第六章(誰もいなくなる) その7
(筆者が経営する羽曳野の霊園のバラ園。池田厚司氏撮影)
大阪に戻った龍平は、カシオペア事業の継続が、プロのセールスからカリスマ的な指揮官に見えていた有働常務が亡くなった今となっては、残った者でプロセールスを纏めてやり直すのは不可能だと思うと報告した。
俊平の思いも同じだったのか、反論もせず、経理部長の林に、東京、大阪に残った訪販拠点の閉鎖に掛かるよう命じた。売上が望めないのであれば、早く訪販拠点にいる従業員を解雇して、人件費や営業経費と言った資金の流出を止めなければならない。
その年、昭和六十一年一月の月末には、林部長が走り回って、東京目黒店、大阪難波店、そして八幡工場内の冷凍食品宅配部隊の拠点と、龍平が責任者だった健康食品のシステム販売の心斎橋サロンの閉鎖が完了した。
登記上の本店所在地の中央区大川町の淀屋橋ビルは、既に半年前、英会話学校が袂を分かって出て行く時に、賃借契約は解約され、家主の損保会社に返却されていた。
二月に入ると俊平は、それまでの近鉄奈良線の地下ターミナルと隣接する難波戎橋に生保会社が新しく建てたビルの二フロアを賃借していたのを解約し、都心のメイン通り、御堂筋の裏になる四つ橋筋の旧い雑居ビル、堀江ビルの一室に本社事務所を移転させた。勿論、これも経費削減の一環だ。
野須川寝具は、これで大阪市西区北堀江の雑居ビルにある本社と八幡工場と、開発調整区域内にあるが故の遊休資産、美原町山林だけになった。
そんな状況に追い詰められても、俊平は気を落とさず、有働に代わって自ら営業を立て直そうとした。
本社の若い幹部社員に相談もせず、ただの思いつきであったのだろうが、俊平は寝具小売店への羽毛布団の製造直売に挑戦して八幡工場を稼働して行こうと言い出した。
給与は既に支給を止められていたが、会社に来るのは自由だと俊平に言われ、定年を過ぎた長村は、変わらず奉仕で本社勤めを続けていたが、常にイエスマンだ。俊平の提案を褒めるのは長村だけで、後の若い幹部社員たちは、龍平も、経理部長の林も、そのアシスタントを務める池田も、工場の生産管理をする土田も、全員俊平の提案には反対した。
人が睡眠をとる為に必要な様々な商品を揃えなければならない寝具小売店が、羽毛布団だけを一社から買うというのは考えられない。
すると俊平は「それなら良い、儂が別のスタッフに挑戦させると。それがうまく行ったら、お前達は全員馘首(くび)だ」と憤慨した。
俊平が新たに入社させた営業は、北海道から逃げるように大阪にやって来た河野だった。昔、北海道カシオペアの社長だった男である。
河野は野須川寝具が、なみはや銀行の指示で和議申請した時に、手のひら返して倒産した会社から商品は買えないなどと宣言した恩知らずの男である。
そんな誠心の無い男を何故父は怒りもせず、再び一緒に仕事をしようと言うのか、どうせ再び裏切られるに違いないと、龍平は訝しく思いながら、親のすることを眺めていた。
野須川寝具の俊平会長の監督指導の下を離れ、自由気ままに経営した北海道カシオペアは、やがて経営が行き詰まり、結局会社は他人に売却されることになった。
売却した金で河野が始めたのは、札幌市内でのサウナ風呂だった。
だが彼の不実な行いの悪業(ごう)に因果が巡ったか、間もなく河野は、自分のサウナ風呂で、絶対にあってはならない人身事故を起こした。悲劇の客は泥酔していたようだ。悪いことは重なるもので、なんとそれが暴力団の関係者だったという。
保険で下りた金の保障では許してもらえず、サウナ風呂も何もかも失った河野は、それでもまだ彼から金をむしり獲ろうとする暴力団から、逃げるようにして大阪までやって来て、恥も外聞も無く、嘗て自分が見捨てた俊平に再び縋ったのである。
俊平は新しい生地屋を呼んで、自分で柄を選定し、土田にそれで羽毛布団を作らせた。野須川寝具が訪販に代わる新しい事業を模索するにも、実はそれに立ちはだかる深刻な問題があった。生産担当から解任された龍平が暫く離れていた八幡工場では、俊平に強要されて数字上の収益ばかりを達成しようとして、在庫の調整など殆ど行わずに、行く所の無い製品在庫に加え、閉店した店から戻った製品在庫に仕掛在庫まで抱えているくらいだったら、未払いの原材料の買掛金が四千万円を超える状態だったから、その支払いを済ませなければ、これまでの仕入れ先から原材料を更に調達するのは不可能なことだったのだ。
