第七章(終わりなき闇夜)その1

(昭和六十一年から平成十三年までの十六年間、筆者の仕事の本拠地だった大阪市西区北堀江付近)

和議倒産した野須川寝具が、再建の柱と期待して絞り込んだ訪販による製造直販事業が、和議の僅か四年半後に崩壊してしまった時、大口債権者である、なみはや銀行や帝都紡績の人々の頭の隅に、如何に野須川寝具を安楽死させるべきかとの思案が、ふとよぎったことであろう。
ところが寝具製造業を、創業者の俊平から継承した二代目の龍平が、ぼんぼん経営者と思いきや、訪販事業用の生産設備しかない京都府八幡市の工場を稼働させ、小売業者からの委託生産によって、野須川寝具が霊園事業への「転業」に成功する平成六年の春まで、なんと八年もの時間稼ぎをやってくれるとは、両者のどちらの予想をも超えるものであっただろう。

ところが、「転業」に成功し、再び事業を正常に発展させ、生活レベルを復興させて行く野須川家とは対象に、筆頭債権者のなみはや銀行は、バブル経済の崩壊による不良債権が溜まりに溜まって、それを自ら償却する術を失い、皮肉にも、これまでシエア争いを激しく戦ってきた上方銀行(旧上方相互銀行)と合併しなければならなくなるのである。合併とは名のみで、実質は上方銀行に吸収されたのであって、合併後の上方浪速銀行には、旧なみはや銀行の行員の姿は探さなければならなくなるのだ。
銀行合併劇はこの二つの地銀のみならず、政府や大蔵省の主導で、都市銀行でも財閥グループの垣根を越えて合併が繰り返され、万単位で銀行マンがリストラされて行った。平成十年には政府系三銀行の総てが経営破綻していた。日本の企業活動を監督してきた半官半民のこの三行の行員たちでさえ、総員が職を失うことになった。
こんなことになるなどと、昭和六十三年に誰が予想したであろうか。
何故そんなことになったのだろう。この章では、龍平の周辺から、そんなことになった銀行の歴史の側面を見てみよう。

話はまだ独身だった龍平が、野須川寝具の銀行業務に携わっていた昭和五十年に戻ろう。
取引銀行は大阪市城東区の大阪生駒奈良線と今里筋が交差する蒲生四丁目交差点付近に集中し、その全店が〇〇銀行城東支店と名乗っていた。
メインバンクは上方相互銀行城東支店であったが、同店は創業者の野須川俊平の積極的な拡張路線を危なげに見つめ、肝心なところで応援しなかったから、俊平は同行を支援者どころか、寧ろ足枷だと思っていた。

昭和四十五年(一九七○年)三月に兵庫県の国立大学経営学部を卒業して、就職した太平洋商事を三年で辞め、父親俊平が創業した野須川寝具に転職して二年後、二十八歳の経理課長の龍平が、十行を超える野須川寝具の取引銀行の中で、際だって関係を親密にしたのが「なみはや銀行」城東支店だった。
好都合にも同行の支店長は、龍平とは馬が合って、個人的な交際も深まって行った。同行の融資額はぐんぐん伸びて行き、やがて上方相互銀行と肩を並べるようになる。
俊平が龍平の縁談を、親会社の帝都紡績に慌てて相談に行かねばならなくなるのは、なみはや銀行城東支店の支店長が龍平の縁談にも首を突っ込んで来たからだ。
帝都紡績の重役に、息子の結婚の「媒酌人」を務めてもらえる披露宴で、合繊メーカーや紡績会社の役員たち、寝具の山本グループの幹部たち、商社の幹部たち、寝具業界の社長連中、染色整理工場、取引銀行、報道関係者などを一堂に集め、野須川寝具産業と帝都紡績の蜜月関係を見せつけることが俊平の夢だったから、銀行の支店長を「媒酌人」にする訳には行かなかったのである。
龍平が、帝都紡績の次期社長と噂される谷本常務に紹介された、和歌山県出身者で千葉県船橋市に住む岩出家の次女、智代と結婚したのは、昭和五十一年四月である。
その後、なみはや銀行城東支店の支店長には、山村頭取の懐刀と言われ、仕事が出来る男と評判の秦田(はただ)が就任した。
関西の銀行の多くは、明治時代に創設され、関東大震災の後に起こった金融大恐慌の嵐の波を潜って、生き残ってきた百戦錬磨の銀行たちであったが、なみはや銀行はそうではなく、戦後生まれの若い銀行だった。前身は浪速(なにわ)不動銀行である。

