第七章(終わりなき闇夜)その4

(大阪の長堀通りの下にある地下街「クリスタ長堀」は、西から地下鉄四つ橋線四ツ橋駅、御堂筋線心斎橋駅、堺筋線長堀橋駅の三駅を繋いでいる)

訪問販売のカシオペア事業が終了した後、龍平が羽毛布団と固綿敷布団しか生産が出来ない八幡工場を稼働する為に、最初に販路を開拓しようとアタックしたのは同業の訪販業者だった。関東で二社、大阪で一社の訪販会社が、龍平から商品供給を受けることになる。
その中の関東の一社は、元のカシオペア販売店の社員が創設した企業だが、一番早く取引を解消することになった。営業マンも、カシオペアの崩壊で放り出された社員が多く、上司の龍平や俊平を快く思っておらず、会社も、社員感情を無視することができなかったからだろう。
関東のもう一社は、東京中野の医療器具的な敷布団の販売会社だったが、他に加工費の安い製造業者を見つけたからか、取引は三年で終了した。そして大阪の訪販会社とは、それよりも早く一年以内の取引で終了した。こちらは俊平が、この会社に寝具訪販を止めるよう薦めたことが原因である。
社長は徳山康男と言って、龍平の十二歳年下で、東大阪や南大阪で中古車の販売業を営みながら、東大阪の幹線道路沿いに建つビルの何室かを借りて本社を置き、そこで寝具の訪販をしていた。龍平に似て、仕事が三度の飯より好きだという男だ。訪販事業のセールスを束ねるマネージャーは、寝具訪販最大手のミツバチマーヤの退職者だった。徳山は訪販のことはよく分からず、誰も教えてくれないから任せきりにするしかなかった。
訪販とはどんな仕事なのかを徳山に教えたのは、このマネージャーではなくて、龍平だ。
龍平は仕事を超えて、この徳山と親しくなった。徳山は夕方になれば、しょっちゅう大阪市内に出て来て、龍平と飲食を共にするのだ。

徳山は自宅に、龍平の家族を招くこともあり、彼らは家族同士での付き合いに発展して行った。
若い経営者だった徳山には、龍平が語る帝都紡績の話や、太平洋商事の話や、なみはや銀行の話は、夢想だにしない全く未知の雲の上の世界だった。
徳山は龍平の会社の歴史に興味を持ち出し、父親の俊平会長にも、ひとめ会わせてくれとせがんだ。
徳山に会った俊平も、彼が気に入り、何度か二人で昼食や夕食を共にする関係になる。
やがて徳山は、親しみを込めて龍平のことを「兄貴」と、俊平のことを「親父さん」と呼ぶようになった。
和議を出して倒産した野須川寝具に偏見を持つどころか、「凄い会社ですね、会長には凄い人脈があるのですね」と俊平や龍平の前で何度も何度も褒め称えるのは、この徳山康男だけだ。
加えて徳山には、事業を際限なく拡張して行きたいとの夢を持っていた。
だから俊平には、この徳山がとても可愛かった。
そんな徳山の悩みは、寝具訪販事業が赤字続きだったことだ。
昭和六十二年春、俊平はそんな悩みを打ち明けられ、「それなら迷うことはない、赤字が出る事業は、さっさと止めるべきだ。うちのことは考えなくても良いから」と、訪販事業の停止を徳山に進言した。
徳山は俊平の助言に素直に従い、訪販事業の従業員を全員解雇し、本社ビルを全室解約して、本拠地を中古自動車の東大阪営業所内に移転する。
以後徳山の経営は一挙に楽になったという。
しかし龍平は苦労して開拓した得意先を又一軒無くしたのである。

昭和六十三年十二月、東京の壺井は結局、何一つ注文をして来なかった。
一千七百万円の月六パー、年七割の借金が気になって、自分から壺井に送金して返済するしかないと思った龍平は、東京江東区の現金問屋の社長に頼み込み、百三十五万円の注文をとった。そして決済はいつもの振込では無く、同社の仕事始めの正月の五日に、龍平が現金を集金に行くことで話をつけた。先方の社長は、何か理由(わけ)ありだなとは思うが、それを口にしないのが、現金問屋やバッタ屋のマナーだった。
十二月二十六日月曜日、東京のグランフェザーの浜社長が血相変えて龍平に電話して来る。
「龍平さん、頼みがあるんだ。もう三百万円貸してくれと壺井さんに頼んでくれないか。月末の資金繰りが危ないんだ。三百万あれば行けるんだ。来月月初から優先して君のところに原毛を回すから、なんとか頼むよ。グランフェザーが潰れたら、君が一番困るだろ」
仕方なく龍平は壺井に電話をした。まだ三百万、枠が残っていたこともあったが、浜が言う通り、今ここでグランフェザーを潰す訳には行かなかった。
壺井もその件で同意し、水曜日の二十八日に第二口座に三百万円を振り込むと返答したが、一言付け加えた。
「それはそうと、そっちから少しは入れてくれないと困るんや。金利で枠を超えて行ったら、儂、仲間からえらい目に遭わされるからな」
「それは考えています。来月五日まで待って下さい」
「そうか、じゃその入金を待ってるわ」

