第九章(祈りの効用) その10

(筆者が経営する羽曳野市の霊園にあるペット永代供養墓。モデルさん母娘が個別埋葬のペット墓を見つめている)

五月は一ヶ月間、明けても暮れても龍平は必死となって光明の家の和解の神示の写経を続けた。また毎朝五時に起きて真剣に光明の家の瞑想行の「実相観」を行じた。その後はもちろん聖経「甘露の法雨」読誦(どくじゅ)である。
龍平は祈って、祈って、祈り続けた。「神様、付近住民の同意書が得られなくとも、知事さんが宗教法人香川大社に霊園事業の許認可を降ろしてくださいますように」と。
岐阜の建築業の社長の話なら、在庫の土地が売れなくて困っていた不動産屋は、百八回の写経を始めたら、それが終わる前に「その土地、分けてもらおう」と電話が入ったくらいなのに、龍平の場合は何十枚写経しても一向に事態の動く気配は無かった。

五月中旬のある日、俊平はなんとしても環境衛生課の参事の逃げ道を塞ぎ、今度こそは許認可とりに王手をかけてやると、本田や黒田を誘って府庁に出かけようとしたが、その日に限って本田も黒田も都合が悪く、俊平ひとりで府庁の環境衛生課を訪ねることになった。
参事は俊平がひとりでやって来たので、今日は互いに本音で話せる環境だと期待してか、珍しく参事から上機嫌で話しかけてきた。
「今日はお一人とは珍しい。丁度良かった。一度申請者ご本人に伺いたいと思っていたのですよ」
「何の話ですか。今日はたまたま黒田会長も、本田君も都合が悪くてね」

「聞くところによりますと、会長は付近住民の同意書を集めてくれる人に、何億もの謝礼金を渡されるとの噂が、ここ府庁にも流れて来ておりますが、それは本当なのですか」
「それは儂を貶める為に捏造された作り話ですよ。ただ儂も、あの付近住民の同意書をとって来てもらえるなら、一億くらい払っても良いと思っていますよ。しかし具体的にはそんなこと、誰にも頼んではおりませんがね」
「野須川会長、同意書をお金で買ってもらってはいけません。そんなことが公になったら、我々は許認可を出したくても出せなくなるのですからね。その点ご承知下さい」
「何言ってるんだ。何が何でも近隣住民の同意書をとって来いと言ったのは、どこの誰なんだい」
「会長は当初、誤解されていたようで、こちらにお越しになって三ヶ月くらい後だったと思いますが、こちらから会長に教えましたね。『霊園事業の許認可に必要なのは、確かに条例の文章では、申請地から半径三百メートル以内に住む全住民の同意とありますが、同意書に判を押すのは、その人々が所属する自治会の責任者です。ですから香川大社様の場合、申請地北側の丹比地区自治会と、南側の桜台西自治会の両地区の区長の同意印が必要です。それに申請地には三軒の民家が隣接しているので、この三軒だけは、それぞれ個別に同意書をとってもらわねばなりません』とね。その後も、お金をくれたら、同意書をとってやろうと言う輩がやって来ていますか」
「大阪府さんが同意条件を明確にして下さったお陰で、その後は、そんな輩が事務所にやって来るのはめっきりと減りました」
「自治会の代表者である区長さんを買収したりはしないで下さいよ」

「馬鹿な、区長は公人ですよ。儂がそんな汚い手を使うとでも」
図星のところを突いたと参事は前のめりになる。
「大変お金持ちそうな会長さんだとの噂ですからね、我々も心配するのです。自分が住民の同意を集めて見せると言って、お金をせびりにやって来る人物は今もいるのですね」
「最近は殆ど無くなりました。ただこの一年間で、十名近い数の連中がやって来ました。しかし誰一人信用できそうな人物ではありませんでしたから、皆丁重にお断りしました」
「そういう事態なら、私たち環境衛生課も腹を括って対応を考えなければなりませんね。そんな問題が起こる前に、白黒をはっきり付けるべきなのでしょう」
「だから一日も早く結論を出して下さいとお願いしているのです」
「その点は会長のおっしゃることに一理あることは認めますよ。それでは伺いますが、その後も桜台西自治会は霊園事業を説明する住民集会を開いてくれないのですか」
「一向に埒があきません。住民のほんの数名が絶対反対を言っているので、下村区長も動きようが無いのだと思います」
実際に昨秋から俊平は桜台西自治会の地区長に、何度も霊園事業を説明する為の住民集会を開いてくれと嘆願していたが、すべて区長に一蹴されていた。大阪府はこのことも問題にしていた。丹比地区と桜台西自治会ともに、香川大社との住民集会を早期に開かせるべきだと考えるようになっていた。俊平には明かさなかったが。
「そんなにその人たちには、霊園の出来るのが嫌なんですね」