それが、奈良県の寧楽銀行、京都府の平安銀行など、老舗地方銀行と肩を並べるまでになったのは、海軍上がりの今の山村頭取の経営の力量に負うものであり、山村の指揮に従い、たとえダーテイーなことにも臆せず、泥も舐めながら、死にもの狂いに銀行の発展の為に働いてきた秦田たちの努力と涙の賜物だったと言っても過言ではないだろう。
なみはや銀行の山村頭取を、俊平に紹介したのもこの秦田である。
俊平がカシオペア事業に興味を持った時、当初は東京と大阪と北海道だけで始める予定だった。
しかしそれでは業務提携先である京都山本に事業そのものが潰されてしまう恐れがあった。そんな俊平の不安を解消したのが、この秦田支店長だった。
「俊平社長、あなたはカシオペアで、全国の寝具の小売業界を席巻したい筈だ。だったら私に任せなさい。私が山村頭取にあなたを引き合わせ、御社をなみはや銀行の本店の融資先に変えてもらって、現在の何倍もの融資を受けるのを可能にして見せましょう。それで俊平社長はカシオペア事業を全国展開することができるのです」
俊平が、全国にカシオペア訪販として製造直販事業に踏み切れたのは、この秦田支店長の助言で、なみはや銀行本店が上方相互銀行に替わってメインバンクを引き受け、山村頭取の肝入りで、融資額を一挙に伸ばしてもらったお蔭である。
龍平がカシオペア南関東販社創設の為に東京の板橋区大山に赴任した頃、なみはや銀行は東京駅の八重洲口前に、同行東京支店を開設し、支店長に秦田を就任させた。
東京に赴任していた時代に龍平は、なみはや銀行東京支店の秦田支店長を表敬訪問したことがある。

しかし秦田は、会社の勤め人に過ぎない龍平などは相手にしないという態度であったから、以後龍平は秦田と会うことは無かった。
秦田東京支店長の時代は長く続いた。
後のバブル時代に、住専融資や、不動産投資に狂奔することになる政府系金融三行に、秦田が接近したのは、既にこの頃からである。
東京で不動産バブルが沸騰する昭和六十三年の秋、なみはや銀行の頭取の山村は、これから始まる関西での不動産バブルに備えようとしていた。
関西でも前年辺りから、「地上げ」という不動産開発業者に雇われた暴力団が、取り壊したい建物にいつまでも賃借で住み続ける住民を、力尽くや嫌がらせで出て行かせるという行動に出ていたことをマスコミが社会問題化していた。地上げの為の暴力団を雇う資金は、もしや銀行から出ているのではないかとマスコミが疑い出すことになって、山村は不動産バブルに付け込んで銀行が目立って動くのは拙いと思うようになった。そのような傾向は、なみはや銀行に限らず、関西の他の銀行も大同小異であった。
山村は、東京から秦田を呼び寄せ、不動産バブル関連の事業に特化する別の金融機関を作る相談をする。
十二月には構想が固まり、市内西区の長堀通沿いのビルの一室で、秦田が社長となって、なみはや銀行からスタッフが選ばれ、株式会社浪銀ファイナンスが創設された。
この趣旨の金融機関が、全国に雨後の竹の子のように創設され、これらの金融機関を「ノンバンク」と総称することになる。

第七章 終わりなき闇夜 その② に続く