第九章(祈りの効用) その4

(筆者の職場にある屋内型永代供養墓)

「イエス・キリストが本当にそんな話をしていたのでしょうか」と食事の手を止めて、龍平は佐藤の顔を見つめる。
新約聖書は端から端まで読んだつもりの龍平だった。
だが、どのような場合の人の祈りが、神によって聞かれるのかの問題について、キリスト自身が説明しているなど、龍平はまったくもって認識していなかった。
もしそのことについて、神の子、キリスト自身が説明しているのなら、旧約聖書のカインとアベルの話から、神に聞かれる祈りとそうでない祈りが、「神のみ計らい」で分かれるのだと想像し、あれやこれやと何千年もの間、人が議論することはなかったのではないか、と龍平は驚くのだった。
これまで、光明の家の信徒たちから何を祈りたいかと尋ねられても、龍平は別にそういうものはありませんと答えてきた。経済問題の解決など、口にすることが自体が、信仰という清い世界に相応しくない、世俗的な汚れに満ちた願望だと、後ろめたく意識してきたからである。
「野須川君、君はキリスト教を勉強したのなら、キリストの山上の垂訓を知っているだろう。昔の大作映画にも登場したぞ」
「それはきっと『キング・オブ・キングス』のことをおっしゃっているのでしょうね。活劇スターのジェフリー・ハンターがキリストを演じました。彼の澄み切った綺麗な瞳がとても印象的でしたね」
「それがキリスト役に選ばれた理由なのかもしれない」

「キリストの説教を聴こうと何千人の群衆が集まる小高い丘の上で、信者の一人からの信仰の在り方への問いに、イエスが滑らかな口調で答えて行くという形で、キリスト教の教えを伝えていましたね。幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり、なんてね。そしてもっと多くの人が観た、チャールトン・ヘストン主演の大作映画『ベン・ハー』にも登場しました。残念ながら、主人公のベンは、イエスの説教を聴こうともせず、教えを聴こうと丘に集まる群衆を背にして、ハー家にとって敵のローマ帝国と決別し、帝国の貴族の称号をローマにいる義理の父に返す為、エルサレムのユダヤ総督の政庁を訪ねて行きました」
「そうだ。それからローマ進駐軍の、自分の出世しか頭にない司令官とベンととが生命を賭ける戦車競走へと続く訳だ。映画の話はそれまでにして、話を新約聖書に戻そう。師のキリストの生涯を通じて、お側に使えた弟子のマタイが書いた福音書に、山上で説かれたイエスの垂訓の内容が詳しく書かれている。それは知っているな。光明の家の聖典で言うなら、三十巻の真ん中辺りから始まり、聖書から引用した文に尊師高橋先生が丁寧に解説して下さっている。野須川君、君は聖典の全集を三度も読んで、全く気づかなかったのか」
「すみません、気づきませんでした。それに気づいていたら、こんなに繁栄を祈っても良いのか、いけないのかで、悩んだりはしていません」
「では教えてやろう。確か三十巻の二百ページだ。『汝もし供物(そなえもの)を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思い出さば、供物を祭壇のまえに遺しおき、先ず往きて、その兄弟と和睦し、然(しか)るのち来りて、供物をささげよ』とイエスの言葉が引用されていただろう。思い出したか。兄弟とは肉親の兄弟ではない。総ての隣人のことだ」

