第四章(報復の応酬) その3
(転業後の事業は堺市内の霊園経営だった。開園から十三年後の平成十九年の春の彼岸での風景)
昭和五十三年十月、龍平は横浜西店で久保店長と共に、ミツバチ・マーヤの大神ら三名のセールスと会った。
大神は龍平より二三年上で、連れて来た後の二人は更に年上のようだ。
大神は、五年以上訪販セールスをやって来たので、身体も精神も辛くなって、管理職として雇って欲しいと懇願する。つまり転職しても、久保店長の下でセールスを一から始める意志は無いようだ。
そこで龍平は、近々多摩丘陵付近に出店する計画があるから、そこの店長をやってみる気はないか、と提案する。龍平は、大神には店長をやっていく能力が充分あると見た。大神ら三名の目は輝き出す。是非、それに参画させてほしいと彼らは口を揃えた。
龍平は大神と相談して八王子駅付近に物件を探して直ぐにでも店を出すことにした。そこからだと多摩ニュータウンに出るには多少時間がかかるが、ミツバチ・マーヤの相模原とは接近したくないというのが龍平の本音だった。また八王子は東京都の西部をも、全面的にカバーして魅力的な拠点である。
話がとんとん拍子に進み、大神たちは三日後から八王子店が開店するまでの半月ばかりを、横浜西店でセールスすることに同意する。
既に五十歳を超え、営業経験を積んできた久保店長は、上司の龍平の言に物足りなさを感じたのか、帰ろうとする大神に一言付け加えた。
「八王子の店長を受けるのだったら、それまで僅かな日数しか残ってないが、やっぱりその地位に相応
しい成績を先に納めなければね、大神さん」
大神はぎょっとした顔で久保を振り返った。
後で分かることだが、この時久保は実に言わなくても良いことを口にしたのだ。管理者としての能力ありと見た大神に、隆平自身はそんなことは望んではいなかったのだから。
龍平は、これでようやく大阪の俊平会長に電話することができる。
俊平の意向に沿って八王子店を開店することになった経緯を報告し、開店資金の相談をする。
俊平は大満足だ。売掛金の話や、売上取消のことを、終(つい)ぞ口にしなかったくらいだ。
八王子は旧い街で、市街地の発展速度も鈍く、ビルのテナントの空きすら見つからない。龍平は関東の隅々まで土地勘が有った訳ではない。どちらかと言うと若いセールスを集める販売会社が進出する街ではなかった。それが龍平には分からない。俊平から指示された予算もそう大きなものではなかったので、それに合わせ、市内の廃業工場の跡を借りることにした。これならリホーム代が少し掛かっても、僅かな敷金、僅かな家賃で済むからだ。なんとか十一月の最初の週内に開店できそうだ。
横浜西店に勤めるようになった大神は、張り切って初日から大口契約をとって来た。
翌日も大口契約をとって来る。その翌日も大口で、三日間で百数十万円の売上を上げる。
これはとんだ拾いものだ。これほどまで販売力のある営業には見えなかったが、と龍平は大喜びだ。来月から営業を開始する八王子店の今後の発展が楽しみだ。
だが四日目からは、大神の売上は一挙に落ちる。それもずっとだ。それでも大神は半月に満たない営業日数で、二百万円は突破する。
十月の月末が明日に迫って来た。銀座の京橋ビルでは、明日の引越の準備に大わらわだ。
結局銀座で募集したスタッフは、ひとりの事務の女性を除いて、誰も浜松町への転勤を承諾せず、残り全員辞表を提出した。関西人には、銀座で働くのと、浜松町で働くのとでは、距離も近いことだし、何がどう違うのか理解できないけれども、それが大きく違うのが東京人の感覚である。龍平も、去る者は追えず、仕方がないと諦めるしかなかった。
龍平と大山と、たったひとり残ってくれた女子事務員の三名で、書類の箱詰めや引越の用意をしているときに、会社の責任者に会わせてくれと言う来客だ。時刻は夕刻の四時を回っていた。
取り次ぎの事務員から渡された名刺を見れば、株式会社ミツバチ・マーヤ営業本部 調査部長 瀬川俊夫 とある。
龍平はぎょっとする。早速、現役の相模原店の幹部以下三名を引き抜いたことで、新宿本部から喧嘩を売って来たのか。それなら相模原店の本部長の谷川が来るはずだ。では一年前、隆平たちが先方の関西支社に身分を偽って潜入したことを、今頃になって何か言って来たのか、と瀬川俊夫の名刺をしげしげと見ながら、相手は何人で来たのかと龍平は尋ねた。