「違いますよ。本心では霊園が近くに出来るのは嬉しいんだ。墓参りが楽になるからな。反対するのは、お金の為ですよ。粘れば粘るほど、同意の相場が上がるのだからな。どうせ桜台西の下村区長だって、そんな輩と変わらない気持ちではないですかね」
これには参事も黙ってはいられない。
「言葉を慎んで下さい。何の証拠もないのに、勝手な憶測でそんなことを言ったら駄目でしょう。下村区長さんから名誉毀損で訴えられますよ」
「他所では言いませんよ。ここだけの話です」
「野須川会長に変な前例を作ってもらうと、大阪府の墓地行政が歪むことになりますので。我々も早く結論を出そうと思います。そこでもう一度会長にお伺いしたいのですが、前回黒田さんが、住民の同意など絶対条件ではない筈だなどと、私たちの前で大きな声で言われたので大変困ったのですが、会長も黒田さんと同じお考えなのですか」
「私は付近住民様と仲良くやって行きたいと思っていますよ」
「そうでしょう。付近住民と喧嘩したまま霊園をオープンしても、決して墓地の分譲はうまく行きません。会長が黒田さんとはお考えが違うと伺い、安心しました。それでは会長、この書類にサイン願いませんか」
俊平に手渡された書類には「私は付近住民の同意が無ければ、墓地の造成工事にも、墓地の販売にも掛かりません」と印字されていた。
「何だい、これは」

「だから会長の住民を大事にされるお気持ちを私たちに見せてほしいだけなのです。他意はありません。この書類はあくまでも部署内の書類、会長がサインされたことなど、誰にも口外いたしませんから、ご安心を」
「なんだか知らねえが、参事を信用してサインしておくよ。これでいいかな」
「はい、ありがとうございます。それでは会長のお気持ちも確認いたしましたし、霊園行政に前代未聞の不祥事が起こる前に、私たち環境衛生課も腹を括って、上司と相談の上、近々イエスかノーかをご返答したいと存じます。今日のところはこの辺で勘弁下さい。次回に来ていただく日は、こちらから必ず連絡いたしますので、それまでお待ちください。くれぐれも軽挙妄動の無きよう、お願いいたします」
「近々って、六月かい。うちの件は住民の同意書以外問題は無かったのかい」
「今のところとしか申せませんが、あの土地は既に会長さんの持ち物だし、会長は事業経験の豊富な方なので問題はありません。ただし、もしも霊園事業を許可するならばのお話ではありますが、造成工事にかかる前に、現在の名義人を香川大社にしてもらって、付いている金融機関の抵当権は即刻解除していただかないと造成工事には掛かってもらえません。それは大丈夫なのですね。そして次にお呼びできる日ですが、六月なのか、七月なのか、八月なのかは、今の段階で申せません。今しばらくお待ちください」
「だから、こっちから押しかけて来るんじゃないか。まあ良いさ、名義変更の件と担保解除の件は念には及ばない。後は宜しく頼むぜ」
これで王手をかけたとばかりに、にやっと笑って俊平は府庁を後にした。

六月になった。龍平は光明の家の和解の神示を遂に百八枚書き上げた。三十日くらいで百八枚を書き上げたことになる。お陰でその長い文章を、龍平は空で暗誦できるようになった。
だから電車の中でも龍平は小さな声で、覚えた和解の神示を暗誦し続けるのだった。
だが問題は、何ら効果が現れなかったことだ。
龍平は宮本まりあに、この後一体どうしたら良いだろうかと電話で相談した。
まりあもどうしたら良いかは分からず、岐阜の建築屋の社長に電話で同じ質問をしようとした。建築屋の社長は不在だったが、数時間後にはまりあの会社に電話をかけて来た。
龍平はその時刻にはまりあの会社にいた。
まりあの会社は西区新町にあって、まりあは小さなビルの一階の全室を借りて、企業の販促を考えるコンサル業を営んでいた。ビルの北側には広い公園があって、その北側は、ミュージッシャンの演奏会がある厚生年金ホールだった。龍平も太平洋商事時代に会社の友達とホークソングを歌う女性歌手のリサイタルを聴きに来たことがあったし、結婚してからは智代と一度、有名歌手のコンサートを聴きに来たことがあった。
岐阜の建築屋の社長は、不思議そうに言った。
「あの神示を写経して何の効果も無いって、こちらの方が信じられないよ。きっとその人は余程業(ごう)が深い生まれなんだね。よし分かった。こうしようか。その土地で、僕が言う通りに神事をやってくれるかな。いや、神主さんなんか呼ぶ必要はないから。総て僕の言う通りやってくれたまえ」
まりあはその男が言うことをきちんとメモをとって龍平に告げた。

