第五章(和議倒産) その3 

(筆者が経営する羽曳野市の霊園のウイズ・ペット墓と言われる、ペットと人間が同じ墓地の中に納骨されるお墓のことだ。勿論、人の価値観は様々なので、このコーナーは一般の墓地とは隔離されている。二人の女性はモデルさんである。)

毛布を売り出すシーズンであり、防寒着を縫製するシーズンなのに、原料(原綿)の値上げを目論んで、他の合繊メーカーと足並みを合わせ、毛布や防寒着のタフト裏地を営業倉庫に保管して出庫を止めてしまった帝都紡績だったが、毛布については既に売買契約書を交わされているものが多く、確認できた品番から次々に出庫が許可されて行った。
しかし備後新市の五つ星衣料とは契約が交わされる直前に、帝都紡績が契約を禁じてしまったから、一切出庫は許可されず、防寒着の縫製が始まった備後地区は、裏地が続いて入庫しなければ、今シーズンの縫製が止まってしまうと大騒ぎになっていた。
帝都紡績が駄目なら北國産業からと思っても、北國産業側でも状況は同じで追加の裏地確保は困難を極めた。
龍平は同じ縫製業者として、備後地区の縫製工場の窮状が理解できるだけに、何度も帝都紡績アクリル部と交渉するのだが、今頑張らないとアクリル原綿やアクリル製品の値上げが不可能になると帝都紡績では信じているから、龍平の説得は徒労に終わるのだ。
龍平は意を決し、ひとりで責任を負って備後地区の防寒着の縫製業者救済に乗り出す決意を固めた。
野須川寝具の忠岡の毛布工場には、このタフト・ライナー(裏地)の生産は初めての挑戦だったから、ほんの少し傷が入ったB反が十パーセントも発生していたのを龍平は思い出す。そのB反を独断で五つ星衣料に出庫しようと思い立つのだ。龍平はB反を一反、新市に出荷し、それが到着する日に合わせて五つ星衣料に出張した。

五つ星衣料の仕入部長は、「A反、B反、C反の選別は誰が行ったのか」と尋ねた。
「その任に当たったのは、帝都紡績から弊社に出向している西村工場長です」と龍平が答えると、
「それなら安心だ。C反は要らんが、B反は全部買おう。すぐ送ってくれ」と部長は即答した。帝都紡績の品質管理の厳しさは業界では定評だった。
「傷の箇所には端にタグを付けていますが、やはりもう一度検反してから、裁断されるのでしょうね」と、申し訳なさそうに言う龍平に対し、
「お宅の生地は検反などしないし、傷の箇所もはねたりはしない。全部そのまま型紙に当てて裁断してしまう。裁断してからB級品を探してはねて行くのさ。多分儂の勘で、はねる裁断切れは殆ど出てこないと睨んでいるのさ。なにしろ帝紡さんの厳しい検査だからね。つまりB反からでも製品にすれば、A級品が生まれて来るのだよ。それに北國産業がいろんなメーカーのライナーをかき集めてくれたから、なんとか今シーズンの生産に必要な裏地は手配できるようだ」と五つ星衣料の部長は大声で笑う。

年が明け、日銀の金融引き締めの効果が出て、オイル・ショックは沈静化し、ナイロン、ポリエステル、アクリルの原綿価格を二倍にしようという話もどこかに消えてしまった。
慌てて帝都紡績は倉庫に保管していたタフト・ライナーの引き取り手を探すのだが、既に今期の防寒衣料の縫製シーズンは終了し、来季まで持ち越さなければならなかった。
毛布事業担当の牛山常務は、タフト・ライナーの処分に悩む帝都紡績の「とばっちり」を受けないよう、龍平のタフト・ライナー課を即座に解散させ、龍平の配属先を、俊平社長に相談するのだった。

龍平を毛布事業部から切り離そうというのは、帝都紡績への対策だけでなく、上司に相談もせず、今回の様な大胆な独断行動に出る営業マンを部下に持つことが、牛山には怖くなったこともあった。
余談ではあるが、このオイル・ショックがきっかけとなって、龍平の商売の競争相手だった北國産業は、原油の生産に強い関心を持つようになり、オイル・ショックの二年後に、カナダの石油精製のベンチャービジネスに手を出すのだが、それが後にこの商社の命取りになる。それから更に二年後、経営が破綻して、太平洋商事に吸収されたのだ。