しかも冷凍食品のメーカーである大正乳業にも最後の一ヶ月分の買掛金と、健康食品のメーカーからは最後の二ヶ月分の買掛金もが未払いのままだった。
工場の買掛金を残したのは土田の責任だ。土田にこの責任をとれと言っても、とれる問題ではなく、原因は土田と言うより、元はと言えば、会長の俊平が作ったのだ。
買掛金の問題には知らぬふりを決める俊平は、工場で作った新しい柄の羽毛布団の写真を撮らせ、カタログを作るよう命じた。
カタログが出来ると、俊平は河野、林、土田に龍平の四名を呼び、手分けしてこのカタログを持って、大阪府内の寝具店を片っ端から回るように命じる。
林は、そんなやり方で成果を上げることは自分には出来ませんと、別の方法で八幡工場を稼働させて見せますと言い切った。
龍平は、俊平から言われる通り、市内の寝具店を回ってみる。
だが、どこの店に行っても同じだ。個人が経営する寝具店は隆々と儲けている店は少なく、多くが不足する運転資金を問屋への支払いを待ってもらう形で捻出していた。月末に問屋に支払う仕入れ代金は、何ヶ月も前に仕入れした商品の代金だ。それでも他からは買わないと言うのなら、問屋は喜んで数ヶ月遅れの入金に甘んじていた。
だから仕入れ価格が多少安いからと言って、メーカー直に羽毛布団を仕入れようとする個人経営の寝具店は一軒もない。
そんなことは、やってみるまでも無く、初めから分かりきったことだ。
ただ野須川寝具には生産を生まない時間が無駄に経過して行くだけだった。
八幡工場に仕事をもたらしたのは経理部長の林だけだ。彼は東京でカシオペア販売店の残党を探しだし、その中で昔の仲間を集めて寝具の訪販会社を創った人間がいるのを見つけて、その会社の注文をとって来た。
また林は部下の女性事務員らを連れて企業を回り、職域販売で工場在庫を資金化して行った。しかし林一人がいくら頑張っても、俊平会長を始め、従業員に残らず給与を払うには資金が不足した。
林とはそりが合わず、口もききたくなかった常務の龍平だが、ついに辛抱できずに「龍平常務、あなたも本社の営業の長だったのなら、この資金不足に知らぬ顔はないだろう」と財務部への協力を要請した。
仕方なく、龍平はこんなこともあろうと、人から聞いていたバッタ屋(零細の現金問屋)を思い出し、電話で工場に呼び出して、在庫の羽毛布団の処分売りを行った。
俊平には内緒だったが、今は林部長の資金繰りを助けなければならない。
このバッタ屋は龍平と同い年の、浪速区の現金問屋が経営するデイスカウントストアのバイヤーをしていた男で、羽毛布団をメーカーから直接買えるとは有り難いと言って、トラック一杯積み込んで、その場で現金払いしてくれたから、大きな顔をして、林部長に札束を渡してやることが出来た。
嘗て寝具の山本の肌布団を生産し、全国一の毛布生産量を誇った野須川寝具産業のなれの果てが、バッタ屋風情に汗水垂らして作った製品と引き換えに数百万の現金をもらって喜ばねばならないとは、とても龍平は父親に言えることではなかった。
四月のある日、思いついたように俊平は龍平を呼び、「東京の山本産業の副社長に会って来い。儂の手紙を見せて、仕事をもらって来るのだ」と突然の東京出張を命じた。
山本産業は、全国の寝具の山本チエーン店と、大阪山本、京都山本、昭和山本などの問屋の上に、徳川家康公の時代の発祥企業として君臨する老舗の大企業だ。
俊平は嘗て何かの商売で、山本産業の副社長に貸しがあることでも思い出したのかもしれない。
龍平は明くる日、早速俊平のメッセージを携え、東京日本橋の山本産業の本社ビルに副社長を訪ねた。
前もってアポをとっていたので、龍平は丁重に役員室に通された。
副社長は俊平の手紙を丁寧に読んでいたが、読み終わるとそっと龍平に突き返すのだった。
「野須川寝具の御曹司、失礼ながら、お父上のお手紙に、私たちはお返事出来ません。その辺りの事情、御曹司様にはご賢察いただきたく、御社からのお申し入れのこと、初めから無かったことにしていただいて、誠に申し訳ありませんが、お茶を飲んで下さった後、玄関までお見送りいたしますので、このまま黙ってお帰り願いたいのです」
副社長やその他の幹部社員に見送られて玄関に出て見れば、手際よくチケットを渡されたタクシーが龍平を待っていた。
何の成果もなく、龍平が大阪に戻って来ると、寝具店回りを二ヶ月ばかり続けていた河野が、ヤクザのような本性を現し、上司の俊平に入社の約束違いだと怒鳴りこんで来た。
第六章 誰もいなくなる その⑧に続く