第十章(自分が変われば世界が変わる) その10

(小説の霊園のモデルになった美原ロイヤルメモリアルパークの創設者の死後に出来た拡張墓地。ガーデニング墓地として設計された)

平成六年三月十一日金曜日午後一時、丹南町丹比地区の井川区長、丹南メモリアルパークに隣接する三軒、南河グループの黒田会長、山本石材、香川大社代表役員の野須川俊平、同宗教法人霊園事業顧問の本田の八名が丹南町丹比会館に集まった。
会合は僅か一時間ばかりで終わったという。
出席しなかった龍平はその時の会談の模様を後で本田から聞いている。
黒田会長は、先ずは三軒の家を代表する三名の男たちを睨み付け、「お前たち、山本には墓地に反対だと言っておきながら、後で反対の意思を取り消したと霊園側に言ったというのは、どういう了見だ」と大きな声で怒鳴った。
三軒は恐れをなして、「いえ、そんなことは申していません。同意するのかどうかは、山本さんにお任せしております」と蚊の鳴くような声で返答したそうだ。
すると本田は血相変えて、黒田会長の前に座り直し、「黒田会長、皆さんは会長のご威光を恐れて、ほんとうのことが言えないだけなのです」と切り出し、そこから十分以上、持論をしゃべりまくったそうだ。
黒田は理屈で議論するのが嫌いな性格だったから、本田には反論しようとも、これ以上聞こうともしなかった。
「おい、本田君、もうその辺で良いさ。それじゃあ、この件は儂が仕切らせてもらう。俊平さん、いいかい」と黒田は俊平の顔を見た。

目を瞑って本田の弁を聞いていた俊平は、はたと目を見開いて「黒田会長、どうぞ、おっしゃってみて下さい」と答える。
「俊平さん、悪いが山本に百聖地ばかり墓地をやってくれ。三軒の取り分もその中からにするから」
「ありがとうございます。ではそうさせていただきます」と俊平が頭を下げると、山本は驚いて黒田に泣きついた。
「百聖地の墓地やなんて、儂は権墓権が欲しかったんですわ」と言いかけると、黒田は再び不機嫌な顔になって「黙っとれ、この阿呆。儂の決めたことに要らぬ口出しすな」と山本に怒鳴ったかと思うと、表情を和らげ「そちらの三人さん、ここで同意書を書いて野州川代表に渡したって」と言った。
「黒田会長、ほんとうにありがとうございます」と俊平は深々と頭を下げた。
三軒は区長の見ている前で本田が持って来ていた用紙にサインした。
これで丹南メモリアルパークの工事と販売に必要な総ての同意書が揃う。
平成六年三月十一日は龍平にとって記念すべき日となった。
黒田の考えが変わったのには事情がある。俊平が宅地開発をした時に、数十坪の開発の出目分を俊平の了解をとって、黒田は西の奥に分筆して自分の土地にしていた。
丹比地区の人々は、霊園になる土地が山だった昔、中央に道があって東西に自由に歩いていたのだから、住民が東西に移動できる道を霊園から出してくれと条件を付けてきたのだ。そこで仕方無く俊平は北の境界線に沿って昔あった小径の代わりに四メートル幅の道を付けることにした。その時、黒田の土地に進入路を確保するように設計した。それを黒田が見ていたのだ。

元々三千坪あった土地は桜台西自治会の要求で公園にとって、更に丹比地区の要求で道をとった時、霊園として残る面積は二千二百坪になった。
ところが、丹比地区の要求で造った道の為、霊園が二つに分割され、西の端に三角形の五百坪が離れ小島のようになってしまった。
俊平はとりあえず、その三角地を外して、一千七百坪だけを霊園にすることにする。