昭和六十四年一月五日木曜日、龍平は東京に出張し、江東区で集金した金をそのまま振り込んだ。百三十五万だ。これでいくら借金が減ったのだろうかと早速壺井に電話したが、生憎壺井は不在だった。
翌日、大阪に戻った龍平は、再び壺井に電話し、貸付金元帳のコピーをファックスしてもらった。
いくら減ったのかと思いきや、なんと二千万円の借金残高は、数千円が減っただけだ。百三十五万円が殆ど全額が金利で消えていた。
なんという金を借りてしまったのだと、壺井から借りたことを初めて後悔した。
翌日七日土曜日の午前七時五十五分、宮内庁長官が「天皇陛下におかれましては、本日午前六時三三分、吹上御所において崩御あらせられました」と発表する。
天皇陛下は八七歳と八ヶ月のご生涯だった。
皇居正門が開き、坂下門前で弔問記帳が始まったのが午前九時。閉門の午後八時二五分までの記帳者数は、約二十八万人にのぼった。
皇太子への皇位継承の儀式は、十時に始まり、政府は午後二時から閣議を開き、新元号を「平成」と決定した。

平成元年一月九日月曜日、龍平は東京の浜から仰天する電話を受ける。
原毛の主力販売先の京都一条に一億円弱の支払いを保留されていたグランフエザーは、年末に龍平から振り込まれた三百万円を使って裁判所に自己破産を申請したのだ。
浜は龍平に何度も何度も謝った。

「ごめんな。ほんとうにご免。君を裏切るつもりはなかった。考えて考えてしたことなんだ。確かに僕は君の力にはなれなかった。それは謝るよ。ただな、僕の力では、あの京都一条に支払保留された金を取り戻すことは出来なかった。しかし僕はあの会社をこのままにはできないのだ。だから僕が破産することで、これから僕の債権者に、裁判所と一緒になって、売掛残高を請求してもらい、京都一条には、最後の一円まで払わせてやりたいんだよ」
そう言われてしまったら、龍平はなす術もない。たとえ分割にしてもらっても、新しい仕入れが出来ぬまま、裁判所に買掛金の全額を払わされるのは、龍平も同じことだった。
羽毛布団の充填剤の殆どは、中国の農家が家禽として育てるダック(合鴨)の羽根に含まれる綿毛(ダウン)である。
脂濃い合鴨の肉を毎日飽きずに食えるのは世界で漢民族だけだ。ダウンが選別される前の原毛は、漢民族が食った合鴨からの廃棄物である。その廃棄物を台湾の華僑が輸入し、洗浄し選別してダウン九十パーセントなどの製品にして日本に輸出していた。極言するなら、漢民族が合鴨を食ってくれる恩恵に浴して、世界の人々が羽毛布団で寝られるのである。
龍平は京都一条に同情しないでもない。テレビショッピングでの売価設定は誰が決めたのか。どんどん下げて行った。その都度、視聴者は刺激されて競うように注文した。販売はテレビ局のダミー会社との共同事業だったのだろう。テレビ局も、メーカー以上に販売量を追って手数料を稼がなければならない。メーカーの採算なんて知ったことではない。そんな圧力に負け、京都一条は採算が合わない水準に仕切価格を落として、グランフェザーの買掛金をつまみ食いしたのではないかと龍平は想像する。

だから龍平以上にグランフェザーの破産は京都一条には衝撃で打撃であろう。新しく羽毛業者を探しながら、恐らく長期分割になるだろうグランフェザーの買掛金払いをして行くなら、やがて京都一条は倒産するしかないだろうと龍平は心配するのであった。
しかしその心配は、他人事では無く、龍平もまったく同じ状況なのだ。
龍平は神に縋るような思いで、宗教書「生命の光」を読み続けた。
読んでいる時に、光明の家の信徒の大村淑子を思い出し、彼女から瑞穂花井商事を退職して、寝具関係の商売を始めた彼女の夫のことが頭に浮かんだ。
「そうだ、大村社長に、羽毛のサプライを頼んでみよう」と思い立つ。
売上不振に悩んでいた大村は二つ返事で引き受けた。
「商社時代から台湾の業者ならよく知っているので、直接コンテナーで輸入しよう。一コンテナーはダウン九十なら、確か一トン二百五十キロだな。グランフェザーからキロいくらで買っていたの」
「八千円です」
「すまんが、それと同じ値段で買ってくれ。総額一千万円か」
「勿論、それで結構です」
とんとん拍子に羽毛の商談は成立した。
これでダウン九十パーの羽毛布団が八百六十枚できる。羽毛の仕入れは一件落着だ。次は高利の壺井からの借金をいかに安い金利の借金に切り替えるかであった。
しかし龍平も大村も、この時重要な確認が抜けていた。代金の一千万円を何時決済するかである。

第七章 終わりなき闇夜 その⑤ に続く