第六章(誰もいなくなる) その5

(筆者が経営する羽曳野の霊園のバラ園。池田厚司氏撮影)

列車は名古屋駅に着いた。龍平は次の京都駅で降りて、そのまま自宅に直帰するつもりである。多数の乗客を降ろして、列車は名古屋駅を出発する。
龍平は車窓から流れゆく風景を見ながら、再び自分が担当した京都山本との最初で最後の取引を思い出していた。

寝具の製造に今のように関心が持てたのは、元はと言えば、あの時の京都山本の部長が、こたつ布団の約定残数をきちんと一枚残らず生産し、即刻納めて来いと、生産には一度も従事しなかった龍平を試すような電話をしてきたお蔭だとつくづく思うのだった。
父から製造責任者の指名を受けながら、迂闊にも、大阪住宅供給公社に売却された鶴見の寝装工場にあったキルトマシンの新鋭機十台の内、八幡工場に移転されたのは三台に過ぎなかったことに、その時初めて気づいたのだった。まるで井川は早くから京都山本との取引が無くなることを知っていたかのようだ。鶴見工場の生産部隊に八幡工場への移転が命じられた時点では、京都山本との取引を停止する予定は全く無かった。京都山本の肌布団の生産を続けるなら、新鋭機十台全部持って来ても、必要な生産量には達しなかった筈なのだ。
それをどうして井川は三台の移転で止めたのだろう。井川は自分の退社で京都山本との取引が停止することが分かっていたかのようだ。
龍平は土田が何か知っていないかと尋ねた。
「土田君、後のキルトマシンはどこに行ったのか、知らないのか」
「ああ、その話ですか。内緒にしてくれと言われていたのですが、井川さんは今鶴見区で空き地を借り、そこに工場を建て、来月から京都山本向けの肌布団工場を開業されると聞いています」
「だから縫製の精鋭部隊は、初めから八幡工場への転勤を拒んだという訳か、そうか皆、井川さんの会社に行ったんだ。それでは和議申請の前から、井川さんは京都山本との取引を、野須川寝具としてではなく、自分が創る新しい会社に移行させるつもりだったのだ。井川さんと京都山本は、恐らく坂本専務の毛布の粉飾が明るみにでた頃からつるんでいたに違いない」

龍平はそのまま財務部に行き、長村部長に井川の噂を確かめるのだった。高齢になった長村の専務職は、既に解かれていて、経理の林部長と同格の総務部長に過ぎなかったが、俊平会長の秘書の仕事は、俊平の私生活を知り尽くした長村だけができることだった。和議申請以降の野須川寝具には、香川と有働と龍平の三常務がいるが、専務はいなかった。
「長村部長、井川さんが新しい寝具会社を鶴見区内に立ち上げようとしているのをご存じですか」
「はい、龍平さんには言ってませんでしたが、京都山本向けの商売をされるようですね」
「それを会長は知っているのでしょうか」
「恐らくご存じでしょう。しかしこれは井川さんの裏切り行為ですから、会長としては知っていたとは決しておっしゃらないでしょうが、ただ京都山本と井川さんとが相談して創った会社のお蔭で、解雇された社員が路頭に迷わずに済むなら、それも良しかというくらいに考えておられるのではないでしょうか」
列車は夕暮れの関ヶ原の古戦場を走る。
そして和議を出した昭和五十六年は、洋式の敷布団が誕生する元年にもなった、ポリエステル綿を作る合繊メーカー各社揃って、敷布団の芯になるポリエステルの固綿の開発を急いでいた、その中で帝都紡績は一歩先んじていたことを龍平は思い出す。
その年の十月、帝都紡績エステル部が、申し訳なさそうに、一セットしかない野須川寝具八幡工場の製綿プラントを、固綿製造のテストに貸してくれと言って来たとき、龍平は迷惑どころか、寧ろ大はしゃぎだった。京都山本との取引は終わったのだから、今後この製綿プラントで、洋式の敷布団ができるのなら、カシオペア事業部にとっては、願ってもないことだった。