さて丹比会館での対談の日の二日後、龍平に衝撃的な日がやって来る。
親友の徳山が、容態が良くなったからと大阪の病院を退院し、生駒山麓枚岡の自宅に戻ったということで、早速龍平は父親と共に枚岡の彼の自宅に見舞いに行った。
そこで徳山の細君から、病状の真相を聞かされ、龍平も俊平も絶句する。
徳山はスキルス胃癌だった。しかも今日からだと余命は一ヶ月だそうだ。もう処置の方法がないからと病院は彼を自宅に帰したのだった。
俊平は怒りに任せて徳山の妻を叱った。
「何故、最初からそれを儂に教えてくれなかったのだ。半年前に聞いていたら、日本の最も優秀な医者に診せてやれたものを。儂は康男を実の息子のように思ってきたのや。だからどんなことをしても、最高の治療を受けさせてやりたかった。今頃言われても、どうにもならんやないか」
三人は大声で泣いた。
龍平はふとそこで、昨年の十二月に倒産した九州では有名な老舗の寝具メーカーのことを思い出す。

倒産した日、深夜まで家族は寝ずに待っていたが、遂に社長は朝まで自宅に戻らなかった。朝、債権者が工場の鴨居にロープをかけ、首を吊った社長の遺体を発見する。
初めは倒産を苦にした自殺だと思われていたが、町金業者がこの社長に多額の生命保険をかけていたことが判明し、社長の死は事件になって、警察が調べることになった。
この社長は銀行から運転資金を借りられなくなると高利の町金に走ったようだ。世間は、倒産した夜、手荒な極道に自殺を無理強いさせられたのだろうと噂しあった。
龍平には他人事ではない。まかり間違えば、自分が極道の坪井らに保険をかけられ、無理矢理八幡工場で首を吊らされていたかもしれないのだ。
それを救ったのは、今命を失いかけている徳山康男ことホン・カンナムだった。
在日韓国人が日本人の経済苦を救う、こんなエピソードが他にもあるのだろうか。

三月十九日、徳山は意識をとりもどして、しゃべれそうだと細君から連絡が入ったから、龍平は父親と共に再び枚岡に行った。
だが互いに顔を見合わしただけで、この日は抗がん剤の副作用か、苦しそうな彼にとてもしゃべらせることなど出来なかった。
四月二日、徳山の細君から「本人が龍平さんに聞きたいことがあると言っていますから、龍平さんだけすぐに来て貰えるでしょうか」と連絡が入った。徳山は本人の希望で中古自動車の会社の東大阪の本社で寝ているとのことだった。

徳山は力を振り絞って布団から起き上がり「兄貴、霊園開発はどうなっている」と尋ねた。横から細君が「同意書が全部揃って、販売が始まったと言ったじゃない」と口を出したが、徳山は「お前は黙っていてくれないか。俺は兄貴に聞いているんや」と細君を叱った。
龍平は徳山の枕元に座り直し「その通りだ。一月に桜台西、二月には丹比地区、そして前月の十一日、黒田会長や山本石材と話をつけ、隣接三軒の同意書をもらったんだ。だから工事と販売に必要な同意書五点セットは全部揃った。今は部分竣工の検査が通り、ごく一部だが墓地の販売も始めているんだ」
「そうか、本当なんやな。本当なら、こんなに嬉しいことはない。だが兄貴、俺がもうすぐあの世に行くと思って、嫁はんと結託して嘘ついて俺を安心させようとしているんやないやろな」
「なんで僕が君に嘘つかなあかんのや。あの世に行くなんて、そんな気弱でどうするんや」
「じゃあ、ほんまにほんまなんやな。そうか、万々歳や。悪いな、俺疲れたからちょっと寝るわ。急に兄貴を呼びつけて悪かったな」と徳山は横になったかと思うと、すぐに鼾をかいて眠ってしまった。

