第十章(自分が変われば世界が変わる) その12
(筆者の第二霊園、美原東ロイヤルメモリアルパークのガーデニング墓地を囲むバラ園)
龍平にとって霊園事業は、行き詰まった寝具製造業から可能性に満ちた新世界への転業だっただろう。しかし俊平が困難を承知で霊園開発に取り組んだのは、バブル期に自らが作った借金三十億円の返済の為である。
霊園が開園した平成六年の春から平成八年の春までの二年間、俊平は墓地造成工事費、管理棟建築費の支払いに悩み続けてきた。
この二年間、墓地代の入金がありながら、まったく返済できずにいたバブル債務の三十億と、霊園開発に絡む借金二億四千万円の債権者、浪銀ファイナンス及び寧楽銀行からの督促に悩み続けてきた。
またなみはや銀行にも知らぬふりは出来ず、俊平は龍平に命じて、八幡工場の買い主を探させてきた。幾つかの商談があったが、なみはや銀行が都度、任意売買を望まなかった。
バブル景気が弾け、多額の不良資産を損金にしなければならない状況に追い込まれる全国の銀行は、不動産処分時に売主と買主の裏約束があってはならないと、売主が幾ばくかでも儲けるのを許せず、阻止したいというのが往時の時代風潮だった。
競売よりも、任意売買の方が回収額が多いにも関わらず、野須川寝具側が持ち込む工場売却の商談はことごとく、なみはや銀行は損得を無視し、意地になったように拒絶して行った。後は公的機関による競売を待つのみである。
俊平は、霊園がやっとの思いで開園しても、ストレスが解消するどころか、返ってストレスが溜まって行った。しかもまだ重要な問題が残っていた。
それは霊園の事業主体の問題である。開園以来、丹南メモリアルパークは野須川寝具の霊園事業部として運営されててきた。しかし事業認可が下りたのは、香川県に登記された宗教法人の香川大社である。だからこの頃の状況は違法状態だ。
それが分かっていても霊園事業を香川大社に移すことはできない。元々野須川寝具のバブル債務を弁済する目的であったからで、霊園資産と事業収入を共に香川大社という別法人に移すことは、債権者に対する詐害(さがい)行為となり、これも債権者の意思を無視して強行するのは違法なのであった。だから俊平がどんなに深刻なストレスを抱え、平成六年から十年にかけて、日々を過ごしていたのか、想像がつく。
平成六年秋に進入路の舗装が完成し、七年の夏には管理棟が完成し、造成工事と建築費の支払が終わったのは平成八年の春だ。
それを待っていたかのように、奈良の寧楽銀行は毎月百五十万円ずつの返済を求めて来た。応じなければ担保にとっている俊平の自宅を差し押さえるとまで言ったから俊平も呑まざるを得なかった。
やがてバブル時に一兆円近い債務があった浪銀ファイナンスは整理会社となった。だからと言って野須川寝具の三十億の債務が消えるものではない。もしも債権が国営銀行に移ったなら、国が取り立てに来るかもしれない。
平成九年だったか、俊平には珍しく、管理棟のすぐ前の区画ぐらいは、墓地でなく、公園スペースにしたらどうかと言い出した。坂下も大賛成だったから、そうすることになった。すると坂下はその隣の区画を関東で流行っているガーデニング墓地に改造したいと言い出した。
俊平が「そういうことは龍平と相談してやってくれ」と言ったので、後は二人でそれほど大きな区画ではなかったが、噴水のある緑地を造って周りに洋墓ばかりを建てるガーデニング墓地を造った。
ところが関西石材の営業マンは、その区画を誰も見学客に案内しなかったから、まったく売れずにいた。一番の成約者は龍平だ。
龍平の売上を見て、一斉に関西石材の営業が動き出し、半年くらいで全区画が売れてしまう。
丹南メモリアルパークは新しい企画に挑戦する霊園だと、西日本の葬祭業界で知れ渡って行くことになる最初の要因である。
開園から三年は経っただろうか、なみはや銀行の山村頭取が一連のバブル投資によって出来た莫大な不良資産の責任をとる形で、なみはや銀行の総ての役職を退き、芦屋の自宅に謹慎することになった。
そんなある日、俊平は、なみはや銀行を退職した山村に、自宅に来るよう呼ばれた。俊平は龍平を伴い、芦屋の山村邸を訪れる。
