第九章(祈りの効用) その1
(筆者の職場にある屋内型永代供養墓。お墓を建てない、持たない方が増えて行く時代、そんな時代に適した故人様の埋葬や供養の在り方を模索している)
平成三年三月末、遅きに失するも、野須川寝具会長の俊平は、四ツ橋の雑居ビルの中で、かなり広い部屋を使っていた本社事務所を、四月から一番小さな部屋に賃借契約を変更することにした。これで家賃は約三分の一になる。本当ならもっと早くからそうすべきであった。
四月から使用を始めたその狭い部屋の賃借契約を二つに割って、宗教法人香川大社の大阪宗務局として、同じ部屋で四ツ橋ビルの家主と賃借契約を交わすよう、俊平に薦めたのは霊園開発の話を持って来た本田だった。
宗教法人香川大社は、届けられた住所は香川県高松市のままである。この変更は簡単には出来ない。香川県私学課で承認された宗教法人が、大阪府に移転するなら、一から大阪府私学課の審査と承認が必要で、それには何年かかるのか分からない。
宗教法人の大阪移転が間に合わない以上、そのまま香川県の宗教法人のままで、霊園開発を巡って厚生省の出先機関である、大阪府の環境衛生課と折衝をしなければならない。であれば大阪府の環境衛生課は、大阪の住所は知らないととぼけて、書類をわざと高松に送ってしまう可能性が大だからだ。だから本田が指摘した通り、大阪宗務局としてきちんと住所を届け、そこに郵便物が届くようにしておかなければならなかった。
しかしそうしたらそうしたで、府の環境衛生課が四ツ橋の事務所を訪れるかもしれない。俊平は慌てて事務所の中に大黒様を祀る祭壇を造った。大国主を本尊とする香川大社が大阪でも布教活動を開始したと見えるようにする為だ。
大国主即ち大黒天の木像は既製品を買ったのではない。神具店に頼んで特別に彫ってもらった。
宗教法人香川大社の創始者は、本尊の大黒天像まで俊平に渡すのを拒否していた。香川大社の大黒天の特徴は、左手は背中に背負った大きな袋の口をしっかり握りしめ、右手は打ち手の小槌を翳すのではなく、高く挙げて手のひらを大衆に示し、今から法を説くぞ、という姿勢であったそうだ。
俊平はその記憶通りの大黒天を仏師に彫ってもらった。
高さが三十センチにも満たない小さな木像ではあったが。
宗教法人の存在は何を以て示されるのだろうか。世間の人は、ご本尊の像や絵とともに、境内地や本堂と言った礼拝施設を思い浮かべるが、そんなものは絶対的に必要なものではない。
宗教法人とは、法人化が公認され、その名を以て不動産の取引をすることや、宗教を布教する為の基本的な財産を持つことが許される宗教団体である。法人である前に宗教団体であるのだ。つまり教えを説き、布教する側と、信徒信者の存在が基本なのである。
宗教法人は行政から公認されて初めて存在するが、監督官庁がチエックしながら厳しく観察する「宗教法人」とは、境内地でも、お堂でも、信徒たちでもなく、宗教法人としてこの様に運営していくと定めた各法人の「規則」そのものなのである。
もしも法人が霊園を経営しているのなら(その実態が名義貸しでも同じことだが)、その法人の規則には必ずやその事業目的や墓地の地番が詳細に記されている筈である。
宗教法人の創立に当たって、厳しいチエックを受け、公認された「規則」は、以後変更しようとすれば、再び監督官庁に申請し、その許可を得なければならない。
そして各宗教法人の「規則」は、最寄りの法務局に届けられる。だから宗教法人の謄本をとれば、どのような宗教系の団体なのかや、主たる事務所の住所も、代表者名も、法人創立の公認の日も、そして何か事業を営んでいるのなら、それについて詳しく謄本に掲載されている訳である。
香川大社の名義で、丹南町の山林(実態は四十五軒の住宅地の姿になっている)を霊園にするには、今回創始者から宗教法人を継承した俊平が、代表を務める民営企業が持つ大阪府丹南町の山林を使って霊園事業が出来るように、「香川大社規則」の変更の申請から始めなければならない。
こちらを扱うのは、厚生省の出先機関の府の環境衛生課ではなく、文化庁の出先期間である香川県の私学課である。
勿論、香川県私学課は、霊園事業を加える規則変更を申請されても、大阪府の環境衛生課が果たしてその事業を許認可するのかどうかを見据えながら検討することになる。
一方、府の環境衛生課は、付近住民が、この事業に同意するかどうかを見ている。このように霊園開発には、事業主がどんなに急ごうが、自然と何年もの時がかかってしまうものだ。
加えて説明するに「規則」変更の申請をするのは責任役員会である。代表役員は俊平だが、俊平個人が単独では「規則」の変更はできない仕組みになっている。
重要な規則変更(代表役員の変更、主たる住所の変更、新たに事業を開始すること、法人の資金を使って大きな買い物をすること等)をする時は、責任役員会議事録に全責任役員が実印を押して、印鑑証明を添付しなければ、規則変更の申請そのものができない。
「香川大社」の責任役員は、設立当初から七名と「規則」に定められている。代表役員の俊平も責任役員の一人である。
創設時代の責任役員は全員辞任していたから、新しい責任役員会には野須川寝具側からは龍平と池田と長村の三名が名を連ね、後の三名は関西石材の社長や役員が名を連ねることになった。
つまり野須川寝具の方が事業地の持ち主として、香川大社責任役員会では一票多く可決権を持っていた訳である。この申請体制について、なみはや銀行からも特に反論は無かった。