徳山康男は四月七日の深夜に息をひきとった。細君は龍平に一時間後、八日の午前一時過ぎに電話で知らせて来る。龍平は徳山との思い出を次から次へと思いだし、朝まで一睡もできずにいた。八日の夜が通夜、九日が告別式だった。龍平が弔辞を読む。龍平は中国古典の「史記」の中から、漢の高祖との決戦に敗れて自決を決意するも、この愛妻をどうしようかと悩む楚王項羽の辞世の詩を引用した。(力は山を抜き、志は天下を覆うのに、時の運に恵まれず、愛馬はもう走れない。愛馬が走れないのはよいとして、愛妻の虞(ぐ)はどうしよう。汝をどうしようか・・・の意味の詩である)

桜台西自治会と丹比地区の同意書を得られたとは言っても、両自治会は霊園側に協賛金を要求した。俊平は桜台には即金で支払ったが、丹比地区には分割でしか払えず、その支払いに俊平は一年以上かかっている。
工事をしながらの墓地販売であるし、販売事務所は仮設小屋であったから、いくらチラシを打っても見学客はそう集まらず、平成六年の毎月の墓地代の入金は数百万円でしかなかった。
分割で工事代を払うと言っても、工事業者が満足する支払額に遠く及ばない時期が続いた。
工事業者が当初出して来た一千七百坪の墓地造成費の見積もりは、一億六千万円だ。
この工事業者は霊園造成にも寺院建築にも経験があったので、実に要領よく工事を進め、平成六年の十月十七日には工事の完了検査を受けるに至った。
この日が丹南メモリアルパークの第一期工事完成の日として記録される。
直ちに四国の高松に行き、宗教法人香川大社の、新たなる事業開始に伴う規則変更の手続きに入った。
龍平たちの給与が元の水準に戻されたのはこの十月だ。
丹南メモリアルパークの造成工事の完了検査に合格しても、これで工事が終わった訳ではない。
工事業者は要領よく、完了検査を通す為の最小限度の工事を終わらせたに過ぎなかった。
恐らくは一億六千万円の見積の内、一億くらいまでの工事をしたに過ぎなかったであろう。
工事はそれからも半年続いた。だが結局は一億三千万円くらいまで工事をして業者は中途で止めてしまう。野州川寝具側がその分割払いにあまりに苦しむのを見かねてのことだ。結局造成費の支払いのけりがつくのは工事を始めて二年も先のことになる。

平成元年から平成五年までの五年間、父親に内緒の仕入支払が発端となって、龍平は借金の返済に苦しんだが、霊園が開園した平成六年からの数年間、今度は俊平が、造成工事費や、四千万の管理棟建築費など、合わせて二億近い支払に追われ、毎月毎月ずっと苦しみ続けた。
工場内の機械や什器の処分はどうなっていたのだろう。
実は製綿プラントは平成六年の春に処分されていた。だが野州川寝具はその代金を受け取れなかった。プラントを最終的に分けてくれと言ってきたのは和議債権があった商社である。野須川寝具から太平洋商事が逃げ去った後に主力商社となった商社だが、その直後の和議に巻き込まれた。
八幡工場に下位の担保をつけていたが、裁判所はその大部分がカットすべき和議債権だと認定した。以後それが納得いかず、債権を償却もせず、バブル時に工場の売却資金から返済された金額も、そこから差し引いただけだった。だがこの商社もいよいよけりをつけたいとプラントを無償で譲り受けることで和議債権を全額損金にしたいと言ってきた。俊平は仕方無く応じたのである。ここでも、一つの和解が成ったとは言えるだろう。
平成六年の開園から毎月毎月、霊園経営のストレスに苦しんだことが、確実に俊平の生命を縮めた。かつては息子の龍平が本業の資金繰りに苦しむ間、のほほんと社内の最高額の給与を取り続け、厚生年金まで受給されていた俊平だから、因果応報と言えないこともないだろう。しかしながら俊平は経済的に苦しい境遇に運命的に落ち込んだのではなく、自らの意志で苦痛の運命を選んだと言う方が正しいのである。龍平がそんな父親の心を知るのは、開園から六年後、俊平が病に冒され、余命いくばくもないと医者に聞かされる時である。
                                    

第十章(最終章) 自分が変われば世界が変わる その⑪に続く