序章(廃業の決断)その8
龍平は四つ橋の雑居ビルのトイレの洗面台の鏡に映る自分を見ながら、十四年前のこの日を昨日のように思い出していた。
・・・あの頃が野須川寝具産業の絶頂期だった。製造部門の人間、直営六社の販社に勤務する人間、合わせて千名を超える人間が、野須川寝具産業を上場企業にしようと、きっとそうなると信じて、必死で頑張っていたのだ。そんな夢を潰したくなくて、野須川家が創業したこの会社を守ろうと必死に働いて、結果的に彼らの夢を奪ったのは、この私だったのだ、・・・
龍平はうなだれながら深いため息をついた。
十四年前の龍平なら・・、決してこのようには考えなかっただろう。
(筆者の昔の会社の毛布事業部のショールーム。ハイゲージタフトのアクリル総柄毛布が並ぶ。)
十四年前、東京に戻った翌日には、龍平は妻と妻の母親の二人に平身低頭頼み込み、大阪市城東区今福のマンションで、東京から引越業者が運んできた家財を無事に受け取ってもらった。そして彼は、その日から東大阪の府道、大阪生駒奈良線に面した野須川寝具が昔倉庫に使っていた廃屋同然の古い建物を改造して造った、カシオペア関西販社大東店に新しい店長として赴任した。
かくして龍平の逆境の時代が始まった。なみはや銀行の山村頭取の言葉を引用すれば「逆境は人を育てる」のだ。
龍平はあの逆境の時代、全身全霊を打ち込み、毎日毎日早朝から深夜まで必死で働いた日々を思い出し、次のように考えた。
・・・大阪本社の社員たちは、私が関西販社に拾われたと噂に聞いても、きっと誰一人、まさか一年後に本社の役員として戻って来るとは夢にも思わなかっただろう。訪問販売事業とは勝に過酷な職場だ。もの造りの様に日々積み重ねていく仕事では無く、毎日がゼロからのスタートだ。だから人の新陳代謝も激しく、訪販業の一年は、他の会社の五、六年には相当する。だから私のことも、きっと使い捨てられ、その内どこかに消えてしまうだろう、くらいに思っていたに違いない。
だが、私は耐えに耐えた。それはきっと、私を陥れる為に、あることないことを役員会に吹聴した近藤経理部長や販社統括部門のスタッフへの、そして、彼らにそれを指示した黒幕の、悪意ある役員たちへの、許し難い強い憎しみが、この逆境の日々を私に耐えさせたのだ・・・
龍平はそこで首を横にふった。
・・・否、彼らを怨むのは違うのだ。憎しみからは何も生まれないと、今の私なら知っている。
それよりも私を拾ってくれた神様に感謝しなければならない。その神様とは、先ずは田岡社長だ。そしてもう一人の神様は、私がまだ東京の浜松町本部にいた昭和五十四年一月から、なみはや銀行の山村頭取の命を受け、野須川寝具産業の財務監査目的で出向して来た香川武彦常務なのだ。
一年後に、まさかの人事異動案を上司の山村頭取に懇願してまで、私を本社に戻して下さり、親父俊平の反対を押し切って他の役員たちと肩を並べる地位に取り上げて下さったのだ・・・
香川武彦、なみはや銀行では珍しく、関西の一流国立大学の出だ。そんなエリート行員が、問題融資先への出向とは。人並み外れた明晰な頭脳で周りの行員を上から見る香川と、理屈より結果が総ての帝国海軍上がりの山村頭取とは、そりが合わなかったのだろうか。
香川を野須川寝具に送り込んで一年後、昭和五十五年四月になって山村頭取が香川に下したのは、カシオペア販社の全社閉鎖と黒字店のみの直営化という仰天の命令であった。それも後五ヶ月、年度末の八月末に総ての作業を終了して、残る焦げ付き債権を、野須川寝具産業が持てる不動産の含み益の二十億円未満にすべしというものだった。
これにはいくら自信過剰の香川も、顔色を変える。そこで彼がその命令を期限内に完了するには、カシオペア販社の内情に通じていて、実務能力がある逸材として、(密かに個人的な交際を続けていた)野須川龍平が必要なのだと、龍平を是非自分の相棒にして欲しいと上司の山村にお願いしたのだった。
序章⑨に続く