第四章(報復の応酬) その10 

(平成二十二年三月に、筆者が設計し、工事を指揮して、オープンさせた第二霊園、美原東ロイヤルメモリアルパーク、第二工区のガーデニング墓地。霊園設計者である筆者会心の作品と自負。販促用にモデルを使って撮影したスチルの一枚。羽曳野市埴生野)

本社出頭の四日前、昭和五十四年三月二十九日木曜日、龍平は浜松町本部の小島専務らに挨拶し、池袋店で全店の会計入力をしている大山や、その他の店の事務官に電話で別れの挨拶をして、カシオペア南関東販社を退職した。
小島はこの時、全身が疲労感に満ち、顔面も蒼白だったが、龍平には残される人の体調を心配する余裕は無かった。
三月三十一日土曜日、朝から引越業者が自由が丘のマンションへ、千葉県船橋市中山に運ぶ家財道具を引き取りに来る。この業者は大手の引越業者ではなく、龍平が職場の電話帖で探した個人業のような小さな引越業者で、引越は専門で無かったのか、作業の手際が悪く、全部積み終わったのは午後の二時を回っていた。
「では、今夜一晩預かっていただいて、明日朝十時頃に中山にお願いします」と業者を帰した。
今からでも中山へ運ぶのは可能だが、そうしないのは、自由が丘のマンションが三月末で契約が切れ、引越先の中山のマンションは四月からの契約だから、引越業者に一晩家財を預けるのは仕方無く、賃貸から賃貸への引越にはよくあることだ。
後は電話局が電話回線を切りに来るのと、不動産屋が部屋の明け渡しを確認し、部屋の鍵を受け取りに来るのを待つだけだった。
龍平は妻の智代に、娘の雅代を連れて先に中山に行かせ、がらんとした部屋の窓から目黒通りの往来を眺めながら、ひとり電話局や不動産屋が来るのを待つ。

関西販社の田岡社長はどうしたのか、あれから電話が無い、これで本当に野須川寝具ともカシオペアとも、永遠におさらばか、と思った時だった。
電話が突然大きな呼び鈴を鳴らして静寂を破る。
「もしもし、野須川さんのお宅ですか。なんだ隆平君か。良かった。まだこの電話は隆平君の家の電話だったか。間に合って良かった」
「家財はもう引越業者が持って帰りました。後は電話局と不動産屋が来るのを待っだけです。尤も家財は今晩、業者預けですが」
「今すぐ引越業者に電話して、このまま数日間、預かってもらうんや」
「何を仰っているのですか」
「隆平君、君をこちらの営業社員として採用したいんや。僕のところの大東店やけどな、一時は全国一位にもなった店や。だが今は下から数えた方が早いやろ。店長は野須川本社から来た堀川、君も知ってる男や、店長としてぱっとせんから、来月から本社の毛布事業部に帰ってもらうことになったんや。その大東店、君が店長を受けてくれ」
「しかし僕がそちらの大東店の店長になることは、野須川寝具役員会の決議違反でしょ」
「そやけど、関西販社は僕が百パーセント出資した会社やで。よその会社の指図は受けん。心配すな。君のことは命に懸けても僕が守ってやる。君なら大東店を元の姿に戻せるやろ」
「ご親切なお言葉で大変嬉しいのですが、残念ながらこんな仕打ちを受けて、もうカシオペアで働く意志など失せてしまいました」

「何言うてんのや。君は人生のこの二年間を、何の意味も無かったことにしてしまうんか」
「それはこっちが言いたい台詞です。私のこの貴重な二年間を、いや、野須川寝具に入社してからの六年間という私の人生を返してほしいです」
「そない思うんやったら、もう一遍、僕んとこでやりなおしてみたらどないや」
「もう野須川寝具の連中の顔も見たくないし、もう寝具の訪販など」
「君、逃げるんか。自分の人生から目を背けるのか。そんな弱虫だったのか。あの俊平さんの血を引く息子やなかったのか」
「私が弱虫だと仰るのですか」
「大河ドラマの『草燃える』、見てるやろ。あれは源頼朝と北条義時が二代がかりで板東武者を束ねて鎌倉幕府を創る物語や。これにも出て来ると思うが、十年くらい前の大河は尾上菊五郎の『源義経』やった。あれを見て思うことなかったか。俊平さんが将軍の頼朝やとしたら、君は義経や。義経は平家一門を滅ぼした時の軍功が目立ち過ぎて仲間から妬まれた。君は梶原景時(かじわらのかげとき)ならぬ、近藤の讒言(ざんげん)によって、俊平将軍の怒りをかった。そして追討される身となって、奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)ならぬ、中山のお義父さんのところに逃げようとしているんや。君な、奥州に逃げた義経は、再び歴史の舞台に立つこと無く、追ってきた幕府軍に消されたんや」
「仰る意味が分かりません」
「僕が言いたいのはこういうことや。君だったら、どこの会社でも採用されるだろう。そこそこの給与もとれるだろう。しかしな、そうなったら、会社に一億も損をさせた君をだな、野須川寝具の役員会が

