第二章(個別訪問セールス)その11
(訪販事業部の初期のカタログから。最初は毛布工場の製品も扱っていた。)
カシオペア事業部に配属された社員たちは、準備期間の間、それぞれ別の部署で働き、そこで給与を貰っていた。因みに龍平は、アクリルタフト衣料の開発販売担当を解任された十二月以降は、財務本部で経理や銀行業務を手伝い
ながら、事務の機械化というプロジェクトにもひとりで取り組んでいた。それは一年前に俊平が龍平に命じたことだった。
つまり野須川寝具の経理部にビジネス・コンピューターを入れろということだ。
世の流れがそうであるから、それに沿いたいという俊平の「思いつき」からであって、俊平はビジコンとは何かをよく理解してはいなかった。
龍平が一年がかりで機種を選定し、日本IBC社の一千万円のビジコンをリースで購入することが役員会議で決まったのは、昨年の十二月だった。
そこでIBC社が、社内から専任スタッフひとりを決めて、自分たちの会社に派遣し、プログラマーとして養成させて欲しいと言ってきた時に、俊平は機械の購入契約書にも、リースの契約書にも捺印しておきながら、そんなに面倒ならもう要らん、と言い出して、この計画は立ち往生してしまった。
そこで往時世界一のコンピューター・メーカーだったIBCは、ある大手会社のコンピューター・プログラマーだった大山という若い社員を引き抜き、直ぐに間に合う彼とセットでビジコンを買って欲しいと言い直して来たのだ。
これには俊平も、渋々計画通り進めるよう指示するしかない。しかし内心は、とんでもない買い物をしてしまったと後悔していた。
二月にそのビジコンが、本社二階の片隅に新たに作られた空調完備の小部屋に設置され、決算業務の手伝いから業務を始めることになる。
ところがビジコンが作ったカタカナ書きの決算書を見て、なんと見にくい決算書なのだ、俺のところに持って来る時は、手で書き直して持って来るようにと俊平は言い出した。
しかも財務本部以外の社員にも、絶対に機械が作った書類は見せるな、と念を押すのだった。俊平の恐れるのは、活字の数字が持つ魔力だった。活字の数字を見て、それを疑えるのは相当の高等教育を受けた人間のみであって、大抵の人間は数字が活字になった瞬間、正しいものと鵜呑みするからだ、と俊平は持論を展開した。
しばらくしたら俊平も慣れてくれるに違いないと龍平は考えた。ところがこの考えは甘かったと数ヶ月後に知ることになる。
さて三月には、枕の製造業を富田林で営んでいた田岡が、龍平や俊平に口説かれ、その仕事を廃業にして、野須川寝具カシオペア事業部準備スタッフの一員となった。
四月に入ると、牛山、田岡、それに阪本常務が商社日繊を辞めて創った今は無い、毛布商「改良寝具」から入った社員たち数名と、寝具や毛布の各事業部から集めて来た数名に、龍平を加えたカシオペア事業部準備スタッフ全員が、東京のホテルの一室で缶詰になって寝具訪販店の経営システムについて一日山崎の講習を受けた。
ところが、この講習では、肝心のドア・ツー・ドアのノウハウには一言も触れられなかったのだ。
野須川寝具の社員たちが、山崎から教えて欲しかったのは、むしろそちらの方だった。
報告を受け、俊平は怪訝な顔になり、電話で東京の山崎にその理由(わけ)を質(ただ)した。
すると、山崎はそれは口頭で教えられるものではなく、身体で覚えるものだ、と言い出すのだ。
「ではどうしたらそのドアツーのノウハウを身体で覚えられるのだ?」と俊平が尋ねると、
「それはね、ミツバチ・マーヤの新聞の求人広告を見て、それに応募し、一ヶ月、あちらで研修してもらうしかないね」としゃあしゃあと言ってのけた。
