序章(廃業の決断)その9


野須川寝具産業の不動産含み益が二十億にもなったというのはどういうことか。土地価格の急激な高騰で得た不労所得であり、売却したら得られるというだけの計算上の利益だが、それだけ高く担保も設定でき、企業の信用は高まり、借入もしやすくなるのだった。
土地だけでなく、物価そのものが高騰する時代だった。景気の好循環によって企業は儲かれば、労働者側にスライドして分配した為(そこは現代と違うが)、それがまた消費を高めるというインフレ・スパイラルの時代であったのだ。
これに危機感をもった日銀は、前年の四月から五回に渡って公定歩合を引き上げる。最後の昭和五十五年三月には、公定歩合を九・0パーセントと史上空前の水準に引き上げるショック療法に出た。
つまり総ての企業が年率十から十数パーセントの利息を覚悟して銀行借入をしなければならないのだ。
六十億近い借入金がある野須川寝具産業が、年間に支払う利息は六億円、つまり毎月五千万円もの利息を銀行に支払うことになった。
これでは総ての企業が赤字転落するのでは、と今の日本人なら不安になるところだが、往時の優良企業や、業歴の古い老舗企業なら、借入の三割から四割に相当する定期預金は皆持っていた時代なのだ。因みに定期預金の利息も、年率十二パーセントという史上最高値を更新していた。
(筆者が建立した前の会社の企業墓。小さな五輪塔に彫られた「鎮魂」の意味は、説明を要しないだろう。)


だが急成長企業の野須川寝具産業の定期預金は、銀行借入の二割にも満たない。
メインバンクの山村頭取が、危機感をもって野須川俊平に、直営六販社全社の整理と黒字店のみの直営化を命じたのは、このような時代背景に対応したものであった。
役員会でも大議論となり、赤字店を全店閉鎖すれば、大幅な売上ダウンとなり、今迄の年商百億は達成できず、信用が維持できないのでは、と質問する役員がいた。
香川武彦常務は笑ってそれに答えた。
「それは私が・・・、当社の売上には、販社への卸売額しか入っていません、なるほど赤字店を廃止して黒字店だけにすると、今残る六販社の売上は三割以上減少するかもしれませんが、直営にするのですから、販社への商品卸売額に代わって、販社の小売額が売上に計上され、野須川寝具の売上は減少するどころかプラスになると私は見ています」

昭和五十五年四月、なみはや銀行の山村頭取の指示で、専務の長村は高齢を理由に財務本部長の職を解かれ、香川常務が代わって財務担当となり、経理部長の近藤には販社統括部長の辞令が下り、代わってカシオペア関西にいた野須川龍平が、香川の下で働く取締役経理部長に就任した。
彼は成績低迷の大東店を一躍、全国一位にした功績を買われ、次第に頭角を現し、本部要員になると、田岡社長が二億円の不良債権を作った責任で販社を去ってからは関西販社を実質差配していた。
嘗てでっち上げの報告書を書いて自分を陥れた近藤部長と統括部のスタッフを、自分の配下にして地方に出張させ、カシオペア販社に合理化の大ナタを振う龍平の仕事が始まった。


近藤は龍平に、もし自分たちと仕事をするのがやりにくいなら、今ここで辞めてもいい、と言った。
龍平は首を横に振り、この難局には全員が心をひとつにして当たらねばならない、自分も過去の恨みは捨てるので、是非自分に力を貸してくれ、と近藤に頭を下げた。

それからの近藤とカシオペア統括本部のスタッフの働きは実に目覚ましかった。
子会社である販社から受け取っていた商業手形は、本来の「貸付金」に仕訳が訂正されたが、元々あった貸付金と合わせると二十数億円にもなった。
赤字店は地方に出張した近藤らによって順次閉鎖され、現地での資産売却で得た資金が大阪に返却されて行った。各販社の本部も順次閉鎖され、その職員たちは全員職を失った。今で言う一大リストラの決行である。大仕事はやはり規模の大きな南関東販社と関西販社の整理だった。

なんとか八月末に作業は終了し、近藤以下のスタッフが資産を精一杯有利に売却してくれたお蔭で、貸付金総額は目出度く二十億を切った。だがこれによって従業員の数は半分の五百名になった。
夢が破れた同僚たちの悲鳴、絶望の恨み節、それらを直接聞きながら、淡々と仕事をこなさなければならなかったのは近藤であって、自分では無かったことを、あれから十四年が経った今、龍平は振り返りながら、たまらなく自分に嫌悪を感じるようになっていた。
問題はその後だ。香川常務は販社の整理が終わるなり、近藤以下統括部のスタッフ全員の解雇を通知した。龍平は驚き、熟年を過ぎた近藤だけでも残せないかと懇願した。


「君は傍にいる人間にだけ同情するのか? 地方の販社でその近藤を使い、顔が見えない同僚を、君は何百人も辞めさせたではないか」香川の言葉が龍平の胸に突き刺さった。

それからは、訪販事業で会社が傾く程大赤字を出したの、債務超過に陥った様だ、との噂も沈静化し、野須川寝具産業は稼ぎ頭になったカシオペア事業によって順風満帆に漕ぎ出した。
ところが年が明けて一月、毛布事業部の一大粉飾決算が発覚する。
その粉飾額は前期末に棚上げしたカシオペア販社への貸付金と同額、二十億円。
何年もの間、帝都紡績のアクリル部や、何社もの商社とぐるになって、所謂商社間の「飛ばし」と言われる方法で、元の何倍にも膨らませた損失だった。
結果、野須川寝具産業は、大阪の寝具工場を住宅公社に、毛布工場は従業員付きで新興の毛布業者に売却することになった。それによって三十億もの借入を削減し、京都府八幡の工場で、寝具生産一本での会社の再建が始まろうとした。
その間になみはや銀行と帝都紡績との会談が何度も持たれた。
一向に子会社救済の腰を上げない帝都紡績に失望し、業を煮やしたなみはや銀行山村頭取が、遂に憎き帝都紡績に一矢(いっし)を報いようと、昭和五十六年八月三十日夕刻、野須川寝具産業に命じたのは、翌朝の大阪地裁への和議申請であった。負債額六十億円を抱えての事実上の倒産であった。
この倒産の前後に毛布会社に転職した者を含め、今度は生産部門三百名以上の従業員が会社を去った。
往時の龍平なら、この倒産の原因を尋ねられたなら、総て他人の所為(せい)にしただろう。


だがその後十余年にも及ぶ苦難の生活が何かを変えたのか、自分の心の在り方が、自分だけが救われたいという身勝手な心が、因果応報の罰を受けたのだ、と龍平は思うようになっていた。
・・・私も、父も、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」に出て来る身勝手なカンダタだったのだ・・・
序章⑩に続く