俊平は何が言われるのか、大凡の見当はついていた。開園から数年が経った今、例え一億でも浪銀に返すことはできないかと言われるのではないかと。
俊平たちは広い応接間に通された。
山村の顔をみるなり、俊平は平身低頭してしゃべり出す。
「頭取、大変ご無沙汰しております。長い間、ご迷惑をおかけし、謝罪の言葉もありません」
「野須川さん、私はもう頭取ではありませんし、なみはや銀行とも関係がありませんよ」
「いえ、なみはや銀行を、ここまでお一人で大きくして来られた頭取ですから、私は頭取としかお呼びすることができません。申し訳ございません。浪銀ファイナンスの件は、決して放置している訳ではなく、先ずは事業認可をとりました丹南町の霊園を売れる形にしなければなりませんでした」
「それは聞きましたし、了解もしています。それに寧楽銀行が強行に取り立てを始めたこともね。私が今日、俊平さんをお呼びしたのは、そんな話ではないのです」
俊平は驚いた。債権回収の話でなければ、何を言おうとするのかと不思議に思う。
「それは一体」と俊平は恐る恐る山村の顔を覗いた。
「はっきり言っておきます。私がこんな話をするのはおかしいかもしれませんが、俊平さんの為を思って言うのです。あなたは浪銀の三十億の債務を一銭も払ってはなりません」
「えっ、頭取、なんということを。一銭も払うなと」
「よく聞きなさい。まだ五年以上かかるでしょうが、日本の国を挙げて、バブルで出来た不良債権の処理が行われるのは正にこれからなのです。一般的に言うなら、バブル債務者は全財産を失うまで返済しても、それでも債務の一割も返せないでしょう。だから政府は、この処理をどうするかと考えて来ましたが、国が不動産バブルに導いた銀行その他の金融機関の損失を補填するのは筋違いと、やはり原因を
作った金融機関に不良資産を償却する全損失額を引当てさせ、残す銀行と潰す金融機関を分け、残す銀行の救済策を別に練っているのだと思います」
「では、その内に三十億の債務はうやむやになると言う訳ですか」
「いや、そんなに都合良く行きません。ですからあなたは心を鬼にして債権者と戦わなければなりません。いくら割引するから、この際けりをつけようと言っても、乗ってはならないのです」
「一銭も払ってはならないのですか。本当にそれで大丈夫なのでしょうか」
「あの丹南メモリアルパークを作るのに、あなたはどれだけ苦労されました。そんな得がたい宝物を、ご子息の龍平さんに残さなくてどうするのです。霊園事業の負債は別として、過去の野須川寝具の負債さえ負わさなければ、龍平さんならきちんと負債を払うだけでなく、霊園事業を更に発展させて行かれると信じるからです」
「私に腹を括れとおっしゃるのですね」
「そうです。これからは債権者の為には働かず、鬼になって債権者と戦うのです。霊園事業を野須川家の家業となすために」
「今日の頭取のお言葉、肝に銘じます」と俊平は思い詰めた顔で山村邸を後にした。
山村はその一年後病に倒れ、入院生活を送っていたが、翌年の冬に昇天した。
なみはや銀行の現役の頭取の告別式のように、何百人の銀行マンに見送られる最期だった。
その直後、八幡工場が競売となって、僅か二億円で落とされ、なみはや銀行と浪銀とで折半してその代金を受領した。
平成十一年になる。霊園事業は依然として野須川寝具の一事業として続けられていた。
地下鉄サリン事件を起こした新興宗教団体のせいで、文化庁は宗教法人の管理を厳しくした。だが文化財を所蔵する伝統がある宗教法人を、管理体制が悪いからと潰す訳にも行かない。当時、文化庁が指導する宗教法人の管理運営の仕方を教えるセミナーが頻繁に開催され、その都度龍平は積極的に参加して、宗教法人に関する法的知識を身に付けて行った。
文化庁は宗教法人を指導しながらも、なるべくその数を減らしたいと考えていた。例えば、突然代表者が亡くなった時に、速やかに後継の手続きが出来ない宗教法人から、法人資格を奪おうとの意思が、龍平が受けたセミナーで見え隠れしていた。
