第六章(誰もいなくなる) その3

(訪販事業部の東京本部のすぐ側にある新宿西口大ガード。ここで売れなかったセールスが、罰として正座させられる場面が連夜見られたので、厳しい営業会社だと夕刊紙にも取り上げられた。)

龍平は式場の祭壇の前まで進み、正面の壁に掲げられた有働健一の顔写真を見つめる。彼が得意だった演歌を音楽会社に頼んでCDにする時に、プロのカメラマンに撮ってもらったものだ。職場での鬼軍曹のような怖い顔ではなく、憧れの異性を見つめるような甘い表情だった。
龍平は彼の写真に向かって、「君のお蔭で僕たちはここまでこれたのだ。君がいなければ、三年に渡る約定弁済はおろか、和議そのものが認められず、成立しなかっただろう。ありがとう、もう僕たちのことは気に掛けず、安らかに眠りについてくれ」と心の中で語りかけた。

その夜、龍平は桜田部長に新宿のビジネスホテルまで送らせた。狭い部屋に一人きりになって、改めて有働の事故の話を思い出して見る。有働の死が偶然の事故に拠るものなのか、それとも自暴自棄になっての自殺だったのか、気になって仕方がなかった。
有働がいたからこそ、野須川寝具が破産を免れたことは事実である。しかしその有働が率いる訪販部隊を潰したのも、和議の弁済に追われるようになった野須川寝具なのだ、と龍平は腹立たしく思うのだ。
龍平と有働は一度、大喧嘩をしたことがあった。忘れもしない、昭和五十八年秋、新宿本部で全国の部長クラスを集めて開催した五十九年度商品企画会議だ。
その頃には、日本人の多くが掛け布団に羽毛布団を使用していた。それぐらい羽毛布団が普及したのは、やはり寝具訪販各社のセールスマンの説明販売の賜物だろう。

しかし龍平は羽毛布団の普及には早くから危機感を持っていた。家に一枚でも羽毛布団があれば、その良さが消費者に分かってしまうのだから、もう説明を聞く必要が無くなる。羽毛布団訪販の終焉の時期が迫っていると、龍平は感じていた。
間もなく消費者が羽毛布団を求めて店舗にやって来るようになる。説明を要しない商品だから、販売経費は下がってしまう。なれば小売上代を下げようする力が自然に働く。付加価値(経費に見合う粗利益)が下がるのだから、機能を落とさない範囲で資材、副資材が見直され、わざわざ高く見せようとしてきたものが総て剥がされるのだ。だから資材費も下がってしまう。
今後恐らく羽毛布団の店舗での小売上代は下がる一方になると龍平は見ていた。
であれば、スライドして訪販での羽毛布団価格も、今後は下げて行かなければならないと。
往時、有働常務は東日本の営業総責任者だったが、営業部門では最大の発言力の持ち主だった。
有働に龍平が電話でこの話をすると、「分かった。今度の商品会議で野須川常務からその話をしてくれて良いよ。今後カシオペアの羽毛布団は、毎年少しずつ値下げして行くことになるんだね」と了解したのだ。
ところが、当日、会議の中で、大和店を預かる坂上部長が挙手して「待って下さいよ、今後少しずつでも値が下がって行くなんて話したら、セールスは羽毛布団を売る気が無くなってしまいますよ。彼らは、はっきり言って、自分が貰う歩合給の為に仕事しているんですから。値下げなんて絶対に駄目です。値下げをしたら、歩合も下がるのですよね。生地か何かを変えて、もっと付加価値を付けて、今後もずっと値上げを続けてくれなければ駄目です」と発言し、有働常務を睨み付けた。
すると有働まで「本当だ、坂上君の言う通りだ。野須川常務は訪販を理解していないようだ」などと言ってしまった。

