第十章(自分が変われば世界が変わる) その14(最終節)

(小説の丹南メモリアルパークのモデル、美原ロイヤルメモリアルパークにある筆者の父母の墓。墓石のスタイルは古代型五輪塔墓、前面には南無阿弥陀仏と彫り、背面には梵字で風空火水地と彫っている。墓地のデザインは風水の墓の思想を取り入れている。左手に阿弥陀仏像を彫った石版をとりつけ、右の墓標には筆者三代前の先祖の夫婦名から始まるように彫ってある)

早速その書状を開封した。差出人は、聞いたこともない外国の企業名だ。
書状には、「浪銀ファイナンスの二十九億の債権がこの度、弊社に譲渡されたことにより、今後の返済計画については弊社が聞くことになります」という内容だった。宛先は野須川寝具代表取締役、野須川俊平と、連帯保証人の野須川俊平個人だった。差出人としてアメリカの金融会社名とその日本国支配人名、そして日本の弁護士名が記載されていた。
遂にこの時が来た。龍平は緊張しつつも怖がることはなかった。理由はこうである。
不良債権の処理について政府は遂に方針を固めた。貸倒引当金を立てろとは既に指示してある。殆どの銀行が程度の差こそあれ債務超過に陥っていた。
政府は引当金と不良債権との相殺を厳禁した。内々で処理すれば闇から闇へと葬られ、責任の所在が不明瞭になるからだ。この際、銀行の経営陣も一新し、金融界の再編を促したいと政府は考えた。
具体的には、不良資産を第三者に査定してもらって売却せよと、売却損は貸倒引当金を使って償却せよと全国の金融機関に指示した。
全国の金融機関のマイナスの剰余金をプラスに戻す為には、向こう十年間(一般企業は累損を使って税を払わずに済ませられるのは五年である)の法人税免除の方針が決まり、振込手数料など手数料収入の料率の大幅アップが促された。そしてバブル時代の不良資産を買い叩きに来たのが外資系金融だ。
マスコミは外資は不良資産を好きなように査定し、さらにそれから値引きさせて買い叩いていると報道した。だからマスコミは彼らをハゲタカと呼んだのだ。

往時の国民には、ハゲタカと言われる外資の不良債権の買い取り実態は知らされなかった。
龍平は父親が亡くなる前に、銀行に勤務する同窓生を呼び出し、飲食を共にしながら、ハゲタカの資産買い取りの実態を聞き出していた。外資のハゲタカは、いちいち査定などはしてはいなかった。おしなべて一件五万円から数十万円くらいで購入しているとの情報を得た。
「野須川君、君の会社なんか、何年も前に廃業し、固定資産(不動産等)もなく、流動資産(現預金等)もないのだから、そんな会社の債権なら間違いなく五万か十万で買っているに違いない」と、銀行融資部にいる友人が教えてくれたのが、龍平が外資を恐れなくなった理由だった。
その書状を顧問弁護士に届け、友人から得た情報も付け加えた。それを興味深く聞いた弁護士は、俊平の死を予想して「お父さんの遺産の処理の時を千載一遇のチャンスだと思って、勇気を振り絞って、お父さんから連帯保証をとる債権者と戦うんだよ」と龍平に告げた。

十二月二十六日、野須川俊平は、病室で妻と龍平夫婦に看取られ、病院で静かに息をひきとった。享年七十七歳。
二十七日は友引だった為に、一旦俊平の遺体は自宅に戻され、翌日の夜に葬儀会場に移され、通夜式、その翌日二十九日が告別式となった。会場は関西石材の提携先の平野の葬儀会館が使われた。
どこで知ったのか、京都山本の会長、社長が葬儀に参列した。元の野須川寝具の時代の幹部たちや俊平の旧友たち、霊園事業の関連先、そして龍平の信仰仲間も参列した。
俊平の告別式が終わり、平成十三年の年が明ける。
龍平は俊平の遺産処理、保証債務の履行に向かって敏速に行動を開始した。

