第九章(祈りの効用) その3
(筆者の職場にある屋内型永代供養墓。二階の納骨堂。百三十軒の申し込みで満杯になる小さな納骨堂だ。ヒーリング音楽が流れ、有名な仏師の作になる観音木像を拝みながら、モニターで故人様のメモリアルフォトを懐かしく見ることができる。納骨された故人様の俗名をお呼びして毎月月初に読経供養が行われる)
光明の家宇治練成道場での短期練成の初日のスケジュールは、どんどん進んで行った。
龍平の頭に刻まれたのは、この肉体が自分では無く、肉体を操縦して念(おも)いを遂げようとする霊魂が自分であること、そして五官(目、耳、鼻、口、舌)に感じられるこの世界は、それぞれの人間の心が現れたものだということだった。後者の真理を説明するのに、講師たちは異口同音、三界(さんがい 欲界、色界、無色界)は唯(ただ)心の現れる所だと、三界唯心所現(さんがいゆいしんしょげん)という難しい仏教用語を使った。三界(さんがい)も五官に感じられる世界、つまり現象世界を言う仏教用語である。
人生はそれぞれの心がその念(おも)いに従って注文した運命のドラマが展開するレストランだと言っている。テーブルにカレーライスが来たからと騒ぐことはない。それは自身が注文した料理なのだと。勿論、それを聴いて、はい、分かりましたと、龍平が納得した訳ではない。
風呂に入って夕食をとり、また夜の授業が続く。練成初日の締めくくりは、光明の家の特異な行である瞑想行の練習である。実相観と名付けられていた。
正座、瞑目、合掌して、実際は無いのにあるかのように見える、五官の世界、現象世界、三界から心を去って、その奥に実在する完全円満な実相の世界を観ずる(イメージする)という行である。それにかける時間は個人の自由だが、最少でも十五分、普通は半時間は続ける。そこに自分が唱える言葉が何種類か用意されていて、予め決められた台本に従って、瞑想やイメージを進めるというのが、教祖高橋流であった。
先ず招神歌(かみよびうた)を歌って、その場に神を招ぶ作業をする。
龍平が大阪教化部で半年前に初めて個人指導を受けた時、突然指導する講師に歌い出され、仰天したあの歌だ。
その後、教祖高橋が生前に吹き込んでいた招神歌のテープを買って、この歌は既にマスターしていた。
実相観は光明の家の書籍で学び、内容こそ知っていたが、実習するのは今回が初めてである。
この日に練習したのは、基本的実相観。
龍平は一回の練習で、基本的実相観の唱える言葉を総て覚えた。
本番は明日の朝五時からの大拝殿での早朝行事である。だから練成中は毎朝四時半起きだ。
宿泊する部屋に戻って、受講者各自で布団を敷いた。布団はぎっしりと詰めないとその部屋の全員が寝られない。
部屋の照明が消されるまで、龍平は鞄の中から「喜びの先祖供養」の本をとりだした。
先ず目次を見る。やっぱりだ。大村淑子の体験談がまんなか辺りにあった。
中を開くと、体験談は主人の突然の死から始まっている。再び龍平はぎょっとした。
龍平は辛くてそのページから視線を外すと、隣には見たことがある男がいる。昨年の夏に受けた大阪教化部会館大拝殿での日曜講演会で出会った岡山の男であった。
その男も、龍平に気づいて、声をかけて来る。
「おや、あの時の君じゃないか。相変わらず勉強熱心だな」
「これは奇遇、こんなところで会うなんて、岡山教区の方でしたね」
「そうだ、儂は佐藤だ。君の名は」
「私の名は野須川と言います。あれから大阪府繁栄経営者会に入会しました。光明の家は古くからされているようですが、講師の資格もお持ちなんでしょうね」
「講師歴を言うなら二十五年。今年七十になるよ。それでも勉強が足りないから、練成を受ける訳さ」
「では佐藤先生、私、今日初めて実相観を実習したのですが、あれは浄土教の観行(かんぎょう)に似ていますね」
「よく勉強してるな。そうだ観無量寿経にある通り、平安貴族の間に流行った浄土教の観行に似ていると言えば似ている。しかし別物だと言えば別物だ」
「私が似ていると言ったのは、実相観も、浄土教の観行も、実相世界や極楽浄土を入口から順番にイメージして瞑想行を進めるところです」
「だが浄土教は阿弥陀信仰が庶民の間に拡がったが、観行はその意義が大衆には伝わらず、すたれてしまった」
「代わりに念仏だけが残ったのでしたね。佐藤先生、今日の勉強の中で、分からなかったことを聞いても良いでしょうか」
「なんだい」
「今日の講話は何度も三界唯心所現という仏教用語が使われましたが、出典はどの仏典からでしょう」
「なんでそんなことを聞く。尊師高橋先生が説かれたことが納得できるなら、出典など知らなくても良いことだ」
「それはその通りです。ですが私は高橋先生が著された生命の光全集を繰り返し読んで、今三回目なんですが、その出典については書かれていなかったように思って」
「何の為にそんなに繰り返して読む必要があるのだ。言っておくが、聖典を読むだけでは、光明の家を生きることにはならないのだぞ。まあいつかは君もそれに気づくだろうがな。確かにあの言葉の出典は、あの聖典には書かれていないさ。信者は知る必要が無いから、書いてないだけだ」
「私は大学受験の時、文系でしたから、社会科は世界史と倫理社会の二科目を選択しました。倫理社会では仏教についてもよく勉強したつもりです。にもかかわらず、三界唯心所現については知らずに来てしまったものですから」
