第三章(東京と大阪) その11

(昭和五十三年九月、新居の目黒区自由が丘のマンションにて、娘は満一歳。)

池上の進言に沿って銀座への本部移転を進められる中、池上は龍平にも、山の手の高級住宅地への自宅転居を進言した。それは確かに龍平の夢であったが、今直ぐそうしたいとは思いもしない。しかし池上は執拗に説得を続ける。
主婦相手の訪販セールスは、辛く惨めな仕事だ。しかしそれに耐え、成果さえ出せば、収入は世間のサラリーマンを凌ぐこともできるのだ。良い住居を構え、高級車に乗って、家族に近所が羨む生活をさせる、それが夢であり、それが励みだった。だからセールスが流す汗と涙の結晶が積み上げられた売上の上に君臨するトップは、セールスの憧れの的でなければならないというのが池上の主張だ。
だからトップが家賃の安い板橋区の下町の安マンションで生活しているなんて、セールスの励みにならないだけでなく、夢さえも壊すものだとする池上の主張も尤もであって、龍平は無視する訳にも行かなかった。
「関西の寝具老舗メーカーというカシオペアさんの東京本部が、銀座にあるのは流石だが、東京の責任

者はどこにお住すまいかと、もしも顧客に尋ねられたら、セールスはどう答えたら良いか、常務は考えたことがありますか? そういうのが東京の価値観なんですよ。そこは合理性のみ追求する関西とは違うことをご理解下さい」と言う池上の言葉は、だめ押しとなって龍平の背中を押した。
龍平は池上に言われるまま、山の手の目黒区辺りで、空いたマンションを探すことになる。
見つかったのは、目黒区自由が丘の北端、山の手線の目黒駅と横浜駅を結ぶ幹線「目黒通り」の、自由が丘三丁目交差点のすぐ西の、大手建設会社の分譲マンションの二階の一室だった。個人が投資目的で購入し、賃借人を求めた物件だ。家賃は共益費込みで月十二万円、今日なら倍の金額だろうか。代表取締役常務という役職の龍平であっても、給与の手取りの半額が消えてしまう家賃である。
そんな無理を重ねた生活は何時までも続けられないし、限られた期間の体験になることは承知しながら、三十一歳の若さからか、人生への挑戦に燃えていた龍平は、東京の山の手の裕福で政財界にも影響力がある人々に囲まれての生活を、一度で良いから体験してみようと思った。それこそ関西なら、清水の舞台から飛び降りる、と表現する覚悟で、この三DKの部屋に転居することを決意した。

南関東販社は創設以来、池袋店にあるビジコンで、会計処理や月次決算をして来た。この八月は二期目の年度末になるが(第一期は、七月と八月の二ヶ月しか無かったが)、池袋店、横浜西店、横浜東店、大宮店、船橋店、千葉店と、六店舗もある店別損益計算書を作成しなければならず、もし算盤による手計算で行えば、店別経費の明細の合計と、全社の経費合計の帳尻を合わせるには、大変な労力を要しただろう。だが最初から複数の出店を予測して龍平と大山とが協力して、損益計算のシステムやフォーム

を構築していたから、年度末決算であるにも関わらず、月次集計と年次集計ともに九月一日中に終わってしまい、大阪本社には二日の朝一番にファックスで報告が出来ていたのだ。ビジコン様、様である。
実は一日の朝、各店の事務官から取り消したい売上があるから、売上を訂正して良いか?と聞いてきたのだった。八月の月間売上の全店合計が、丁度一億円に達したところだったので、龍平は各店に、返品があれば、済まないが次年度になる、九月一日に回してくれと指示する。念願の月商一億が、この年度末で何が何でも達成したかったのだ。
野須川寝具産業は、相も変わらず手計算で、二日は経理部が徹夜で前月の月次決算を済ませ、三日の朝の定刻より半時間早く始める月次決算会議の資料としていた。
二日の朝、池袋店からの南関東販社の(決算仕訳前の)年次決算書と八月の月次決算書のファックスを受け取ったのは、統括事業部本部長の牛山だ。
牛山は貸借対照表にある年度末の売掛金の残高の数字を凝視していた。
「なるほど、あの時、中川が言っていたことが、ちゃんと形になって現れているじゃないか、馬鹿正直な奴だ、龍平は。これは面白くなってきたぞ」と、それを俊平社長に、自分の懸念を相談に行こうとしたが、最近は自分の一言で俊平の怒りを買うことが何度もあって、俊平に直接意見するのは逆効果だと思い直し、決算書の売掛金欄の数字の右端に、赤鉛筆で小さくレ点を書き込み、何食わぬ顔をして、不在だった俊平社長の机の上に置いておいたのだった。