俊平に直接債権があった寧楽銀行あやめ池支店、連帯保証をしていたなみはや銀行と、同じく連帯保証をしていた浪銀ファイナンスの債権を譲渡された外資の三社に、債務者の死亡を弁護士から通知してもらい、債権届けを集めることになった。
野須川寝具あるいは、野須川俊平個人からどうやって債権を回収しようかと外資が策を練る時間を与えたくなかった。
慌てて外資は俊平の個人財産をチエックしたかもしれない。しかし俊平の名義の資産は何も見つからない。自宅さえ俊平名義ではなかった。
昔、あやめ池の俊平宅に付けられていたなみはや銀行の担保は、昭和五十六年の和議の時に、山村頭取の鶴の一声で解除され、長らく担保がつかない期間があった。
俊平はその間に弁護士や税理士と相談しながら、税金も払いながら、長年月をかけて妻と龍平の名義に変えていたのだ。だから平成四年に融資を受けた寧楽銀行への担保提供者は、俊平ではなく、龍平と俊平の妻美智子である。
龍平は俊平の死が迫って来ると、俊平名義の寧楽ゴルフ倶楽部の会員権を二千万円で売却し、俊平名義の預金残高や、俊平が所持した絵画・骨董類、ゴルフ道具等の売却した金を加えて、合わせて何千万円かを俊平の遺産の総額として顧問弁護士に預けた。
さて八幡工場を閉鎖した時点では、従業員の給与資金をなみはや銀行に借りなければならない程に現預金がなかった俊平が、その六年後には会社に二千万円も貸して、まだ金を持っていたのはどうしたことだろう。

六十歳から俊平には厚生年金があった。亡くなった徳山康男の中古自動車の会社だが、徳山の細君が社長に就任した。俊平はその会社の役員になって顧問料収入を得ていた。加えて自分の給与も美智子に渡す生活費以外は、殆ど使わずにいたから、このような金が短期間に蓄えられた訳であった。
本当はもう一千万円持っていた。バブルで二兆円もの不良資産を作った政府系のある銀行の株価が、平成十二年になると僅か二百円になったけれど、どうやら年内に潰れそうだとの噂が拡がると、額面の百円さえも割り込んだ。その時俊平は、わざわざ病院から証券会社に電話して、破綻直前の銀行株を一千万円分購入したのだ。政府が潰さないと思ったのだ。その株は十一月には本当に紙屑になった。更生法ではなく、破産したのだ。国民には衝撃だった。
弁護士は龍平を俊平の遺産の管財人に選任する申請を、裁判所に提出し了解をとった。
龍平は二人の妹を呼んで、連帯保証債務の過大な父親の遺産相続を放棄する書類にサインさせた。
俊平の遺産は、届けられた債権額に応じ、管財人龍平の名で、外資となみはや銀行と寧楽銀行の三社に配当された。
外資に配当される金額は全体の八割強だった。外資は僅か一ヶ月余りで投資額(債権購入額)の何百倍の配当を得ただろうから、何をか言わんやであっただろう。
それでも外資の日本人社員は厚かましくも、野須川寝具顧問弁護士の事務所に関係者が集まろうと言いだし、「こんな金で済ませると思っているのか」と龍平に迫った。
浪銀ファイナンスが言うならまだしも、債権をただ同然の金で買った外資には、龍平は言われたくはなかった。

龍平は平然と取り合わなかった。いつからこんなに強くなったのかと龍平自身が驚くほどだ。
外資の男はすごすごと帰って行った。
外資も、なみはや銀行も、以後二度と龍平の前に姿を現さなかった。
顧問弁護士は、龍平に言い聞かせるのだった。
「君はお父さんにどんなに感謝しても感謝しきれないだろう。お父さんは前々から周到な準備をして、最期に自分の命までを投げ出し、息子の君を会社の債務から守られたのだから」
龍平もそう思っていたから、返す言葉が見つからなかった。

俊平の資産は実は債権者に配当した数千万円の現金以外にもうひとつあった。それは弁護士にも話をしていない。俊平が会社に貸していた二千万円である。
俊平の債権を野須川寝具から香川大社に移そうが、残っておれば、結局それも債権者に渡さなければならないし、債権者から現金化を要求されたなら、往時の霊園では、支払いの目処が立たなかった。
だからこれは俊平の遺産には含められないと龍平は早くから直感していた。
俊平がまだ元気で入院していた時だ。
「野須川家の墓を丹南メモリアルパークに新しく造りたい」と俊平が漏らしたことがあった。それを聞いた龍平は「そうだ、その手があった」とばかり、俊平の債権二千万円で、特大の墓地を石垣組み工事の代金込みで素早く買った。
だから俊平が亡くなった時点では、数千万円だけが遺産として残ったという訳だ。