ただ土地の名義変更は許認可が降りる見通しがついてからだと、今すぐの名義変更は絶対に駄目だと銀行は言い切った。
なみはや銀行の意志を無視して、強引に香川大社に名義変更しても、そこについたなみはや銀行や浪銀ファイナンスの担保が解除されなければ、結局は事業の許認可は降りず、造成工事にも、販売にも入れないのだから、すべてなみはや銀行の意向を確認しながら進むしかないのである。
四月に入ると、俊平は再び藤井寺の不動産業者の黒田会長を訪ねた。
丹南町の桜台ニュータウンの住民の中から、申請地から半径三百メートル内に住む住民全員の同意書とりをお願いしたいという俊平の頼みには、黒田は自分たちにはそれは任が重すぎると即座に断った。しかし同意書取りには協力はしようと、また認可が降りたら、造成工事では協力しようと言った。
黒田は取り敢えず、あの土地を墓地に変えた図面を申請用に作成する作業を配下に命じた。
黒田会長は俊平に「駐車場はどうするの」と尋ねた。
俊平ははっとなった。駐車場のことなど全く考えていなかった。
「土地の三分の一くらいは駐車場にせなあかんと違うやろか」
「黒田会長、それはあきまへん。儂は銀行にあの三千坪の土地から、五千聖地の墓地を造成して、三十億で関西石材に売るんやと言ってしもてます。それが実際は面積が三分の二になるやなんて、今更銀行に言えまへん」
「野須川はん、それやったら、駐車場は賃借物件を用意して、そういう形で申請しなあかんやろ。今時駐車場の無い民営霊園なんてありまっかいな」
ちょうどそこに、あの土地を四十五軒の宅地に造成した丹南町の土建屋の西原建設がいた。
「おおい、西原、おまえさんに頼みがあるんや。野須川はんの山林を宅地にした時、おまえさんが谷を埋めてフラットな土地にした中で、野須川はんの土地に隣接していた土地の地主をおまえさんなら覚えてるやろ。そこへ行ってな、その土地を駐車場に借りる契約を交わして来てくれるか」
「会長、そやかてそこは今畑やってまっせ」
「そやから、実際に駐車場にするのは、もっと先やからと言うたらええんやろ」
「分かりました。明日でも行ってきます」
と西原はそそくさと出て行った。
「黒田会長、何から何まで、お世話になってすみません。前は浪銀ファイナンスが掛かった費用を後で清算してくれる保証がありましたが、今はバブルも弾けて、浪銀からは一銭たりとも金は出て来ません。だから会長、立て替えていただく金が清算できるのは、墓地の認可が降りて、墓地の販売が始まってからの話なのですよ」
「分かってるよ、あんたの苦しい状態は。それは実は儂も同じなんよ。世間ではバブルが弾けて、不動産価格が急降下したと、もう返済ができません、この土地全部持って行って下さいとか泣き言言ったり、開き直っている輩も多いが、黒田グループの看板背負って不動産業を営んで来た儂がどこへ逃げたら良いというんじゃ」
「政府はこの国からインフレが無くなる筈はないと思っているようで、実態価格より上がりすぎた土地価格を正常に戻すだけで、経済ショックは一時的だと楽観視していますが。政府の言う百兆円どころか、何百兆も国民の財産が失われる世の中に突っ込んで行くような気がしています」
「今出て行った西原なんかもそれが分かっていない。あいつは強気一本やった。あいつに言われて、価値のない不動産をつい高値で買ってしまった。昔は土地は必ず値が上がるものやった。だから土地を処分すれば利益も出るし借金も減った。今は処分しても、借金が残るだけや」
数日後、俊平は黒田と共に丹南町で不動産業を営む男の店に行った。黒田がこの男に同意書とりを頼んだらどうやと言い出したからである。この男は極道とは付き合いが無かったが、一見極道に見えるような怖さがあったて、住民から畏れられていたからだ。
その男は俊平にはっきりと言った。
「そんな仕事を引き受けるんやったら、初めから何億かの金を預かってからでないと動けまへん。しかもニュータウンの住民の心を変えるんやったら、二億円使ったからと言って、全員の同意書をとれるとは約束できまへんよ」
俊平と黒田は力を落として帰った。
俊平の破産逃れの霊園開発は前途多難のスタートだった。
さて龍平は四月のある日、大村淑子に連れられ、大阪教化部にある大阪府繁栄経営者会の事務局を訪ねる。
淑子が龍平を、自分が所属する北支部に入れようとしていた。
事務局長は年老いた講師だったが、新入会員をどこの支部に入れるかは自分で決めると言って中央支部を選んだ。
淑子には不満であったが、光明の家の大ベテラン講師には逆らえない。
「仕事が忙しい野須川さんにお役が回らぬ様、人材豊富な支部にしました」と老講師は笑った。
龍平は五月から中央支部の支部活動に参加することになる。
五月の中央支部の例会は、いつもの府の教育者会館ではなく、教化部に近い中華料理店での総会になっていた。
またある日、淑子は宇治の練成道場での短期練成を受けてみないかと言って来る。三泊四日で光明の家を学ぶ合宿だ。
「その方があなたの問題解決が早いと思うの」と淑子は明る笑った。
龍平は俊平がそんなことを許す筈がないと断る。
だが淑子も引き下がらない。その年のゴールデンウイークはたまたま四連休で、練成はすっぽりその中に入っていた。
「分かりました。大村さんがそんなに言うのなら、内緒で参加してみます」と返事する。
第九章 祈りの効用 その②に続く