第一章(家族、夫婦の絆)その16

(筆者が商社時代を過ごした大阪市中央区の地下鉄御堂筋線本町駅付近の現在の風景ー船場センタービルー)

俊子の結婚式から数週間が経った日曜日、龍平は気晴らしに幼馴染みの谷川淳子に会おうと上京した。二人で都心にて数時間を過ごした後、夕方になって淳子は龍平を家族に会わせたいと言い出したのだ。大学時代の龍平とは、まったく違う人格の人間に変わっていたことに龍平自身も気づいてはいない。
「ずっと友達でいさせて」の彼女の言葉が、心のトラウマとなって、その頃の記憶を完全に削除してしまっていた。加えて今回の社内恋愛の躓きは、彼の心をすっかり凍らせ、冷徹なビジネスマンに変貌させてしまっていた。龍平は深い考えも無く、淳子の頼みを聞き入れ、彼女の親に会ったが、しかしそれは幼馴染みの家族に挨拶するだけのことで、決してそれ以上の認識もなく、過去の想いも蘇りはしなかったのだ。

ところで龍平は編物製品課の吉川課長とは相性が合わなかった。
吉川課長、その営業力、販売力では、社内から定評ある人物だが、課員を営業成績だけで評価する人間だった。その所為もあって管理面で問題山積だったが、それでも管理面を強化しようとはせず、営業より管理面に能力を発揮する龍平の様なタイプを吉川は一番に嫌ったのだ。
昭和四十六年の年が明けると、製品課の仕入先であるメリヤス肌着の縫製工場が、一斉に秋冬物の備蓄の仕事をくれと、新任の生産管理者となった龍平の下に日参した。
しかし製品課は暖冬続きで在庫が増え続け、生産をしなくても、秋冬シーズンは行けそうなくらいだった。吉川課長は、彼らも殺す訳にはいかないから、多少は便宜を図ってやれと龍平に指図する。
しかし龍平は、駄目なものは駄目と、一人残らずお帰り願った。当然ながら後で課長と大喧嘩になる。
しかし彼らをただ帰して問題が済むとは龍平も考えてはいなかった。
龍平が先導して、抱えるメリヤス工場の稼働対策を検討する課内のミーテイングが始まる。すると大胆なアイデアが出て来た。
アメリカからジーンズ文化が日本に上陸し始めた時期だった。メリヤス工場で、ジーンズの上に着るTシャツや、カットソー(CUT&SEWN)を縫製させたら、彼らの工場をもっと稼働できるのでは、と言うものだ。
それには同じ綿スムース使いでも、厚みを変える必要や、何度もの洗濯や、強い直射日光にも耐える捺染技術や、外着としての縫製レベルなど、幾多の技術面の問題があったが、そこは繊維から始まった総合商社、社内にエキスパートが揃っていて、たちまちそんな問題は解決する。


メリヤス工場を一堂に集め、今年の方針を発表した。新しい技術を身につけ、Tシャツやカットソーを縫製してもらう、秋冬物肌着は夏以降しか作らない、今年は改革初年度だから中児(ちゅうこ 児童用)に絞り込む、それが成功したら来年は大人用も作る、と宣言する。
工場側は揃ってブーイング。不服なら取引停止だと龍平は突っぱねた。渋々彼らは従うことになる。
結果は大成功だった。全国区の量販店でも、胸にプリントを入れた中児Tシャツは爆発的に売れる。課の売上も飛躍的に増えたし、龍平が太平洋商事を辞める翌年の春には、課の肌着在庫は殆どゼロになっていた。課長の吉川が、龍平の能力や功績を正当に評価するのは、ようやく退職時になってのことだ。
龍平は与信管理でも吉川と衝突した。ある零細問屋が、与信枠の二倍の注文書を持ってやって来た。吉川は伝票操作してでも、受けてやれと指図したのだ。龍平は断固拒絶する。問屋は怒って後日取引停止を言って来た。そこで龍平と吉川はまた大喧嘩になる。伝票操作をした挙げ句に、その零細問屋が手形決済の事故でも起こしたら、限度オーバー承知で商品を出した責任を、課長は個人でとるルールだった。吉川の為を思ってのことなのに、吉川にはそれが分からなかった。
龍平の製品課での内勤の仕事は順調に進んだが、販売は九州という地域に限定された為に、他の営業とは比ぶべくもない成績しか上げられず、結果、営業成果しか見ない課長からは、そのどちらの仕事も評価されなかった。龍平には砂を噛むような毎日だった。製品課に移ってから、宗右衛門町や北新地や九州の中州で飲み歩くことが、俄然増えだすのだ。


秋になった。龍平に谷川淳子から突然手紙が届いた。中を見て、龍平の表情が曇った。淳子の父親が膵臓癌を患ったと知らせて来たのだ。
膵臓癌がどんなに恐ろしい病気なのかはよく分かっていた。現代医学でも治す術はなく、ただ死を待つのみだ。加えて往時は、胆汁を身体の外に出す技術も無く、塩酸の様な胆汁が身体の中にこぼれ落ち、内臓が溶かされ、患者は死ぬほどの苦しみを味合わなければならなかった。
龍平は恐ろしくなって、淳子にかける言葉が見つからない。寧ろそんなことから逃げ出したくて、龍平は毎夜宗右衛門町の高級クラブで酒に溺れ、ホステスたちとダンスに興じていた。
半年が経過し、太平洋商事を去る時がきた。様々な友人たちが龍平の送別会を何度もやってくれる。
そんなある日、会社内の親しい友達数名で、宗右衛門町で飲んでいた時だ。会社の寮を出て、奈良の実家から通うようになった龍平は、今夜は徹底的に飲もうと、市内に住む仲間の一人の家に一緒に朝帰りすることになった。龍平は店の電話を借りて、奈良の母親に、今夜は帰れないと伝えようとしたら、淳子の父が亡くなったと連絡があったことを知る。
淳子の名を聞くと、龍平の酔いは一挙に覚めた。淳子、淳子、谷川淳子・・・何か重要なことを忘れていたような気持ちになる。大学三年生の神戸の街でのこと、毎週毎週熱い思いで手紙を綴ったことが、何故か急に思い出された。
嘗ては彼女と結婚しようと考えたのではなかったか。どうして今まで何年もの間、それを忘れていたのだろうと龍平は頭を抱えてしまう。明日のお葬式には行かねばならない。
席に戻ってきた龍平を見て、飲み仲間たちは、龍平に何かが起こったことに全員が気づいていた。

 

第一章 家族、夫婦の絆⑰に続く 第一章もいよいよ後2回で終了となりました。)