そのまま見逃しておくと思うのかい。今の野須川寝具産業の役員会議は、社長の俊平さんより声の大きい人がいるようや。君のグループ追放だって、その人の意志を他の役員たちが忖度して発案したものやろ。君は逃げたければ、逃げたら良いさ。しかし逃げたら、会社の顧問弁護士が、損害賠償の請求を掲げて、君を一生追いかけ回すぞ」
「待って下さい。随分極端な話をされますね。しかしそうなるとは限らないでしょ」
「勿論そやけど、弁護士が動くのも可能性が無いことやないやないか。君は既に戦いを挑まれているんや。君は可愛そうに、一生戦いに明け暮れる星の下に生まれたようやな」
「父より発言力を持ち出した人物が、今回私をこんな目に遭わせた黒幕ってことですね。それは誰なんです。井川専務ですか」
「それは誰なのか、君が大阪に来たら、教えてやるさ。君だって、その黒幕や、黒幕の指示で動いた牛山、近藤、中川、そして統括事業部のスタッフ全員に、何時の日か報復してやりたいだろう。何やったら、君の敵討ちに僕も協力するよ」
「そりゃ、その人たちは憎いです。私の人生を滅茶滅茶にしてくれたのですからね。しかし報復なんて、そんなことを考える余裕は、今の私にはありません」
「そうか。君のところの横浜西店、何度も今までカシオペアの全国一位を獲ったけれど、あれは実は君が指導していたのを、全国の店が知っていたから、いくら横浜西店が一位になってもだな、架空売上を混ぜての一位なんだ、と皆で笑っていたの、君は知っていたかい」
「何ですって。誰がそんなことを」

「四月からは信販を通さないと商品を売れなくなった。隆平君、悔しかったら、百パーセント信販の実売上で全国一位に挑戦しないか」
「そこまで仰いますか。ではひとつお尋ねして良いですか。このことを父は了解していますか」
「俊平会長か、いや、会長とは、まだ、何も、話、してないんや。僕が、一存で、してることや。会長が自ら役員会議の決議破るなんて、ある筈ないわな」
と答えながらも、田岡が冷汗を流し、言葉に詰まる様子が、受話器を通して感じ取られた。野須川寝具産業の役員会が異常な状態に陥っていることが察せられる。田岡の言葉とは裏腹に、龍平は、俊平が既にこの件を内諾していることを確信した。
「分かりました。それはもうお尋ねしません。仕事のお話はお受けいたします。あさって月曜日、父に会った後で、田岡さんの部屋に伺います」
「そうか、受けてくれるか。それにもうひとつ、ふたつ、言っておきたいことがあるんや。あさってな、お父さんに会ったら、一切何も言うなよ。君が弁解したり、社内の誰かを批判したりしたら、その言葉は言った当人に後で跳ね返って来るからな。何を言われても、何も返さず、ひたすら黙ってろ。それからお父さんの前で、いや本社の誰にも関西販社に来ることは絶対に言わないようにな」

その夜は泊まるつもりで、智代や雅代が待つ、中山の岩出家を訪れた龍平は、引越の家財は明日にはこちらに届かず、暫く業者に保管してもらうことになったと聞いて驚愕する岩出夫婦や智代に、智代が帰った後の田岡からの電話を要約して、その訳を説明した。

先ず龍平にくってかかるのは義母だ。
「龍平さん、そりゃ、あんまりにも酷い。智代が可愛そうですよ。智代に何も相談しないでそんな大事なことを決めて」
義母の憤懣やるせない感情の言葉を遮ったのは、夫の富太郎だ。
「いやいや、僕たちが口を出すことではないよ。隆平君、この後どうするのか、智代と二人だけで話し合いなさい」
富太郎は龍平と智代の二人を残して岩出夫人と共に部屋を出て行く。
「智代が関西に行きたくないなら、家財を一日遅れの明後日、こちらに着けてもいんだ。ただ僕は、一人でも大阪に赴任しなければならない。僕はまだカシオペアですることがあるのだよ」
「何言ってるの。私はあなたが大阪で働くと決めたのなら、ついて行くのに決まっているじゃない。お義父様が、一日も早くあなたと仲直りして下さるよう、私は私で、大阪に行ってから努力してみます」
「ごめんな、智代」
龍平は智代を思わず抱きしめる。
その後ろで心配そうに龍平の顔を見上げる、一歳六ヶ月の雅代の顔が次第にぼんやりしだし、やがて見えなくなった。
中山のマンション団地の部屋を貸そうと言ってくれた人には、富太郎が頭を下げ、謝罪することになる。

第四章 報復の応酬 その⑪に続く