第七章(終わりなき闇夜)その9

 

(筆者の前の会社が大阪市西区の四ツ橋に本拠を置く前、淀屋橋ビルの賃借権を英会話学校に譲って難波の御堂筋に面して新築になった生保のビルに移転していた。フロア借りして、半分は訪販部門の西日本本部難波店が入っていた)

中之島の大学付属病院に入院した俊平の右目の治療経過は思わしくなく、思った以上に長期の入院になりそうだった。
病床で点滴を受けながら、ひとりでいると、普段は考えないことが頭に浮かぶものだ。
ふと思い出したのは、昭和六十二年の暮れに八幡の工場裏の田畑の中で、何者かに拳銃に撃たれて死亡した極道の山本のことだった。
あれは訪販事業が解体し、すっかり寝具の事業に興味を失って、本業を息子に任せた頃だ。八幡の住民だと名乗る山本が、いかにも極道姿で、野須川寝具の四ツ橋事務所に、是非野須川会長に会わしてくれと言って現れたのだ。
俊平は、今は若い者ばかりが役職に就く工場が、付近住民に気の利かないことでもしたのかと思いながら、山本に会った。
山本は俊平に、野須川寝具の八幡工場を包み込むような一万二千坪の土地の図面を示して、この地をショッピングセンターにしたいと言い出した。
しかもその土地を購入する量販店も、坪百万円の売価も決まっているのだと、そして野須川寝具の裏の方向にある約五千坪の田畑の地主たちとは、坪五十万なら売っても良いと同意書をとってあるとのことだ。問題は八幡工場の北隣、つまり国道一号線に面した七千坪の土地を持つ山水建設が売るかどうかだ。山水建設は、東証一部上場企業である。
「そりゃ、山水さんは売らんでしょ」と俊平は笑った。

「会長、ここだけの話なんやが、山水建設があの土地を買ったすぐ後に、深夜に重機を何台も持って来て、なにやらその土地に穴を掘って埋めているのを目撃しましたんや。あれは産廃に違いない。それもかなり人体に影響が出る奴や。そやから使いもしない土地を山水は買うたんですわ。それで儂は、その話で脅して、あの土地も坪五十万でわしらに売らそう思うてまんのや」
俊平は吹き出しそうになった。この男が口にしている金額と、この男のみすぼらしい姿があまりにもミスマッチだったからだ。
「国道一号線に面した土地が坪五十万かい。すると売り上げが百二十億に、仕入が六十憶か。ははは。とんでもない儲け話やな」
「まあ山水建設が坪八十に上げて来ても、買おう思てます。しかしそこで話が纏まると、即金で儂がその土地抱かなあきまへんやろ。えーと」
「五十六億円ですかな」
「八十やとそうなるな、それでその時やが、どう考えても、野須川会長しか頼る人いませんのや。会長やったら、五十六億円、立て替えて頂ける思うて来ましたんや。勿論儲けは半分渡しますさかい」
「山本はん、あんた一匹狼で生きてなさるのかい」
「まさか、野須川会長。儂は後ろに、京都の人権団体の組織も、神戸の菊花組も控えておりやすよ」
「なら、どうしてそちらに相談しない」
「本当なら、そのどっちかに相談すべきなんでしょう。しかしな、そんなことしたら、儂は干されて、ただの小遣い稼ぎの使い走りにされてしまうんですわ」

「分かったよ。先ずはその山水建設との話をきっちりつけることや。後ろの土地だけではショッピングセンターは出来んからな。そして同時にどこだか儂は知らないが、山本はんが話をしておられる量販店の買付証明書さえあれば、資金は私がなんとかしようか」
今なら秦田に相談すれば、二つ返事だろうが、往時俊平の頭にあったのは、なみはや銀行の山村頭取に頼ることだった。しかしそれよりも、山本が持って来た話が、余りにも荒唐無稽で実現性が乏しいと考え、この話を山村頭取まで持って行くまでもないだろう、山水が極道の脅迫に屈する筈がないと俊平は思った。
極道の山本と山水建設との交渉は続いたが、値段よりも、売却そのものの話すら前進しないまま、翌年の暮れの朝、野須川寝具の工場の裏の畑の中で、何者かに拳銃に撃たれて死んでいる山本を付近の農夫が発見した。
その日の夕刊にこのニュースは掲載された。だが遂に山本を殺害した犯人は分からずじまいだった。
年が明け、昭和六十三年になった途端、驚くべきことに、山水建設は所有する七千坪の土地を大阪の中堅量販店の「センシュウ」にあっさりと売却した。山本が隠していた販売先の量販店は「センシュウ」だったのだろう。
山本がもし今も生きていて、山本に販売を委託していた地主たちの合計五千坪の田畑を売るだけでも、今なら相当な利益を得たことだろうに、と俊平は思ったりもした。あの時、極道の山本の言うことを、誇大妄想だと笑ってまともに相手にしなかったが、自分はとんだ金儲けの機会を捨てていたのかもしれないと反省する。