八月の決算が終わると、龍平は銀座京橋ビルへの引越に掛かり、池袋店にあった経理総務部を新本部に移転させ、本部要員の募集を懸けた。
東京に訪れる機会が増える俊平の指示で秘書まで募集した。たった一人の秘書の求人でも、応募者は五十名を超えた。俊平が当月の中旬に、全国から販社の代表者を集めて前期の決算会議をしたいから、二十名が入れる会議室を作れ、以後はその部屋を使って、月に一度は南関東販社でも店長会議を開催するようにと指示してくる。
京橋ビルのワンフロアは、面積順に、会議室、役員室、総務経理秘書室、ビジコン室とパーテッションで四分割された。
だが、この平面図を見た俊平から、思いがけないクレームが来る。
「この本部の経費は、誰が負担するのだ、関西販社淀屋橋店のように、南関東本部も銀座店を持って、そこに経費を負担させるべきではないか!」と。
しかしいくら言われても、銀座で車による営業の拠点を設けるのは不可能だ。そこで銀座本部の経費を賄う新たな営業店を、都心でありながら、銀座よりテナント料が安く、駐車場も確保しやすい物件を探すことにする。
すぐに国鉄浜松町駅の近くに物件が見つかった。当物件はしかしながら、大きすぎるのが欠点だ。五階建てのビル丸ごと借りてくれという物件だった。
この情報を不動産は、なぜ銀座京橋ビルを探している前月に流してくれなかったのか、と龍平は悔やんだ。この物件を最初に知っていたら、池上がいくら言おうが、無理して銀座に本部など構えることは無

かったのだ、と唇を噛んだ。
大阪の俊平に浜松町の物件の話をすると、龍平の予想通り、俊平も唸った。しばらく思案していたが、
「それを借りろ!」という結論になった。きっと父親は自分と同じことように悔やんでいるに違いないと龍平は思った。
浜松町駅前のビルの賃借契約を結び、龍平はこれも大阪の俊平の指示を受け、国電や新幹線の窓から見えるビルの南面四階部分に、「高級寝装品カシオペア」のネオン広告の取り付けを販社決算会議に間に合う様に発注した。
この頃、龍平は自宅の引越も平行して進める。転居以後は、お洒落な町並みを通り抜け、東急で自由が丘から渋谷に出て、地下鉄に乗り換え、銀座の京橋へと通勤する日々が始まる。自由が丘から少し西に歩けば、東京一番の高級住宅地、田園調布の隣町へと繋がり、車で三十分も目黒通りを走れば、港が見える横浜の山下公園である。
通勤途上で、龍平は新聞や雑誌の上でしか見たことが無い、左右のドアが真上に上がる、ランボルギーニ・カウンタックというスポーツカーの実物が、駐車されているのを見ることも出来た。マンションに引っ越して、妻の智代が両隣りと階上階下の家に挨拶に行った時に、二階に住む龍平の階下の庭付きの一階に棲む人物は、有名な映画俳優のTであることも分かった。頻繁に映画やテレビドラマに出て来る助演男優だ。
これが自由が丘という街であり、そこから東京都民の憧れの銀座にある会社に通勤するのだ、その意味をどれだけ自覚しているだろうか?と自問するも、龍平は何か地に足が付かない気分だった。

第三章 東京と大阪 その⑫に続く