「思い出しました。確かにそう書いてありました。ちょっと待って下さい、まさか佐藤先生は、その供え物をささげるとイエスが表現したのは、カインとアベルの供え物の教訓がイエスの頭にあったからだとおっしゃりたいのですか。もしかしたらそれが正しいのかもしれませんが、実際言って、そんな風に考える人なんて、世界中のキリスト教徒を探してもいないのではありませんか」
「尊師高橋先生は、そうは断言しておられないが、そうではないかと推測されていたことが、その解説文から伺うことが出来るのだ。イエスの趣旨なら、神の祭壇の前で『祈りをささぐる』時と言っても、なんら差し支えなかった。それを敢えて『供え物をささぐる』時と表現したんだ。明らかにカインとアベルの物語が意識されている。イエスは、カインとアベルの話を、神のみ計らいで解釈しようとする人々に、それは違うぞ、と釘を刺されたのだよ」
「私もだんだん佐藤先生の指摘が当たっているように思えて来ました。すると正しい祈りを真摯に祈れば、神は必ずやその祈りを聞かれるということなのですね」
「ただし、総ての兄弟・隣人と和解がなされているならば、の条件付きだ。野須川君、実は残念ながら、このことに気づいたのは、尊師高橋先生おひとりではない。世界にもう一人いた。それも先生とほぼ同じ時代にだ」
「それは誰ですか」
「アメリカの文学者、スタインベックだ。彼は新大陸に入植して西部を開拓した自分の先祖の三代の体験談に基づいて大河小説『エデンの東』を書き著した。この小説でも、カインとアベルの物語とマタイの福音書の山上の垂訓の和解の言葉が繋がれていて、親子の和解こそが、人間を神と結び会わす必要条件だと作者は言っているのだ」

「エデンの東は映画も観ましたが、映画の物語は原作の後ろ四分の一だけで、本当は南北戦争から始まる長編大河小説であったことは、アメリカの連続テレビドラマを観て知りました。そうか、そうでした。あの物語も父と息子の和解がテーマでしたね。佐藤先生も、深夜に連夜で放映されたあのドラマをご覧になっていたとは」
「儂はそんなドラマは知らん。英文の原作を読んだまでだ。それじゃ、野須川君にもうひとつ質問する。光明の家の根本教義とは何だ」
「それは尊師高橋先生に天下った神示のうちの二本目の神示、『汝等天地一切のものと和解せよ』から始まる『和解の神示』です。『大調和の神示』とも言います」
「そうだ。その通りだ。それは分かっているのだな。じゃあ、そこにも書いてあっただろう。『われ嘗(かつ)て、かつて神の祭壇の前に供え物を捧ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」と。われとは誰のことだ」
「神様のことです」
「そうだ。じゃあ、嘗てとは何時を差すのかも分かったな」
「はい、今分かりました、佐藤先生。キリストが山上で垂訓をした時、今から二千年前の時点を差すのですね」
「よく分かったな。分かって神示を拝読するのと、知らずに拝読するのとは大違いだ」
「そうか、神様はキリストの口を使って語ったぞと、おっしゃっているのですね。キリストは神様のラッパだったのだ。凄いことですね」
「尊師が自身を神のラッパだとおっしゃっているようにな」

 錬成合宿二日目の授業はどんどん進んで行く。
午前中は、人間(の本当の姿)は神の子であるとの自覚が、自分の殻である肉体の細胞の隅々に働いて、病気を消し去ることがあることを学んだ。
講師は人を食った様なとぼけた中年の男性だ。後で常連の受講生から聞いたことだが、なんでもこの講師は魚眼レンズの老先生の娘婿だそうだ。
黒板に大きなスマイルマークを描いて、これは笑顔が絶えない常に光り輝く太陽であり、これが完全円満の実相の人間を漫画に描いた絵だと説明する。
人間はこの現象世界では、迷い(仏教では無明)の心で罪を犯すし、それが元で病気にもなるが、それは肉体人間の方であって、本当の人間は神が創られた実相世界に生きる完全円満な「霊」的実在であって、生まれて今日まで、罪など犯したこともなく、病気などにもならない、完全無欠な神の子なのだと、だからそのことを自覚すれば、どんな病も消えるのだと教えた。
そのような説明の後に、錬成を受けたことですっかり人間観が変わって、いつの間にか癌まで消えていたという幾多の人の体験談が読み上げられた。

お昼を食堂で頂くとき、また佐藤が龍平の横にやって来た。
「野須川君、宗教が病気を治すことには、納得しておらんようだな」
「いいえ、そんなことはありません。信ずれば奇跡さえ起こせるとは私も思っています」
「するとなにか、君は鰯の頭も信心したら、気のもので病気が治るとでも言うのか。もしそんな程度の理解しか出来ぬようなら、さっさと帰った方が良いぞ」

第九章 祈りの効用 その⑤に続く