「せっかく岐阜の先生がこうおっしゃっているのだから、やってみましょうか」
「その前に先生は僕のことを何かおっしゃっていたみたいだが」
「あなたのことを、とっても業が深い人なんだろうって」
「どういう意味なのかな」
「先生は恐らく一般的にそう言っただけで、あなたが気にすることではないと思う。業が深いって言うのは、その人が前世で余程悪い業を積んでいたとか、現世の親族の誰かが余程の悪業を積んだことで、その報いが親族にも及んで来るくらいの意味なのよ。ほんと、あなたがそんなこと、気にしなくてもいいわ。それより、岐阜の先生が勧める神示、やってみる。もしあなたがやろうと言うなら、私も手伝うから」
六月の第一日曜の七日に龍平はまりあと二人で、申請地に行って、岐阜の建築屋の社長の言う通りに神示をすることに決めた。

その前日六日の土曜日、龍平は我孫子観音の近くの団地に住む、まりあの自宅を訪問していた。
そこでまりあに紹介されたのは、彼女の母親だ。彼女は老いた母親と二人暮らしだった。
その母親の名は宮本光子。光明の家の地方講師で、教階という講師のランクが、「教務」という光明の家の地方講師の最高ランクだった。つまりは繁栄経営者会の例会などに巡回してくる一般の地方講師を指導する先生と言う訳だ。歳は七十代の後半だろうか。まりあも他人(ひと)前では母親を「光子先生」と呼んでいた。
まりあは龍平を母親に紹介した。

「こちらが繁栄経営者会の仲間の野須川君。凄い勉強家なの。聖典『生命の光』四十巻を十回も読破したのよ。だからあのエピソードは何巻に書いてあるのか知りたい時は、彼に電話すれば良いわけ。そしてね、今回は大調和の神示を百八回も写経しちゃって、あの長い全文を覚えたのだって。野須川君の頭はどうなっているのかな」
「そんな方なら、あなたの会社でしている輪読会の幹事役をしてもらったら最高かもしれませんね」
それは新町神の子会といって、光明の家の信徒ではないが、生命の光哲学を賛美するシンパの人々を宮本まりあが集めて、聖典「生命の光」の輪読する、月に一度の彼女の新町の会社で開かれる会のことだった。勿論指導するのは宮本光子先生である。
「光子先生、良い考えだわ。野須川君には早速、今月から新町神の子会の幹事になってもらいましょう。彼はね、お布団屋さん。お布団を売っているのじゃなくて作っているの。工場は京都府八幡市にあって、事務所は私の会社のすぐ近所の北堀江。お父様がバブルに乗って大きな借金をなさったらしいの。それを返済するには、会社が丹南町に持つ三千坪の土地を霊園にしなければならないのよ」
「随分とスケールの大きなお話なのね」
「そうなの。私には計算できない桁数のお金。だけど霊園事業には行政の許認可が必要なのよ」
「それはそうでしょうね」
「そこで核心のことだけど、その為には近隣自治会の同意がいるんだって。だから私、明日の日曜日、彼の丹南町の土地に連れてもらって、そこで近隣自治会の同意が早く得られますようにと、光明の家の大神様に祈ろうと思っているのよ」

「住民の同意書をもらうのは難しいでしょうね。だから霊園開発は時間がかかるのね」
「だけど、彼の会社はそんなに悠長に待てないの。とにかく許認可さえ出たら、お父様が墓地に造成されて、竣工の暁に何十億かのお金を石屋さんから貰うことになっているの。それがあれば借金がほぼ全額返せるんだって」
宮本光子は怪訝な顔をして龍平の顔を覗き込む。
「野須川さん、あなた、時間がかかる近隣自治会の同意書を本当に早く得たいと神様に祈るつもりなのですか。もう一度お聞きしますが、本当に明日、まりあが言っている様に、あなたは近隣自治会の同意書が早く得られますようにと祈るのでしょうね」
龍平は顔色を失う。親友のまりあにも、光子先生にも、同意書なしで許認可が降りるよう祈っているとは言えずにいた。まさか、神が二千年前にイエスの口を借りて、祈りが叶う条件、即ち兄弟隣人と和解した後でないと祈ることはできないことを初めから破棄しているなんて、光明の家の信仰に生きる人たちに明かすなんて出来る訳がなかった。しかし光子先生はそんな龍平の心の暗闇を見抜いたのかもしれない。
龍平は汗をかきながら、しどろもどろに答えた。
「はい、その、ように、祈らせて、いただき、ます」
するとまりあが母親に尋ねた。
「何か私たちの明日のお祈りに、問題でもあるのかしら」
龍平を厳しく睨んでいた光子は、慌てて表情を和らげ、まりあに答えた。
「ううん、あなたが野須川さんの為にお祈りして上げることは、とても素晴らしいことよ」

第九章 祈りの効用 その⑪に続く