第二章(個別訪問セールス)その12

(初期の訪問販売に使った肌フトン、往時のカタログから)

龍平のも、他の応募者の履歴書も、面接官の藤崎は一切目を通さず、手にするのは求人面接者のリスト表のみだ。応募者の外見だけ見て、辞退を勧告したのではないだろうか。それなら龍平は諦める訳にはいかない。
「お言葉ですが、辛い仕事だってことは分かっています。私の体験が何の役にも立たないことも。だけど私には妻が

いて、秋には子供もできるのです。それなのに最後に勤めた会社の社長は酷い男で、給与を三か月も待たせた挙句に、会社を畳んで夜逃げしました。これでは私も、身重の妻も、一緒に首を吊らねばなりません。頭を下げてお願いします。この私をどうか使ってみてください」
妻の智代が妊娠した話だけは本当だ。予定月は十月だった。妻が妊娠したというのに数ヶ月後には東京単身赴任なのだ。
さて藤崎はそのような返答を待っていたのか、ニコっと笑って、ボールペンで龍平の名の横欄に「採用」と書き、明日九時に出社するようにと指示した。もしかしたら面接者全員に同じことを言って、試しているのかもしれない。

帰社後、野須川寝具から応募した者たち全員が無事採用になったことを知って、龍平はほっとする。
翌日朝十時から、江坂のミツバチ・マーヤ関西支社の一室で、野須川寝具の社員六名を含む、約二十名の昨日付けの採用者が、午前中は商品管理の事務官から商品知識の講習を、午後は藤崎部長からドア・ツー・ドアのセールス・テクニックの講習を受けた。
午後の講習では、龍平は一言も聞き漏らさないように真剣にメモをとる。
ドア・ツー・ドアの営業には、アプローチ、フロントトーク、プレゼンテーション、クロージング、アフタークロージングという五つのステップがあると言う。
アプローチは訪問家庭のドアを開けさせること。フロントトークは玄関に入って商品を見てもらうまで親しく話しこむこと。プレゼンテーションとクロージングは言葉通り、商品説明と契約である。

契約は成立したが、ドア・ツーの泣き所、お客をいくら洗脳して契約に持ち込もうが、お客は後で冷静になり、商品購入の興奮から冷めてしまう。
それでもキャンセルにはならないようにする手立てが、アフタークロージングだと教えられた。
そこで藤崎は受講生に向かって質問する。
「君たち、この中で、販売契約を成立させる為に、最も重要なステップは何だと思いますか? さあ手を挙げて」
プレゼンテーションに手を挙げた者が六割、後はフロントトークとクロージングに答えが分かれた。
藤崎は腹を抱え、笑いながら答える。
「あっははは。この中にはドア・ツーの理解者はひとりもいないようですね。野須川君は、もう分かりましたね、正解は」
「つまり、アプローチなのですね」
「そうです、考えてもみましょう、アプローチに成功しなければ、その次のステップに進めないじゃありませんか。アプローチの成功は成約への道程を八割迄進んだと考えても良いのですよ。だがアプローチに成功するノウハウは特にありません。それは諸君に現場で練習してもらうしかないのです。では次にフロントトークのテクニックを説明いたしましょう」

講習は四時に終わった。島崎は受講者に解散を宣言しながら、龍平と尼子の二人には、少し聞きたいことがあるから残るようにと命じた。

講習の間、事務方で採用された人間の履歴書の内容チエックをしていたのかもしれない。何か気づいたのだろうか。龍平は顔色を変える。
だが藤崎が問題にしたのは、二人の最後の就職先だけだ。「改良寝具」、面接時にそれを見落としたようだ。
「お二人に尋ねますが、最後におられた会社はどんな会社です? 実は布団関連からは採らないことになっていましてね」
龍平は、吉崎が真相を知ったのではなく、誤解しているだけと気づいて、笑顔を作りながら、藤崎の不安を打ち消しに掛かった。
「いいえ、部長、改良寝具は布団の会社ではありません。泉大津から仕入れた毛布を地方の問屋に卸す会社なのです。まったく業種が違います」
「そうなのですか、本社から聞いてきたものですから」
「どうして同業は採用できないのですか?」
「いや、いいのです、そのことは忘れて下さい。それよりも野須川君、面接の時、君は別の部署で働くべき人材だと思いました。営業では直ぐに潰れてしまいそうで、僕もこの会社に人材が欲しくてね、本社に聞いてみたのですが、首を横に振られました。君の身元がはっきりしないのが問題のようです。君がいた総ての会社と連絡がつきませんからね」
「すみません。私に就職運がなくて」
「要は講習で説明したように、給与二十二万円保証は一か月だけですから、翌月は固定給が十七万円

に下がり、後は歩合で稼がなければならない。はっきり言って、月に百万も売れないのは当社では要りません。百三十五万くらい売らないと二十二万の給与にはならないのですよ」
「ご配慮ありがとうございます。でも一か月営業で必死に働いてみようと思います。百万も売れなければ、他で仕事を探すことにいたします」
藤崎は何か本社から言われていたようで、成績如何で辞めますと言った途端、ほっとした表情になるのを龍平は見逃さなかった。
どうやら自分を得たいの知れない要注意人物と会社はマークしたようだ、と思った。

明くる朝は八時半の出勤だ。支社は一部店と二部店に分かれ、それぞれセールス三十数名が配属されている。龍平は一部店に配属され、柿色のジャンパーが支給され、自己紹介の挨拶の後、初日の車輛長、宗川係長に引き合わされる。それから一部店と二部店が同じ大きな部屋に集まり、サングラスを付け、真っ白なスーツ姿の藤崎部長の朝礼が始まるのだ。
営業部員の前での藤崎は、やくざ映画さながらの乱暴な言い方に変え、まるで人が変わったようだ。
「おい、今日も命がけで売って来るぞ、どんなに辛くとも売ってみせるぞ、誰の為に命を懸けるのだ? 聞こえない、そうだ、家族の為だ、可愛い妻が、子供たちが、お前たちの給与を待っているのだ、だから家族の為に命がけでやって来い、分かったら出発だ」
おうーと、一斉に柿色のジャンパーを着た営業たちが立ち上がり、表に向かって走った。行き先は事務所ビルから数百メートル先の商品倉庫だ。

第二章 個別訪問セールス その⑬に続く