第七章(終わりなき闇夜)その2

(大阪市西区北堀江北端のビルに入る運動靴メーカー、ニューバランス。同社は池井戸潤が小説「陸王」を書くに当たって参考にした新興の企業である。対称的なのはビルの建築主だ。ある地銀系ノンバンクが、自社ビルとしてバブル期に建築を開始したが、竣工した時には既に瀕死の状態だった)

さてベストライフ社がこれまでの様に新規会員が獲得できなくなって、資金繰りが行き詰まり、会員に配当ができなくなりつつあった昭和六十三年(一九八八年)六月、京浜間のJR某駅西口再開発における便宜供与(同所の法定容積率の拡大)を目的として、その市の助役に、就職情報と住宅情報を提供する上場会社の子会社株が譲渡されたことを、朝日新聞が「一億円利益供与疑惑」としてスクープした。
翌七月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、歴代の総理や、与党民自党幹事長、同党政調会長、同党各派領袖らに、昭和六十一年に店頭公開されたその子会社の未公開株が、昭和五十九年十二月から翌六十年六月にかけて、上記就職情報社の創業者から譲渡されていたことが発覚した。譲渡者の売却益は、合計六億円だった。戦後最大の贈収賄事件である。国民は呆れかえり、政財界の指導者たちに失望した。
事件の捜査は翌年平成元年の五月まで続き、求職情報会社の創業者、複数の労働省官僚、民自党代議士、そして総理経験者たちの多数の秘書が逮捕起訴され、六月三日に竹村内閣は総辞職した。

国民がこの贈収賄事件で大騒ぎをし、政財界に失望する中、龍平は十月に、西国三十三カ所の中で、那智大社に次いで遠い、三十三番札所の岐阜の谷汲山華厳寺を家族でお参りして、観音霊場西国三十三箇寺総ての集印を終えた。総て終えたと言っても、中には実際に行かずに、デパートで開催された西国三十三カ所展に出張して来た辺鄙(へんぴ)な寺の印を貰ったのが、二個寺あったし、琵琶湖の竹生島に一人でぶらっと行ってみたいと言い出す母親に集印を頼んだこともあった。

八月にベストライフ社への羽毛布団、指圧布団の二百セットの代金の二千五百万円を、壺井が龍平への貸付残高の百数十万円と金利を差し引いて送金して来た時に、「これを以てベストライフ社への商売を止めよ」との声なき声を聞いた龍平は、以後同社関連の資材購入を瞬時に止めた。だから九月に同社が破産しても、資材ロスによる損失は一切発生しなかった。
そろそろ潰れそうだ、くらいは誰もが思っただろうが、「止めるのは今だ!」との直感が龍平に働いたからこその損失ゼロであった。
東京の壺井も、龍平の直感に素直に従い、最後の最後まで現金引き換え決済を強行したので、配当は別だが、売掛金の取りはぐれは生じなかった。
龍平は、何か目に見えない力に守られていると再び考えるようになる。
神仏に真摯に祈りさえすれば、その願いは叶えられるのかもしれない。だが祈りを聞くか聞かないかは、神のみが決めることで、願望を叶えるよう祈って神を利用するのは、信仰から反って遠い道だと教えられたことが、その後のトラウマにもなってきた龍平だったが、その心が、少しずつだが動き出したようだ。
岐阜の華厳寺では、ベストライフ社に代わる売上入金が得られる新しい得意先が現れますようにと、龍平は真剣に祈った。
しかし自分の祈りは、神仏に通じなかったと、少なくとも、龍平はそう思って落胆した。
やはり神仏は祈りを聞かれる時と、聞かれない時があるのだ。
祈りを聞くのか、突き放すのかは、神が決められることだと、大学の教養部時代にカソリックの友人から教えられた。