この後は龍平と有働の二人の常務同士の喧嘩になったが、俊平が有働の肩を持ったことで、一件落着となった。カシオペアでは今後も羽毛布団を値上げして行くと、龍平の思惑とは百八十度違う方向が決定した会議だった。
あの会議がカシオペアの分かれ道だった、と龍平は心の中で呟く。
龍平はその後、カシオペア事業の生産担当から外されることになった。ミツバチマーヤで無地の廉価の羽毛布団を扱うようになるのは、その会議から一年後の昭和五十九年の秋だった。
この頃、横浜天王町店に毎月一千万円売るセールスがいた。無論毎月全国一位である。
ところが昨年の昭和六十年一月、神奈川県消費者センターが、彼の売り方を押し売りだと認定し、同店の営業停止を命令した。
顧客はカシオペアの商品の良さには納得しても、その価格には顔を背ける時代に入ったのだ。商品企画チームに龍平はおらず、その価格を消費者に納得させる工夫を生む知恵が龍平の後継者には無かったことになる。
生産と販売という企業の二つの柱を、俊平は対等には見ず、常に販売を優先的に見て、仕事の出来る人材は総て販売側に回してしまった。生産などは誰でも出来ると、凡そメーカーの経営者としては相応しくない考えの持ち主だった。
そんな父、俊平の誤った価値観が、カシオペア事業を壊してしまったのだ、そうだ、父親や自分が有働をあそこまで追い詰め、泥酔状態にして殺してしまったのだ、と龍平はホテルのベッドに横になりながら、何時までも眠れずに考えていた。

明くる日、昨夜の通夜よりも参列者が減ってしまった淋しい告別式で、再び出会った桜田部長に、今後の目黒店を宜しく頼むと声を掛ける龍平だったが、桜田は怪訝な顔をして、
「常務、野須川寝具はカシオペアを一体どうしたかったのでしょう。カシオペアは野須川寝具の和議弁済の手段としての存在意義しか無かったのでしょうか」と返した。
龍平は驚いて桜田の顔を見直すのだった。龍平は何ひとつ反論できずに東京駅に向かった。
下りのひかり号の席につき、東京駅を発車して動き出すと、龍平はぼんやりと車窓を眺めながら、ふと五年前の和議申請の二日前の土曜の夕刻のことを思い出していた。
和議申請には全役員の捺印が必要だった。問題はその中でひとりだけ捺印をとても貰えそうにない人がいたことだ。
坂本功専務や日章帝紡合繊が組んで商社間で毛布の損失を遊泳させていたことが発覚した、昭和五十六年の一月以来、帝都紡績は、既に定年を迎えていたが顧問のような仕事で会社に残っていた吉本を野須川寝具に専務として送り込んでいた。
不思議な縁で、吉本は龍平とは親子程年は違ったが、たまたま同じ大学、同じ学部の先輩だった。
二人はすぐに親しくなり、大阪駅前ビルの中にある同大学の同窓会館クラブによく飲みに通った。
しかし四月以降、なみはや銀行側に付く野須川寝具と帝都紡績が険悪な関係になると、吉本専務は昼間のうちは会社におらず、どこかに出かけて時間を潰すことが多くなった。
八月二十九日土曜日の夕刻、部門長を集めて和議申請の方針を明かす時刻の一時間前、香川常務が外出先から帰ってきた吉本専務を呼び止め、
「和議を申請することに決まりましたので、専務も印鑑を持って来て下さい」と堂々と声を掛けた。

そこに親しい後輩の龍平が立っていたこともあり、香川の言い方も悪びれず堂々としていたので、吉本は「そうですか、遂に和議と決まりましたか、そうでしたか」と机から自分の印を持って来て、何の不審も抱かずに署名捺印をしたのだ。勿論帝都紡績の本社は、野須川寝具が和議申請の準備をしているとは、これっぽっちも想像していなかった時だ。
「月曜日は債権者が押し掛けるかもしれませんから、私は少し遅い目に出勤させていただきます」と吉本はさっさと帰ってしまった。
吉本は九月に入ると帝都紡績に戻ったが、帝都紡績の意志を確認せず、自分の判断で和議申請書に捺印をした責任をとり、間もなく退職したと龍平は聞いている。

 

第六章 誰もいなくなる その④に続く