野須川寝具産業は廃業した平成五年八月の時点では、持てる不動産は「八幡工場」と「丹南町の土地」だけだった。前者は二億円で競売され、後者は関西石材からの入金などを使って三億五千万円がなみはや銀行に支払われ、担保解除になったことを思い起こすなら、加えて代表者の連帯保証も遺産金の配当という形で終了したのであるから、総ての債務の弁済は法人も保証人個人も、道義の問題は別にして「法的には」これを持って終了したことになる。
俊平と龍平の債務支払いへの義務感との長い長い葛藤も、これで終止符が打たれたのである。
苦しみの葛藤が終わると、龍平の人生は「和解」と「感謝」の満ちあふれた光の世界に変わった。

長い長い間、黒い雲で覆われていた空が晴れて行くように、丹南メモリアルパークに光が差し始めた。
平成十三年の春には、霊園のすぐ横で三年後の開通を目指す工事中の南阪奈道が、姿を現し始めた。
それに伴い、霊園の進入路が先に幅六メートルに拡張され、南阪奈道側道に接続された。
霊園の真横に高速道路への出入口「丹南東インターチエンジ」を造る工事も始まり、この霊園が将来の交通要地になると分かって墓地の見学者が増え出すのもこの頃からである。
俊平の死後、龍平は女子事務員を解雇し、妻の智代を経理に入れ、企業会計を妻に教えた。
その年の四月から、それまで関西石材がしてきた霊園の管理運営業務を引き継ぎ、墓地を管理する非課税の会計組織とは別の「霊園管理部」の会計組織を作った。
そして龍平はこの年、未完成だった造成工事を完成させる。コンクリートの擁壁に日本瓦が乗せられ、表面は左官され、吹きつけで土塀の色に装飾され、玄関も完成した。

玄関前の空き地には埋葬者を供養する六地蔵の石像が安置された。
この年の夏のお盆の前に、霊園新聞を発行し、霊園管理部がスタートし、霊園のリフォーム工事が完成したことを、総ての墓地使用者に知らせた。
すると「墓地を買った霊園がどのように改良工事がなされたのか」を確認しようとする人々が、家族連れでお盆ウイークにどっと来園したのだ。
以来、春秋の彼岸とお盆のウイークは、猛烈な墓参客が訪れる霊園になる。
平成十四年三月には、池田祐介が退職することになった。
前年の暮れのことだが、祐介が三百万円の借金に悩んでいることを偶然に龍平が知ったのだ。そのことも驚きだったが、なぜ借金をしたのかを知って衝撃を受ける。祐介は八幡工場に廃業時に残った買掛金を、その後借金してまで個人で払ったというのだ。
それでは悪いのはそれを忘れていた龍平ではないか。
だが龍平は、そんなに苦しみながらも、自分に相談されなかったことがショックで、ここで袂を分かつ決意をした。退職金として三百万円を祐介に渡した。そして祐介を管理職として教育できなかったことが心残りだからと、三十数万円を出して、辞める直前に富士宮の管理者養成学校、世に言う「地獄の訓練」に行かせた。祐介は経理マンとしては有能な人材だ。龍平は熟考した後に、彼の能力を霊園事業に埋もれさせるのは惜しいと思って決断したのだ。

そして同時に四ツ橋ビルを解約し、霊園に近い松原駅駅前の貸しビルに本社を移し、取引銀行が寧楽銀行のあやめ池支店だったから妻を在宅勤務に変えた。
龍平が父親の墓の建造に入ったのは、同じ十四年の夏だ。そして宗教法人香川大社が大阪府で認証されたのは、この年の秋だ。申請から二年半後だった。
これで押しも押されぬ宗教法人となったのである。
そしてこの年の暮れ、俊平の三回忌に合わせ、俊平の墓の開眼式納骨式が行われた。
十二月というのに、太陽が暖かく墓地を照らしていた。
野須川家の親族、関西石材の坂下社長、それに泉州の中堅企業に勤めていた池田祐介、そして大阪の製鉄会社勤務で定年間近の多賀信也も参列した。
多賀は、かつて鶴見の布団工場が全焼する直前に中途入社してきた男で、カシオペア北関東販社の責任者を務め、和議の後は、俊平に命じられて婦人肌着のシステム販売の事業部を担当し、カシオペアが解消した後は退職して、製鉄会社に中途入社したのだ。祐介も務めた会社の高給の経理部長に収まっていた。
新しくできた野須川家の墓地は、管理棟のすぐ横にあって、高い土地に建つ管理棟から見下ろされないよう、龍平が石垣を積んで少し高くしたのだ。
出来上がった墓に父親の遺骨を埋葬した時に、龍平は自分がデザインした五輪塔古代型の墓石を改めて眺めるのだった。
「この人ほど、僕を愛した人はいなかった」と龍平は心の中で呟いた。

第十一章 跋章に続く