第一章(家族、夫婦の絆)その4

(写真は彦根城の前の歴史的景観を保存した商店街、夢京橋キャッスルロード)

彦根市街から中山道(国道八号線)を十数キロ南に進み、犬上川を渡る対岸の犬方町(旧犬上郡河瀬村犬方)は、古くから野須川姓の者が多く棲んだ。


棲む人の総てが此の地で農業に従事する者であったが、中には商才を発揮して京に足を伸ばし、着物反物の商いをして財を成した者が出た。
彦根藩士でもない者が、江戸時代から野須川姓を名乗ったのは、中世の武家の末裔か、近世初頭の豪商の子孫に違いない。
何か歴史的事件に武士としてその名を残す者はいないかと探してみれば、南北朝から戦国にかけて伊勢国司を八代務めた北畠氏の家臣団の名簿に、そして北畠氏が信長に謀られ、無残に滅亡した「霧山(きりやま)城の戦い」での戦死者の中にもその名があった。
「桶狭間の戦い」で今川義元を討った信長は、七年後の永禄十年(一五六七年)、突如北畠氏や神戸(かんべ)氏らが領有する伊勢国(現在の三重県、岐阜県南部、愛知県西部)に侵攻した。
北畠氏は、武家の棟梁を目指した源頼朝や足利尊氏を出した清和源氏とは違い、武家でありながらも公家の性格を強く残す文武両道の村上源氏の家柄である。南北朝時代には親房(ちかふさ)、顕家(あきいえ)が登場し、南朝方の中心的存在であった。
北畠氏は元々信長の天下布武に抗う者ではない。しかし古い権威にしがみつく勢力を打倒して、新しい世の秩序を作りたかった信長の眼には、名門北畠氏こそ真っ先に抹殺すべき旧勢力の象徴であったのかもしれない。
北畠軍との攻防戦は、信長には思わぬ長期の激戦となった。翌年、信長は三男、信孝を養子に出して神戸家と和睦し、二年後、北畠家に次男、信雄(のぶかつ)を養子に出して和睦し、ようやく伊勢を平定した。これで伊勢国は暫く平和が保たれることになる。


それから七年後の天正四年、信長は北畠の旧臣たちが同じ割菱家紋の甲斐の武田と通じていると疑い、伊勢の田丸城にて成人し、城内を織田家からの親衛隊で固めていた織田(北畠)信雄に命じて、義父の具教(とものり)を始め、家中の重臣たちを矢継ぎ早に殺害させたのだ。
問題はそのやり方の卑劣さだった。見舞いに来た、飯を食っていけ、などと安心させては、総てが帯刀せぬ時を狙っての刺客に命じた謀殺だった。
これに怒った北畠政成や譜代の家臣たちは、家族共々千人余りで多気の霧山城に立て籠もった。姻戚の大和の松永弾正の家中からも応援に駆けつける。
直ちに羽柴秀吉、織田信雄らが率いる北伊勢や近江で信長に下った兵士ら二万の大軍が霧山城を包囲し、山麓の戦国時代の一大都市だった多気の城下を灰燼に帰するまで焼き尽くした。
城に立て籠もる者が四百名になった時に、城主政成は、よく戦ってくれた、だが最早これまでと、生き残った者はどこかに落ちよと命令し、家族や北畠譜代の将らと共に自害した。
近江国河瀬村の野須川一族の先祖が、霧山城の戦いの生き残りだという証拠も言い伝えも無い。ただ戦の都度、勝者が敗者を家族共々自領に連行し、未開の土地に棲まわせ、開墾や耕作を命じるのは良くある話だ。因みに傾く北畠を見限り、早くから三河徳川家に仕官したのが榊原康政と服部半蔵だ。北畠滅亡後に藤堂藩や紀州藩に仕官した家臣もいる。

徳川慶喜が二条城で大政奉還を重臣たちに諮問した慶応三年に、京で呉服商を営む野須川家から分家した野須川平七の息子として、河瀬村犬方に俊平の父、平三郎が誕生した。
(第一章 家族、夫婦の絆⑤に続く)