第八章(裁かれる者たち)その8

 

(筆者が経営する霊園の販促写真。ピクニック気分で墓参が出来る霊園だとアピールするのが目的。)

平成二年九月に入る。浪銀ファイナンスの秦田は、今更ながらだが、野須川寝具が進めてきた丹南町の山林三千坪の地目を宅地に変更するのはまだにしても、四十五軒の宅地に変える造成工事は既に終了したのであるから、それに掛かった原価を知る必要があると思いだした。
俊平会長は本件について、地域の有力者で藤井寺駅前の南河不動産の会長であった黒田に総て任せきりで、これまで掛かった資金も全額黒田に立て替えてもらっていた。為に俊平は、黒田にその原価については聞きづらい立場にあったから、俊平も秦田も、それに掛かった原価を知ることなしに今日まで来てしまっていたのだった。
秦田に何度もせっつかれて、俊平は意を決し、黒田から請求書をもらうことにした。黒田は黒田で、造成工事のことは、懇意にする配下の丹南町の西原建設に任せきりだった。
黒田が西原に言って請求書を持って来させ、それに基づいて野須川寝具宛てに請求書を持って来たのは、九月も中旬だった。請求額は九憶円。
坪当たり十万円もしない山林の開発費・宅地造成費が、坪当たり三十万円も掛かったことになる。
俊平は真っ青になった。この原価で楠木住建に十二億円で売却するなら、元々の山林の原価が殆ど回収されなくなってしまうではないか。

黒田会長も当然それに気づいていた。だから再度、西原建設を呼び、造成原価をもっと下げろと何度も言った。しかし強欲な西原は、もう済んだ工事だから今更原価を下げようがないと抵抗し、結局九億円の請求額が下がることは無かった。
それまでなんとなく感じていた秦田の不安が的中したことになる。
黒田会長自身に悪意がなくても、その取り巻きの西原は、不動産バブルに便乗する強欲で、質(たち)の悪い土建屋だった。
そんな悪質な業者しか配下にいない南河不動産に、総てを任せたのはやはり大間違いだったと、秦田はため息をつく。こうなった以上、浪銀ファイナンスが、一旦九億円全額立て替えてでも、南河不動産には手を引いてもらうしかない。この土地を販売するには、この土地についたなみはや銀行の三億の担保も解除しなければならないのだ。
秦田は西原建設によって出来上がった四十五軒の宅地の隣の帝急ニュータウンの宅地の販売価格に注目した。開発地の隣地、桜台西一丁目は、総て住宅を建てて分譲しているから、その内の土地代はいくらかは分かりにくいが、約二十五坪の宅地に家を建て、一戸当たり平均七千万円台で分譲したのであるから、土地代は四千万から五千万というところだろうか。
ところで野須川寝具の開発した宅地の平均面積は平均約四十坪だ。だとするなら一戸当たり、最低でも六千万から七千万円ぐらいで売らなければならないだろう。それで行くと四十五軒分の宅地分譲価格は二十七億から三十一億五千万円になる筈だった。だとしたらやっぱり楠木住建には安すぎる価格で契約したことになる。

やはり楠木住建との契約は白紙撤回しかないと秦田は結論付けた。そして次の宅建会社には、帝急不動産に習って三十億前後で売ることにしようと心に決める。それならこの宅地についたなみはや銀行の担保とともに、八幡工場に残ったなみはや銀行の担保まで消すことができるのだ。
帝急ニュータウンの東隣の富田林市内に最近開発されたニュータウンでは、五十坪の宅地に家が建って、一戸一億円以上で飛ぶように売れていた時代であった。
大阪府がこの三千坪の開発地の開発調整地域解除に手間取っている間に、楠木住建とは白紙撤回で話を纏めてしまおうと秦田は俊平を口説いた。俊平も否応はなかった。
だが楠木住建は烈火の如く怒った。ことを急いだ秦田は、五億円のキャンセル料で話をつける。三十億円で売れるなら五億円払っても、まだその方が有利だと俊平を説得した。楠木住建と取引を密にしていたのは秦田の方だ。楠木住建とは貸し借りがあっただろう秦田が、自分の都合で決めた五億円のキャンセル料だったのかもしれない。
平成二年十月、野須川寝具は八幡工場の買い戻しの際に借りた十六憶円に加え、さらに十四億円を浪銀ファイナンスから借りて、南河不動産に九憶円を、楠木住建に五億円を払った。
後は大阪府からの調整解除の回答を待つのみだった。

