはめちゃめちゃだ。近鉄電車も運転を休止した。電車は七時半になって動き出し、龍平も俊平もとりあえず会社に向かった。
会社に行ってみても、電話が不通であるから、まるで仕事にならない。応接間のテレビで、NHKニュースを見ているしかなかった。
震源地は兵庫県南部というだけで、被害状況は深夜まで分からなかった。死者の数が三千名を超えそうだと発表されたのは翌日だ。この地震の名を「阪神大震災」と呼ぶようになるのは、一月十九日以降である。最終的に死者数は関連死を含めて六千四百人余り、住宅被害は六十四万棟にのぼった。

三月二十日朝八時、東京霞ヶ関駅に到着する地下鉄五線にサリンが撒かれ、二千五百人以上が入院し六名が死亡する事件が起こった。翌日死者数は八名と修正された。
五月十六日、上九一色村にサテイアンと称する道場を設けるヨガ系の新興宗教の教祖が、幹部らと共に地下鉄サリン事件その他の殺人事件の容疑者として逮捕された。
この事件の後、俊平は龍平を呼び出し「みたか、あの新興宗教の事件を。逮捕されたのはお前のような優秀な大学を出た若者ばかりやないか。教団はおだてに乗りやすい若者の自尊心をくすぐって、都合良く利用しているのや。お前もそうやないか。光明の家も、所詮は新興宗教。あの新興宗教の事件を見て目を覚ましたらどうや。前々から言おうと思っていたんや。今日限りで光明の家をやめてくれんか」

龍平は何時かこんな日が来るだろうと覚悟はしていた。父親がやめろと言えば、やめるしかないのだ。光明の家の教えでは、父親とはそれ程に絶対的な存在だからだ。だがその前に、光明の家の創始者尊師高橋先生が、仏教を説いた釈尊、キリスト教を説いたイエスの教えの神髄を明らかにし、その上に二人の聖人が言おうとして言えなかった真理をも説た、現代人には奇跡的な教えであることを父親に伝えてからでも、やめるのは遅くないはずであった。
龍平は俊平に向かって、俊平が驚くほど静かに冷静に話し出す。
「お父さん、ご心配かけて申し訳ありません。お父さんがやめろとおっしゃるなら、黙ってそれに従おうと思います。光明の家の教えとは、そういう教えだからです。私もお父さんも、宗教宗派は浄土真宗本願寺派です。私もそれから改宗したつもりはありません。私は光明の家の教えを通じて親鸞上人の教えを学び、日蓮宗の教えも、禅宗の教えも、真言宗の教えも、いえキリスト教の教えだって光明の家で学びました。光明の家が説くのは、釈尊やキリストが説こうとして、説ききれなかった教えでもあります。私は、お父さんを一家の、また会社の、中心者として拝んで感謝して、お父さんに従わなければならず、経営環境の総てにも和解し感謝して、陰陽の象徴である夫婦も和合して、互いに拝みながら暮らしていかなければならないのです」
「なに、それが光明の家の教えなのか。・・・分かった。もう良い」
俊平が龍平の宗教のことを口にすることは二度と無かった。                            

 

第十章(最終章) 自分が変われば世界が変わる その⑫に続く