山水建設の土地を購入した量販店「センシュウ」が、その半年後、俊平のところにやってきて、国道一号線沿いに土地を持つ地主が連合して、この地に上水道を引く運動を起こしましょうと言って来た。往時の八幡市内の国道一号線沿いの工場や飲食店は、井戸水を浄化して飲料水にしていた。
俊平がそれを真剣に実行に移そうと京都府の政治家たちを回りだしたのは、秦田が八幡工場の前半分を売ろうと言い出してからだった。
俊平が今訪ね回っている政治家や地域の実力者たちは、その昔、ここにショッピングセンターを作るなら、きっと上水道が必要になると、それにはこの人たちを頼らねばならないと、あの極道の山本が残したメモ書きに載っていた人たちだった。
病院のベッドで点滴を受けながら「馬鹿馬鹿しい」と俊平は思うのだった。「量販店センシュウはショッピングセンターの開発計画を未だに出していない。センシュウも栄光建設も、土地を購入したのは、値上がりを待っての投資目的なのだ。八幡の上水道などは、センシュウか栄光建設が動けば良いことではないか。自分にはもっとすべきことがあるのだ」と。
俊平の脳裏に閃いたのは、南大阪の丹南町にある二千六百坪の山林のことだ。調整区域だから、誰も買おうとしないからと、あの土地のことを忌々しく思い、出来れば忘れたかったくらいだ。
「しかし、それは誤りだった。儂もあの山岡のような発想が必要だったのだ。なぜ今までそのことに気が付かなかったのだ。何年もかけて八幡の国道一号線に水道を引く嘆願をするくらいなら、丹南町の山林の調整を外す方法を真剣に考えるべきではなかったか」と俊平は思うようになった。早くこの病院を退院したいと俊平は思った。

ある日、俊平のゴルフ仲間たちから東山先生と慕われる人物が見舞いにやって来る。
俊平は奈良学園前の、創設三十年を超える「寧楽国際ゴルフ倶楽部」のメンバーである。カートは使わせず、プレイヤーは必ず全コースを自分の脚で歩かなければならない。そして女子高生の若いキャデーが、一組に二人ずつ付くという贅沢なゴルフコースである。
このキャデーは、ゴルフ場に併設された、寄宿舎のある定時制高校の生徒さんたちだ。学校の経営者は、奈良盆地南部の天照市に本部を置く、神道系の宗教団体、天照教であって、キャデーをする女子高校生たちも勿論、天照教の信徒さんたちの子女なのである。
東山先生は、この定時制高校の校長であって、宗教団体天照教の幹部であった。
先生は、奈良の天照病院への転院を勧めに来たのであった。眼科ではこの大阪の大学付属病院より、遥かに腕の良い医者がいると言う。
「東山先生、ありがとうございます。その件はまた考えておきます」と、俊平は東山の誘いは遠回しに断った。
天照病院、入院した患者に、看護士さんたちが寄って嵩って、天照教の布教活動をするのだと聞いていた。他の病院では治らなかったのに、天照病院に転院して病気が治ったりしたら、患者はもれなく天照教に宗旨変えをすることになるのだそうだ。そんなことになったら大変だ、儂は天照教の信者になる訳にはいかないと俊平は思った。
だが俊平は天照教に悪印象は持ってはいない。寧楽国際でのキャデーたちの、我の無い、献身的な働きぶりを何十年と見守って来たからだ。

しかし一方では異常な程に天照教に「献資」をする信者もいた。家も畑も総て天照教に寄進してしまい、後は夫婦で、天照教本部の職員として住み込みで働く、そんな狂信的にも見える信徒の姿をこの目で見て来た奈良県民は、自分が生きるのでは無く、神に生かされているのだと説いて、我を捨てさせることで、家族夫婦を円満に導く天照教の教えを讃嘆しても、その洗脳力の強さを警戒した。
東山は「それでは考えておいて下さい。しかし手遅れにならないように」と言って帰って行った。
ゴールデンウイークが迫って来た。俊平は看護師たちが、医者の連休中のヨーロッパ旅行について噂するのを聞いてしまう。平成元年の五月の連休と言えば、上場会社の高級取りを中心に爆発的な海外旅行が流行り始めた年だった。
俊平は「これはいかん、自分は連休中、担当医から放置されるんだ、こんな病院にいる訳にはいかない」と慌てて、奈良県の天照病院に転院する旨を申し入れた。
だが、天照病院で診療すると、右目の網膜に巣を張ったブドウ球菌を殺すために投入した点滴の量が多すぎたのか、俊平の右目は網膜剥離を起こしてしまっていた。
緊急手術が行われたが、俊平の右目は失明するしかなかった。
四月二十五日、民自党を率いる竹村総理は、消費税の施行が順調にスタートしたので、大蔵大臣時代からの使命がこれで果たされたと安心したのか、昨年の就活情報誌、住宅情報誌の会社からの贈収賄事件の責任をとる形で内閣総辞職した。猫も杓子も海外旅行に酔いしれる空前の好景気の中、内閣不在の期間が一ヶ月余り続くことになる。

 

第七章 終わりなき闇夜 その⑩ に続く