丹南町の宅地の件が今度は浪銀ファイナンスに任されることになって、俊平と龍平は、羽毛ポンチョを発注する為に在日の徳山の案内で韓国ソウルの縫製会社を訪ねた。この会社では確かに羽毛ポンチョを大量に生産していた。殆どが日本への輸出向けだった。

製造原価から割り出すと小売上代が四千円から五千円になってしまう。いくら着たら温かいとは言え、この値段を下着に出せるのは日本人しかいなかった。問題は納期だ。目一杯日本の量販店からの注文を受けているから、今からの発注なら十一月納期がやっとだと言う。
龍平は声を荒げた。自分たちはメーカーなんだと、小売店に納めた後に、メーカーに納品するなどとはよく言えたものだと怒鳴ってしまう。
新規の取引先と最初から揉めるのを嫌った俊平は、後は間に入った徳山君に任せてようと、納期の話を打ち切ってしまった。
その後は社長の父親である会長が出て来て、まだ時間は早いが飯にしようと、その後は美味しい酒をごちそうしたいと、何なら若くて綺麗な女の子がいる店に行きましょうか、などと言って来た。都合の悪いことを接待で誤魔化そうとする会社かと不信感を持つ龍平だったが、俊平が食事接待だけ受け入れ、その後のことは総てきっぱり断ったから、三人は早くホテルに戻ることが出来た。龍平は徳山とホテルのラウンジで遅くまで飲んだ。二人で飲むのは久しぶりだった。
だが十一月中待っても、韓国から羽毛ポンチョは着かなかった。
八幡の工場に送られて着たのは、年末ぎりぎりの日だった。普通なら寝具メーカーとして今季の商売は諦めるしかなかった。
それでも俊平は、まだ量販店なら買ってくれるところがあるのではと、龍平に見本を持って回るよう指示したが、梱包ケースを開けてみたら、どの製品にも縫い糸の端が尻尾か髭のように何本もぶら下がっていて、まったく仕上工程を省いたものだと言うことが分かった。

外国から輸入する時に覚悟しなければならないリスクだ。輸出側は商品を船に積みさえすれば代金がもらえる制度、それが貿易だ。港の検査官も、梱包ケースを抜き打ちに幾つか開けて、中に詰められているのがポリ袋に入った羽毛ポンチョだと確認したら、問題なしとケースの蓋を閉じたのだろう、
龍平は八幡工場の作業を止めて、羽毛ポンチョをポリ袋から出して、仕上をしてもらった。八幡工場はこのお蔭で本業が出来ぬまま、年末まで残業が続く。
まだ手つかずに残った半製品を総て龍平は自宅に持ち帰る。後は家族ぐるみでポンチョの仕上げの内職を正月休み明けまで続けなければならなかった。
龍平は一月にこんな冬物が売れるのだろうかと不安になる。
一方俊平はと言えば、この年末から正月休みにかけて一睡も出来なかった。万事窮す、まだ龍平の家族にも言えない。突然のことだが、野須川家は龍平の家族も含めて、自己破産するしかないかもしれない処に追い込まれたのだ。
明日から年末の休みに入るという日になって、丹南町の助役から俊平に電話が入った。俊平が申請した三千坪の山林の調整区域解除の申請を、府は断固拒否する旨、町に回答があったのだ。三十億であの物件を買っても良いという宅建業者が現れた矢先のことだった。
助役や建設部長の野村は、必ずや申請が許可されるものとして、四十五軒の宅地にする設計や工事にいた、あまりにも首を突っ込み過ぎていた。
助役は辞職してこの責任をとると自らの非力を俊平に詫びた。問題はなみはや銀行はどう出るか、破産をかけて来るかどうかだ。

第八章 裁かれる者たち その⑨に続く