山崎は、それを子息の龍平君が率先して行うかどうかが、このプロジェクトの成否を分けるポイントだとも付け加えた。
俊平は驚いた。それは企業スパイと変わらぬ行為だ。仮に法律では犯罪にならなくても、同じ業界の遠藤社長に言い訳もできない道義上の重罪だ。
龍平だけは、メンバーから外したいと主張したが、山崎はそれに激高して
「ミツバチ・マーヤで一番研修を受けて欲しいのが、メンバーのリーダーとなる龍平君なのだから、それは一歩も譲れないよ。そんなことでびびるのなら、隆平君には、このプロジェクトから降りてもらうしかないないね」と言って電話を切ってしまった。
この話を聴くと龍平は激しく俊平に抗議した。もしも龍平がミツバチ・マーヤの求人に応募するなら、履歴書を嘘で固めなければならない。本当のことを書けば、採用されないだけでなく、企業間で喧嘩になることも明白だ。しかし嘘をついて採用されたら、間違いなく詐欺である。
「社長は、この私に詐欺をしろとおっしゃるのですか。息子の私が犯罪者になっても構わないと?」
「そんなことは既に山崎に言ったよ。それでもお前は行かねばならぬようだ」
何を言っても、この決定は覆りそうになかった。
仕方なく龍平は自分の履歴書作りにかかった。
先ず阪本常務の元の会社、「改良寝具」から来た社員たちを集めた。彼らの最終就職先から「改良寝具」を外してもらって、そこにいたのは元々野須川寝具に古くからいた龍平と毛布事業部から来た尼子の二人だけにしてもらうことで、龍平は頭を下げて彼らに頼み込む。
次は自分たちの繊維製品問屋の倒産後、太平洋商事編物製品課の配送の仕事で、今日まで食いつないで来た東大阪の、龍平の商社時代の仕事仲間を訪ねた。
龍平が大学時代の四年間にいた会社を、その倒産問屋にして、それ以降はもう一軒、彼らに倒産した繊維製品問屋の名前を教えてもらった。
これで奈良県立高校卒業後、就職した三社は総て倒産していて、現在は連絡がつかない繊維会社ばかりという、就職には不運な高卒の野須川龍平の履歴書が完成した。
ミツバチ・マーヤの関西本部は、地下鉄御堂筋線江坂にあった。
新聞を見ると確かに営業部員を毎日募集している。毎日広告を一流紙に載せるのも凄いが、初任給二十二万円保証には龍平を驚かせた。
一般大卒の初任給がせいぜい十二万円だった時代である。それでも龍平が大卒で就職した七年前から、初任給は三倍以上にもなっていた。
俊平はミツバチ・マーヤの営業部員に、一ヶ月志願しようとする社員たちには、給与はその間も支給するから、相手の会社から貰った給与は会社に入金することを命じた。代わりにその半分を臨時ボーナスとしてお前たちに戻そうと約束した。
四月中旬のある日、彼らは互いに言葉を交わさぬように注意しながら、江坂のミツバチ・マーヤ関西支社を、新聞を見て求人に応募した体を装って訪ねるのだった。
ビルの屋上の、「ミツバチ・マーヤ」と大書された看板が、地上の高架を走る地下鉄や、それに平行する高架道路を走る車の群れを得意気に見下ろしていた。
ミツバチ・マーヤは、そのビルのワンフロアを借り切り、フロアにある部屋は総て使っていた。
龍平には、自分たちを含め、今日だけで応募しているのは、五十名を超えていそうに思えた。
遂に龍平の順番が回って来る。
面接するのは、この支社の責任者、島崎部長だ。五十くらいの背の高い痩せた男だが、真っ白なスーツを着て、左の額には縦に一文字の刀傷のような切り傷があり、その下の左目は、右目とは連動せず、ただじっと遠くの一点を見つめるだけだ。
「野須川さん、あなたセールスには向いていないと思いますよ」とその恐ろしく怖い顔が、実に丁寧にしゃべり出した。
第二章 個別訪問セールス その⑫に続く