瀬川ひとりだと分かると、龍平は気を取り直そうとした。本当は会いたくはない。裏口があればそこから逃げ出したいくらいだ。だが相手がひとりで此処まで来たのなら、会わない訳にはいかないだろうと、まだ応接セットが置いたままだった役員室に瀬川を通した。
上から下へとブラウンの色が薄くなるグラデーションのサングラスをかけ、エンジのカラーシャツに、
白いネクタイ、水色のストライプが入った明るいグレーのスーツを着た五十代に見える男が入って来た。それくらい世の中の裏を見てきた日陰に生きる男に見えるのだが、実際は四十代なのかもしれない。龍平は彼の姿から、一年前のミツバチ・マーヤ潜入時の上司だった藤崎を思い出した。
相手に会う前から、幹部を引き抜いたとか、セールス技術を盗むために潜入したとか、こちらの負い目ばかりを考えてどうする、自分はカシオペア南関東販社の代表取締役なのだ、堂々と対等に会わなければどうするんだ、と龍平は自分に言い聞かせた。
龍平は自分の名刺を瀬川に差し出す。瀬川は龍平の名を確認すると驚いたふりを見せて口を開いた。
「おお、代表取締役常務の野須川龍平さん、野須川寝具産業の御曹司が話を聴いて下さるのですか、それなら話が早そうだ」
「どんなご用件なのですか」と龍平の方が焦って話を急いでしまう。
「ちょっと待って下さい。こんなところで、昨年うちが訪販技術を手取り足取り教えて差し上げた、野須川龍平さんにお会いできるなんて、夢にも思わなかったものだから。そうだったのですか。龍平さんが、このカシオペア南関東販社を、東京神奈川埼玉で七店を有するまでの販社にして来られたのですか。ずっとあなたを探していたが、なんだ、目と鼻の先におられたんだ。いやあ、それなら龍平さんをうちが手塩かけ研修させて頂いた甲斐があったというものだ。うちの遠藤会長も喜びますよ。まあ仲良くやりましょう。カシオペアさんとはテリトリーを分け合って、仲良くやってくれと、うちの遠藤会長も仰ってるんで」
龍平は驚いた。一年前の関西支社潜入のことを許したということなのだろうか。遠藤会長は気にも止めないということなのか。そんなに太っ腹なのだろうか。だったら藤崎部長に何故詰め腹を切らせたのだ。そのお蔭で十名以上のセールスが辞めて、藤崎部長に付いて行ったと聞いている。おかしい、会長が太っ腹でも、アメリカの先端小売業の業界視察旅行で、龍平とあんなに親しかった会長の弟、遠藤専務はどうなのか。良き友人と思っていた人間に裏切られたのだから、遠藤専務は一番龍平を憎んでいる筈だ。何か裏があるのだろうか、いやそうではなく、島崎に怒りの鉄拳を降ろして、競争相手を増やしたことを、遠藤兄弟は後悔しているのかもしれない、と龍平は様々に考えた。
「私も御社とは仲良くやって行きたいと思っていますよ」と言う龍平の言を遮るように、
「ところで、部屋の模様替えの最中か何かですか」と瀬川は辺りを見回し、並んだダンボールケースを怪訝そうに見つめる。
「ご覧の通り、明日浜松町店に引越です。此処を使ったのは僅か二ヶ月間でしたが、明日の月末を以てこの銀座京橋ビルの本部は閉鎖です」
瀬川は親指を立ててにんまり笑って言った。
「これの命令だね。仕方ないよね。ボスの言うことは絶対だから、ご子息もお父上には逆らえん訳だ」
「それで、ご用件は何だったのですか」
瀬川はにやっと笑って、鞄から十枚ばかりの書類を取り出し、語り出した。
「ちょっと聴いてよ。こんな酷い話は無いから。うちを辞めてお宅に入った大神の野郎、いや、そちらに移ったことをとやかく言うんじゃないんだぜ。第一、あんな出来の悪い奴、うちは要らないからさ。
あの野郎、うちで売った大口客の処を廻って、お宅の商品と入れ替えやがったのさ。全部調べは付いてるんだ。ここにキャンセルになった商品を引き取りに行って回収したうちの契約書のコピーと、後でそのお客に頼み込んで回収したそちらの会社の契約書のコピーを全部持参してるんだぜ。これは社会のルールを無視した犯罪行為だ。今更しら切ろうたって、こっちが許さねえ。龍平さんよ、おまえんとこじゃ、そんな犯罪まがいの汚い手を使ってでも、売上を上げて来いと指示してるのかい。おい、どう落とし前付けてくれるのさ。そっちの出方次第では、うちは全面戦争も辞さないぜ」
龍平は言葉を失う。慌てて瀬川から受け取った契約書を目を皿にして読み直す。大神はとんでもないことをしてくれた、これは絶体絶命だ、と龍平は真っ青になった。
第四章 報復の応酬 その④に続く
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