龍平は配属先が決まるまで、毛布事業部の一員でいる間に、野須川寝具の毛布事業について最近持ち出した疑問を上司の牛山常務にぶつけてみた。
それは数日前のこと、太平洋商事大阪本社の寝具課を訪ねた時であるが、大阪の太平洋商事が、野須川寝具が新たに毛布の生産に進出したことにかなり批判的であることを知ったのだ。できる限り、野須川寝具の毛布を販売してやろうとする、太平洋商事東京本社寝具課とはまったく正反対だ。
純毛の織毛布の小売価格は五千円から高級品なら一万円以上したが、それに対するアクリル・タフト毛布は、いつしか軽量化競争、廉価競争となって、目付(目方)が一・三キロ以上あるものは二千円くらいだが、一・一キロなどの目付の、果たしてこれを毛布と言えるのかと思うタフト毛布が、量販店の売出しの目玉商品として九百八十円で売られる時代だった。
つまりアクリル・タフト毛布は最早暖かい寝具ではなく、布団の暖かさを補完する目的に使われるに過ぎない商品に成り下がっていたのである。

だからタフト毛布を扱えば、売上の確保は簡単だが、利益は期待できない商品になってしまっていたから、今更何故そんな儲からない商品に手を出すのか、と太平洋商事大阪本社は指摘したのだった。
牛山常務は笑って答えた。
「龍平君、それは大阪の太平洋商事の言う通りかもしれない。僕も毛布の担当になった時は、大変な業界に足を踏み入れたと随分悲嘆したものだ。確かに帝都紡績は、オイル・ショックであらゆる商品が品薄になったこの半年間、他の合繊メーカーと一緒になって、合繊の原綿の取引価格を二倍に吊り上げることで、原油の高騰に対処しようとしたが、それは見事に失敗して、恐らくこれから大きな損失を計上することになるのだろう。だがその間に帝紡アクリルと野須川寝具の毛布事業部は、次年度の毛布の戦略をしっかりと練って来たのだよ」
「忠岡工場の連続捺染機を使いこなせるようになって、総柄の素晴らしいプリント毛布の量産が可能になったことですね」
「ああ、君も工場で沢山の試作品が出来ているのを見たのだね。しかし今のタフト原反にあの連続捺染機を使う気は、俊平社長にも、僕にも、帝都紡績のアクリル部にも無いのだよ」
「それはどういうことなのですか。あんなに営業は、首を長くして総柄のプリント毛布の量産を待っているのに」
「もうひとつ、秘密兵器があるのさ。これを使えば、アクリル・タフト毛布が純毛の織毛布と同じような、否、きっとそれ以上の暖かさと嵩を出した毛布が出来るだろう。今までのタフト毛布の、布団の暖かさを補完するイメージは払しょくすることになるのだよ。つまりこれからは帝都紡績と野須川寝具が作る、新しいアクリル毛布一枚で眠る時代が来るのだ」

「もったいぶらないで教えて下さい。それは今のタフト機とは違う機械なのですね」
「そうだ。タフト機には違いないが、だがハイ・ゲージと言って、ゲージが全く違うのだ。タフテッドのピッチが違うと言えば、君にも分かるだろう。これで毛布を作ると、一枚二キロ前後の目付の毛布になる。掛け布団に代わる寝具の誕生だ」
「仕上げ風合いはどうなりますか。やはり同じシープ形状でしょうか」
シープ形状(シープ加工)と言うのは、羊の毛の様に無数の毛玉が並ぶ形状のことで、熱処理でアクリル繊維を強制的にピリングを起こさせ、形状を安定させる仕上げ方法をそう言った。
「龍平君、それは作ってみないと分からない。繊維の密度が全く違うのだから、シープ形状とは違う形状で上がってくるのではないだろうか」
「それは楽しみですね。形状が違う方が差別化できて売りやすいです」
「四十九年の秋冬は、このハイゲージ・タフト毛布だけ総柄にしろというのが、帝都紡績の方針なのだ。そして五十年には、今の旧いタフト機は全台放り出して生産する毛布の総てが総柄のハイゲージ・タフト毛布となる予定だ」
「因みに小売価格はいくらになるのでしょう」
「最低六千円だな。織毛布の普及品よりは高くなる訳だ」
昭和四十九年、そして昭和五十年の野須川寝具毛布事業部の製造と販売の実績は、牛山が龍平に話した戦略通りに進んで行った。ハイゲージ・タフト機で木綿あるいはレーヨンの基布に、アクリル糸を打ち混んだのを総柄で捺染して、起毛機を通し、タンブラーという熱蒸気をかけて仕上げる装置から出てき

た製品は、シープ加工のような羊の毛の形状にはならず、大型動物の毛皮の様に毛が総て立った状態だったので、流通段階では「ボア毛布」と名付け、喜び勇んで新製品の売出しを重ねて行った。
昭和五十年には、忠岡の毛布工場の生産量は、日産四千枚、即ち月産十万枚に達し、テイボーアクリル毛布の全盛時代を迎えた。

第五章 和議倒産 その④に続く