「なにか、それなら君は、尊師高橋先生が言葉を勝手に造られて、釈尊の言葉だと偽っておられるとでも言うのかい」
「とんでもない、そんなことは思ってもいません。ですが」
「ですが、何だ。小賢しい奴だ。知らなくて良いことは、知らなくても良いのだ。さあ、もう寝るぞ」と、その男は掛け布団を被って向こうを向いてしまった。
龍平は仕方なく本の続きを読もうとしたら、電灯が消されてしまった。隣の男はすこぶる機嫌が良くなかったが、知らないことを尋ねられたからであろうか。
明くる日は、カッコーワルツの音楽で、朝の四時半に龍平は起こされた。洗面をして着替えて、お経など聖歌集などをもって、階上の大拝殿に移動する。
通路を歩いて階段を昇ろうとする龍平に昨夜の岡山の男が側にやって来た。
「おい、君だけに教えてやる。儂から聞いたなんて誰にも言うなよ。あれは華厳経だ」とだけ耳打ちして、さっさと行ってしまった。
大拝殿は広く、既に六百名を超えたと聞かされる練成受講者も、畳一畳に二人ずつ座って、楽に全員が座ることが出来た。
五時十分に瞑想行である実相観の実習が始まった。
龍平は何百名もの人と一緒にこの大拝殿で正座して瞑目合掌しながら、大海原の海面にただ一人正座して瞑目合掌する自分をイメージした。そして自分を海面下に落として、魚が泳ぎ回る海の中を下へ下へと沈んで行った。
やがて深い深い海の底に着くと、海底の平たい岩の上で正座する自分をイメージした。
前にあるのは、竜宮城の大きな門だった。
先導する講師が「神の無限の供給の海、神の無限の供給の海」と繰り返し唱えた。
すると龍平の周りを、神社の巫女さんがご祈祷の後で打ち鳴らす鈴の音が包んだ。
龍平の頭の上から輝く金の粉がどこからともなく舞い落ちて来る。
竜宮城の山門に灯がともり、龍平はその勇姿を仰ぎ見るのだった。
また講師が「神の無限の活かす力、自分のうちに流れいる、流れいる、流れいる、・・・」と唱える声が聞こえた。
再びどこからか鈴が鳴って、金の粉が一層多く龍平の上から降って来た。
朝の行事が終わって、朝食になった。あの岡山の男が龍平を探して、その隣に座り、話しかけてきた。
「おい、朝の実相観はどうだった。君は何を祈ったのかね」
「ああ、佐藤先生、聞いて下さい。実相観では不思議な体験をしました」
「不思議な体験って。君には霊感でもあるのかな」
「私の周りに鈴がいっぱい鳴って、頭の上から金の粉が降って来たのです」
「それで君は何を祈っていたのかね。お金を一杯手に入れさせて下さいとでも祈ったのかい」
「何も祈ってなんかいません。ただ神様の実相世界をイメージしていただけです」
「何だって。それじゃ、君のしていることは妖術か何かだ。それは信仰ではない。君は根本的に間違っているようだな」
「では実相観って、やはり祈りなのですか」
「当たり前だ。君はこの言葉を知っているだろうか。行あって誓願なきは菩薩の魔事なりと言うだろう。願の無い祈りは、それは最早妖術だよ。君は何を悩んでこの練成に来ているのだ」
「それは、やはり私の仕事がうまく行かないからです」
「だったら何故その経済問題の解決を祈らないのか。君の事業が不調なら、従業員の生活も不安定になるし、業者さんも不安な気持ちで取引しなければならず、得意先だっていつまで商品を供給してもらえるかと不安になる。第一君の会社に融資している銀行が一番不安だわな。君の経済上の悩みは、君だけの問題ではない。だからその問題を解決する為に、君が神様に祈るのは何も邪道ではないのだ。それとも君は神に祈ることに何か気が引けることでもあるのかい」
「佐藤先生、私は昔一時的に改革派のキリスト教徒だった時があって、牧師さんから聖書のお話を聞いたことがあるのです。私の解釈が間違っているのかもしれませんが、私は人が祈っても神様に聞かれる祈りと聞かれない祈りがあると考えています。オリンピックに選手が出て、全員が金メダルを獲りたいと祈っても、神様はそのうちの一人の祈りしか聞かれないと。それが神様のみ計らいだと思い込んで来ました。だから私はこれまで何も神に祈れなかったのです」
龍平は泣きべそをかいていた。
「分かった。君は旧約聖書のカインとアベルの話をしているんだな。あの段では、確かに神はアベルからの供え物は受け取られたが、兄のカインからの供え物は要らぬと突っ返されたことになっている。そのように解釈している人が殆どだというのも事実だ」
「ですから実相観の実習では、先導の先生が、自分の願い事をしばし忘れて、ただ神様の造られた実相の世界を想って下さいと言われたので、私は自分の願い事は忘れなければならないと思って、ひたすら神様の世界だけをイメージするよう努めたのです」
「それは指導する講師の先生の言っていることを曲解しているんだ。祈りには正しい祈りと間違った祈りがある。あの先生は祈りでも我欲を満たすだけの祈りなら、それは間違った祈りだと言ったにすぎないのだよ。たくさんの人の願いに沿って祈ることは、なにもやましいことはない。そして神は祈れば、必ず応えて下さるものなのだ。それが光明の家流の解釈だよ。君のカインとアベルの話は、それは解釈が間違っているのさ。実は最初にそれを言ったのは、尊師高橋先生ではなく、二千年前に生きたイエス・キリストなんだよ」
第九章 祈りの効用 その④に続く