その年の八月のお盆休み、俊平は体調が優れぬとゴルフを途中で止めてお昼に帰宅した。顔が真黄色になっている。すぐ近くの病院に診察に行ったが、恐らく内臓の重い病気だと思うので、誰か大きな病院のお知り合いはいないかと相談された。
俊平は親友の大阪駅前にある病院の副院長のところに診断書を持って奈良からタクシーで走った。そして副院長の紹介で大阪市内の更に大きな病院に入院することになった。
検査の結果、担当医が龍平に言った父親の病名は「膵臓癌」だった。
その病名をよく知る龍平は真っ青になる。
膵臓癌、龍平が学生時代から商社の時代まで、親しく手紙を交わした文通相手の谷川淳子の父親を襲ったのもこの膵臓癌だ。往時は腫れ上がった膵臓がまき散らす胆汁によって、腹の中の内臓が溶かされ、もだえ苦しむ患者を安楽死させるべきかが、必ず議論になる恐ろしい病だと記憶していた。膵臓癌ときちんと向かい合えなくて彼女との交際も消滅したのだった。
しかしその時代から早十五年の歳月が流れ、そんな心配はせずとも良い治療法が用いられていると説明され、ほっとするのもつかの間、「あくまでも一般的な話だが、膵臓癌は手術で少しは延命するかもしれないが、手術後の余命はそう長くありません。勿論あなたのお父さんがそうだと決めつける訳ではありませんが、そのことも覚悟はしていて下さい」と説明を受ける。
龍平の目の前が真っ暗になる。何故自分の父親なんだと何度も考えた。
しかし龍平は自分の父親がこの世から消えてしまうかもしれないことを悲しむ訳には行かなかった。
今まで俊平が楯になって防いでくれていた野須川寝具の債権者たちと今度は自分がやりあわなければならないのだ。
勿論、俊平本人には「早期の発見でしたから、手術して癌細胞の拡がったとことだけ切除すれば大丈夫です。またゴルフもできますよ」と病院は嘘も方便で俊平を励ますのだった。
俊平の手術は十一月に行われた。膵臓だけで無く、その辺りの臓器を総てとってしまう十一時間をかける大手術だった。
その時、切除したリンパ線が検査に回される。
検査の結果は、リンパにも癌が飛び散っていた。つまり俊平の癌の再発は防げないのだ。
俊平は平成十二年の正月から職場に復帰した。
仕事は総て龍平に任せ、口を出すこともなくなった。
俊平はゴルフの練習を始めて、春にはコースを回れる程、健康を回復した。
その年の三月、俊平は遂に決意し、四月から霊園事業を宗教法人に移すことを宣言した。
長く手を付けなかった宗教法人の大阪府での認証を求める手続きにも入るよう、龍平や池田に指図した。だが大阪府私学課で、宗教法人の認証を取り直すのは、通常三年かかる仕事だった。そして思い出した様に、七年前から未払いで放置していた工場の従業員だった十名の給与と退職金を自分が資金を出すからすぐ払うようにと指示した。
世間には「まったく元気になった」と笑って挨拶する俊平だったが、心の中では何か思うところがあったのだろう。
俊平は四月から宗教法人の経理伝票の作成と記帳は、池田に任せるものの、期首の四月一日の資産と負債の内容の検討と確定は龍平に任せ、時間かけ、じっくり吟味するよう指示をした。
債権者の目もある中、霊園事業の負債として何を計上するか、その額によって墓地在庫の資産価値も決まるのであるが、それは微妙な問題で、債権者を刺激せぬよう慎重に検討すべき課題であった。
俊平の膵臓癌の手術から八ヶ月後の平成十二年の七月、俊平は体調を崩し、再び同じ病院に入院した。
膵臓は無いのだから膵臓癌というのもどうかと思うが再発したのだ。
病院の院長は「再発したからには、もう処置の方法はありません。ただ最期まで見守るだけです」と龍平に言う。徳山康男のように「為す術がないから自宅に帰ってくれ」と言われないだけでも幸いだ。
その頃、龍平はまだ四月一日、つまり香川大社の第一期の決算の期首の数字をまだ固めずていなかった。野須川寝具の負債は一切持ち込まずに切り捨てる。
しかし一億六千万台までに減少した寧楽銀行からの借入は負債に計上することにした。融資先の俊平個人が膵臓癌だと聞いて、返済がどうなるかと心配していた寧楽銀行あやめ池支店は大喜びだ。
第十章(最終章) 自分が変われば世界が変わる その⑬に続く