龍平は小学校時代に身体が弱く、五年生と六年生のどちらも夏休みの中だが大病を患い、学校も二年合わせて五ヶ月も休んでいる。
主治医さえ「この子は成人式を迎えられぬかもしれないから、できるだけ好きなことをさせてやって欲しい」と俊平夫婦に告げた程だ。
それをとんでもないと、この子の身体を再び強靱にしなければと、母親が病み上がりの龍平を、ボーイスカウト奈良第十団に入団させ、鍛え治させたのだ。
それが龍平とキリスト教を結びつける縁になる。このボーイスカウト奈良第十団のスポンサーは、奈良市学園北の改革派のキリスト教会だった。
だから入団した途端、龍平には教会の日曜礼拝に参加するよう強要されることになる。だが龍平も素直に日曜礼拝には参加しなかった。
龍平が渋々キリスト教会の日曜礼拝に参加したのは、入団して半年が経った中学一年生の春だ。そこで牧師さんから聴かされた話が、旧約聖書の「カインとアベルの話」だった。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の世界では、人類の始祖は、神が自分の姿に似せて創られたアダムであり、妻はアダムの骨から生まれたイブであるが、彼らが神の怒りを買ってエデン(天国)から追放された後に生まれてきた兄弟がカインとアベルであった。
二人は成長し、カインは農夫となり、アベルは羊飼いとなった。彼らは最初の収穫物を得た時に、それぞれの祭壇に、野菜や、羊の肉を供えて、神に感謝の祈りを捧げた。
しかし神はアベルの羊の肉は快く受け入れたが、カインの野菜の方は要らんと突っ返したとの話になっている。

龍平には、その聖書の記述を、神がアベルの祈りは聞かれたけれども、カインの祈りは聞かれなかったという意味に解した。
考えて見れば、確かに神は祈れば、誰の願いでも総て聞き届けて下さる訳ではない。
それでは神はどんな理由で、祈りを聞く者と、突き放す者とを分けられるのだろう、と龍平は、その後も疑問に思い続けた。
それが神への信仰の篤さの違いなら話は分かりやすい。しかし実際は違うのだ。オリンピックに出場する選手の多くが金メダルが獲れますようにと神に祈るだろう。しかし金メダルを獲れる人は、レースの中の一人に過ぎない、必ずしも、その人物が一番の神の信仰家ではないのは誰もが知ることだ。
では神は何を基準にして、人を選ばれるか。大学の教養部で知り合ったカソリックを信仰する友人が、龍平の疑問にこう答えた。それが神の御計い(みはからい)、つまり神の御意志なのだと。そして神の御計らいに疑問や不満を持ってはならない、もしも疑問や不満を持てば、その人間はカインのように犯罪者になるしかないと。
カインは、神の愛が兄弟のアベルに偏ったのを嫉妬して、アベルを殺害したために、神によってエデンの東のノドの地に追いやられるのだ。

野須川寝具の昭和六十三年秋の資金繰りの話に戻ろう。
ただ龍平は知らずとも、実は会社に一千八百万円もの臨時収入が月末に振り込まれたのだ。龍平の祈りは、ちゃんと神に届いていたのかもしれない。

父親の俊平が経理の池田に、その臨時収入の入金のことは、営業部に漏らすなと口止めしていた。
それは長い長い裁判によって生まれた和解の産物だ。有働が訪販事業担当常務だった昭和五十九年から、俊平は副業で一儲けしようと、資金援助を求めて転がり込んできた英会話学校に、当座の運転資金や淀屋橋ビルの部屋を提供してやった。だが返済は一切無く、次々に新たな資金を注ぎ込まねばならなくなって、三千六百万円もの貸付残高になった時に、もうこれ以上は無理だと、英会話学校の方から縁を切ってもらわなければならなかった。
その後、訪販事業が行き詰まって資金が要るようになると、俊平は昔の英会話学校への貸付金を回収しなければと裁判を起こしたのだ。そこで英会話学校は、裁判の結審を待たずして、野須川寝具から借りていた資金の内、半分を一括返済することで和解したのであった。
余談ではあるが、この支払いが原因なのか、翌年にはこの英会話学校は受講生から多額の授業料を預かりながら倒産するのである。
しかしこの英会話学校との和解のことは全く知らされず、十月に龍平は仕入れ先に、一ヶ月だけ支払いを待ってくれと頭を下げて頼んで回っていた。
俊平が英会話学校に使った三千六百万円は、元はと言えば、カシオペア訪販事業が稼いだ金だ。
その訪販事業が胡散霧消した昭和六十一年一月の原材料の買掛金残高も殆ど同額だった。俊平がそんな要らぬことをしていなければ、カシオペア事業は債務も残さず、きれいに消えていたことになり、その後の龍平の重寝具の製造卸の仕事もマイナスからでは無く、ゼロから気持ちよくスタートできたのだ。