敷布団と言えば、木綿綿が六キロも入った和式の敷布団しか無かった時代である。洋式の敷布団はベッドパッドしか造れなかった。
カシオペアでも、谷本部隊の集団退社と共に和式上下の扱いがなくなり、羽毛掛布団の下は羊毛合繊混綿の敷パッドがあるのみだった。洋式の敷布団の生産は、セールスから強く求められていた。上に横になっても沈まない敷布団を作るには、どうしても固い芯綿を挟む必要があった。
何度も何度も実験を重ね、敷布団サイズの、一メートル巾、長さが二メートル、厚さ三センチのゴム板のように固く、目方が僅か二キロしかないという芯綿が完成した時、これでカシオペアは再び寝具訪販の天下を狙えると龍平は大喜びだった。
この芯綿をウール混の樹脂綿一キロをキルトした側地、二枚で挟んでヘリ地で縫い合わせて、ひとつの敷布団にする。寝転んでも、コイルが入ったマットに寝ているように、まったく沈まない。直ちにダウン率の低い廉価の羽毛掛布団と、我が国初めての固綿敷布団のセットを企画し販売した。同年十二月のことだ。高給寝装品らしく、ペルシャ絨毯のようなペイズリー柄の生地を使った羽毛掛と固綿敷布団「アルハンブラ」、セット価格、九万八千円。カシオペアの空前のヒット商品になった。
龍平たちが開発した固綿使いの洋式敷布団だが、翌昭和五十七年春には合繊メーカー各社で固綿の開発が完成し、全国で生産が開始され、固綿の芯を入れての洋式敷布団を作るのが全国でも主流になった。
カシオペアの固綿入り羊毛混合繊敷布団は、更に改造が進んだ。羊毛混のキルト用の綿にも、樹脂綿の使用を廃止し、固綿の原料が入れられた。それで更に固さが安定するようになった。この敷布団と同柄のダウン率九十パーセントの羽毛掛布団のセット「エーゲ」が、二十万円で販売された。

営業マンたちは、楽に自分の契約単価が上げられると喜んだ。
債権者集会が開催され、和議が成立した昭和五十七年、第一回の債権者への配当がなされた昭和五十八年、カシオペア訪販事業は実に順調に推移した。
有働が新宿西口に東日本本部ビルを構えたいと言い出したのは、五十八年の春だった。
俊平はなみはや銀行の山村頭取に相談し、東京都内で幾つも月販デパートを経営する一族が持つ新宿西口ビル六階全フロアを借りることになった。それに要した資金は八千万円にも上る。解約返戻敷金はなみはや銀行の担保に入った。
カシオペア東日本本部が新宿西口ビルに入って、数ヶ月が経つと、近くの西口大ガードの歩道では、夜な夜な面白いものが見られ、通行人の話題となって、やがて夕刊紙にも取り上げられた。カシオペア新宿店が、今日の売上の悪かったセールスに、西口大ガードの下で毎夜正座させていたからだ。
カシオペア東日本本部が新宿に拠点を構えた昭和五十八年が、和議申請後の野須川寝具カシオペア訪販の全盛時代であった。
同年十二月、龍平に第二子が誕生した。次女の美千代である。
寝具の訪販業界にドアツードアではない販売形態が誕生したのはこの頃だった。
「リッチライフ」と称するこの団体は、磁気指圧敷布団と羽毛布団をセットにして、システム販売、購入者を次の販売者に仕立てるシステムで販売するのだ。いつしか参加者は、商品を欲しいから購入するのではなく、一儲けをする為に商品を購入するようになる。瞬く間に「リッチライフ」は全国規模に肥大化して行った。

商品企画会議で、龍平が提言した羽毛布団の販売価格逓減策が否決されたのもこの頃だ。
そして年が明け、昭和五十九年になる。
「リッチライフ」などにまさか売り負けする訳もないだろうが、次第にカシオペアの売上がじり貧に鳴り出した。
俊平は、野須川寝具でも流行のシステム販売を始めなければと思い出し、社内の反対を押し切って、龍平を製造担当から外し、カシオペア・ファミリーという名称で、リッチライフの後を追うように命じたのだ。カシオペア・ファミリーは同年四月から営業を開始した。
良い寝具を作って、製造直販で消費者に商品の良さを直接説明して拡げて行くという当初の俊平の使命感はどこかに消えてしまい、和議弁済が金科玉条の大義となってしまったようだ。
「リッチライフ」のような異常な高配当のシステム販売は、所詮ねずみ講の一形態であり、永遠に組織が大きくなって行ける筈がないのであって、大きくなればなるほど、行き詰まった時に配当が貰えなかった犠牲者の数を増やすだけなのである。
龍平は俊平に言われたから、形だけはスタートさせたが、リッチライフのように肥大化させる気は初めから無かった。
カシオペア・ファミリーは、同年十二月には早くも飽和状態を迎え、新たな会員獲得ができなくなり、解散した。

第六章 誰もいなくなる その⑥に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五章 誰もいなくなる その⑤に続く