序章(廃業の決断)その13


(写真は和議の後、生産部門を担当した筆者が訪販用に企画した一例)

丹南町の井川区長、下村区長を訪問して四つ橋の事務所に戻って来た龍平を、俊平会長は話があるからと遅くまで帰らずに待っていた。
「待っていたぞ! 区長から新しい話でもあったか?」
「それはありませんが、あまりにしつこく尋ねられるので、山本と三軒の話をしてしまいました」
「うん? いずれ分かることだから、それはいい、それで下村区長はなんと?」
「大変悩んでおられました、実は井川区長も桜台西自治会の話をすると悩んでおられました」
「二人共喜ばずに悩んだか、 やはりそうだ、おい池田、お前も龍平と一緒にここに来て座れ」
俊平の机は四つ橋筋が見下ろせる窓を背にしていた。その前の応接セットに龍平と座った。俊平も席から立ち上がり、彼らの前に座った。長村と水野は既に帰宅していた。

「下村区長も井川区長も悩んでいるのは、二人ともこちらの立場で考えてくれているのだ」
「あっ成る程!では私たちには可能性があるということですね」と祐介。
「そうだ、下村区長が独断で判を付くように、井川区長が三軒を無視して判を付くように、誘導すれば良い訳だ、そこでだ、よく聞いてくれ、龍平よ、工場は今月末で閉めてもらう、廃業だ!」
「えっ!」龍平と祐介は驚いて顔を見合わせた。
「会長、その決断は早過ぎないですか? いつ同意書が揃うのか、まだ全く分からないのですよ」
「だから儂(わし)らが一丸となって同意書とりに全力を上げるのだ、儂らは二兎追う者だった、寝具事業を追わずに霊園開発に集中するのだ」
「私が本業を離れて毎日丹南町を廻って来いと言う訳ですか? では聞きますが、残る私たちの給与は誰が稼ぐんですか?」と龍平。
「済まないが、今月が最後の給与だと思ってくれ、霊園が開園したら纏めて払ってやるから」
「それは仕方ないです、分かりました、でももっと大きな問題があります、月末に業者に支払う予定は前月の仕入分です、では当月の仕入分は払わないのですか、それも待ってくれと?」
カシオペア事業が消滅し、龍平が本業の責任者になってから、業者の支払いを巡って二人はずっと対立して来た。俊平は人件費を含めた経費の支払いを優先する。和議によって合法的に仕入支払を圧縮したことで、俊平は自分を責め過ぎて、精神が変になったのか、和議から数年が経つと、まるで人が変わった様に、和議を出したのは不運ではなく、とんだ儲けものだった、などと人前で得意げに言うようにさえなっていたのだ。


ところが最近になって長年の対立軸にいた父と仲良くなれそうだと龍平が思い始めた矢先のこの話である。再び揉めたくなかったが、廃業となると、業者の支払をうやむやにはできない。
しかし俊平が口にしたのは、そんな不安な思いの龍平や祐介には仰天の言葉だった。
「そこなんだ、今月末を以て廃業するのだから、集められる入金総てを使って、お世話になった業者への支払いに充ててほしい」
「それで止めるのは?」
「今月の工場の従業員の給与と退職金だ、こちらも霊園開園待ちだ、それをお前たちが説得するのだ」
たまらず池田祐介が叫んだ。
「それじゃ、最後の最後まで残ってくれた仲間が、いつ給与が貰えるのか、分からないじゃないですか、お二人は大阪府の要求する隣接三軒の同意書を忘れているのでは?」
龍平は感情的になる祐介をたしなめるように口を挟んだ。
「待て池田君、会長、それが現実的な策です、池田君、僕と会長は同じ考えだと思うが、もうひとつ口説かなければならない相手は大阪府だ、桜台西自治会と公正証書まで巻いた工事計画では、桜台と霊園の間に幅十八メートル、長さ百三十メートルの緑地を作ることになっている、結果、あの三軒は墓地には隣接せず、緑地と接するのだから、丹比自治会の同意書で充分ではないかと府に言うべきなんだ」
「それで府が納得するのですか? 詭弁だと退けるのでは?」と祐介。
「それは分からない、・・・会長、僕は会長のお考えに従います、工場の従業員には私が責任をもって説得します、ご安心下さい、池田君は彼らが失業保険を早く貰えるようすぐに手続きをして」


帰宅する俊平を見送った龍平は、ふと見せた父の悔し涙が忘れられなかった。
いつもなら工場の従業員の給与くらいは儂(わし)が出すという俊平だった。じり貧になり続ける本業に、重要な局面では何度も私財を提供した俊平だったからだ。
しかし今回の中村商事の手形の買い戻しで、蓄財を使い果たしたのだろうと龍平は理解する。
・・・今日父親と考えがこんなに一致したのはどういう訳だ? そんなことを感心したり、預貯金が無くなった父親の心配をする場合ではない、本業を廃業にして給与がなくなったら、どうして例の借金を返して行くのだ? 絶対絶命だ! 妻にはどう言えば良い? 大学に進学したい二人の娘の夢はどうなる? これからどんな運命が待っているのか?・・・
難波まで帰る四つ橋筋を夜空を仰ぎながら歩く龍平は家族の無事を祈った。
龍平は神に祈るのは永く躊躇してきた。大昔、教会に通った時代、誰から植え付けられたのか、人間の運命は総て「神のみ計らい」と享受すべしの考えが染みこんでいたのだ。
そんな龍平を変えたのは、「光明の家」の信徒たちだった。それからは彼は神に祈るようになった。
彼が祈るのはただひとつ。だがその結果、現実はこの悲惨な状況だ。
普通ならこれで神への祈りは捨てるだろう。だが龍平は、祈りが神に届かなくとも、それは自分の所為だと思うまでに心境は変化していた。
暗い空を見上げ、ふと「光明の家」の講演会で聞いた言葉を思い出し、意味を考えながら歩いた。
・・・『自分が変われば、世界が変わる』 そうだ父が変わったのは、自分が変わりつつある証拠なのかもしれない・・・

(第一章 家族、夫婦の絆①に続く)