そんなことを知ってか、知らずか、俊平はこの金は今から自分が始める副業の元手にしようと、本業を営む龍平たちに使わせないようにした。尤も、龍平に原材料を売った業者が、四ツ橋ビルに乗り込んで来たら、この金を使わなければならないだろうと俊平は一応の覚悟はしていた。
一方、右腕の社員を俊平が解雇したことを、ずっと怨んでいた龍平は、どんなに原材料の支払いに窮しても、父親の俊平にだけは相談したくなかった。これ以上、自分たちの営業に俊平が口出しさせてはならないと思い詰めていたからである。

自然科学が人類の発展に、この上なく貢献するようになったが、昭和の末期から平成初期にかけて、人は反面、精神的な幸福感が得られず、各所の書店では、精神科学の書物が数多く並べられ、国民の多くがヨガや瞑想に誘う本を競って買い求めていた。
龍平が阪急梅田の紀伊國屋書店で、昭和に始まる新興宗教団体「光明の家」が、聖典として出版していた「生命の光」全四十巻の第一巻を、ふと何気なく手にしたのはそんな時だった。
母方の祖父が、生前信者だった記憶も、龍平の宗教団体への警戒感を解いていた。
しかし中に書いてある「人間は肉体ではなく、霊であり、生命そのものだ」「物質はない」「肉体はない」「病もない」と説くその書を読んで、龍平はまったく書かれていることの意味が理解できず、それどころか「やれやれ、やはり宗教団体というのは、精神病者の集まりなのか。これは結局、洗脳書ではあるまいか」とは思うものの、ただ何か不思議な魅力が、意味が分からずとも、第二巻も読んでみたいと、龍平を引きつけて放さなかった。

丁度その頃、龍平に新しい得意先が出来た。
それは野須川寝具の毛布の得意先だった瑞穂花井商事の寝具部部長として定年退職し、退職金で大阪市内に寝具販売会社「大村商店」を創った大村だった。瑞穂花井は、龍平がいた太平洋商事と航空自衛隊の戦闘機の入札を巡って争ったことが小説にもなった商社であって、大学時代の四年間、日常的に交際があった恋人桂綾子が、兵庫県の短大を出た後に、上場会社の男と見合結婚するまでの二年間を勤めた商社でもあるので、龍平には因縁のある会社であった。
大村は常に親子程年が違う、若い後妻の淑子と二人で、龍平たちがいる四ツ橋の事務所を訪れていた。大村は俊平と同世代。妻の淑子は龍平と同世代である、この時、大村も淑子も知らぬことだが、大村の身体は重い病魔に冒され、遠からずこの世を去る運命にあったが、その大村の寿命を縮めたのがこの自分だと、一生淑子の前で龍平が自分を責めなければならなくなるのは、この一年後のことだ。
大村商店が、この頃龍平に発注したのは、奈良県南部のレジャーセンターにある温泉付きホテルの全部屋の羽毛掛布団と固綿敷布団だった。ベストライフ社の仕事が無くなって困っていた矢先だったので、龍平は大いに助けられた。
十一月に入ると、十月末に支払いを延ばされた東京の羽毛原料商の浜社長から電話が入った。十一月には絶対、一千万円以上払ってほしい、でないと取引は終了だと。それを約束させられた龍平は、覚悟を決め、会社の謄本を持って、取引の無い、事務所の近所の都市銀行で、俊平には内緒の普通預金の会社の別口座を開設した。
それから東京の壺井に電話してアポをとる。月末の支払いは、俊平には一切相談せず、自分ひとりで処理しようと腹を決めたのだった。

たまたま仕事で四ツ橋にやって来た大村淑子が、龍平の机の上にあった光明の家の聖典「生命の光」に気づいて、「なんだ龍平社長も光明の家の信徒さんだったのですか。私もそうなんですよ」と話しかけて来たので、龍平は慌てて「いいえ、私は信徒なんかではありません」と答えた。
すると「それじゃあ、今度、光明の家の講演会があるのですよ。私と一緒に行きませんか」と淑子は誘って来た。
「いいえ、私はそういうつもりで、これを読んでいるのではありません。申し訳ありませんが、そんな誘いは今後一切お断りいたします」と龍平はきっぱり拒絶した。
確かに神仏に縋りたい気持ちを持ち始めた龍平ではあったが、宗教団体に入るつもりはまったく無かったのだ。

第七章 終わりなき闇夜 その③ に続く