第九章(祈りの効用) その2

(筆者の職場にある屋内型永代供養墓、関西いのり霊廟。間もなく使用開始だ)

平成三年は、高度成長期の昭和末期から、失われた平成の二十年と後に言われる、デフレと就職氷河期の平成の時代に移る峠の年だった。この年辺りからバブルが弾けたと誰もが肌で感じるようになる。そしてバブル時代の浮かれ気分を反省するような雰囲気も拡がり出した。
書店では宗教関連の書物や、ヨガを薦める本や、精神科学の本が山と積まれた、後にも先にも無い不思議な時代であった。
人はバブル時代に高級時計を身に付け、着飾ってデイスコで踊ってみても、そんなことでは真の幸福には繋がらないと気づいたのか、男も女もそれまでの派手な格好はしなくなったし、ブランド品を身に付けることも減ったし、何千万もするスポーツカーの人気も陰ってしまった。
そしてこの頃の時代の特異なことはもうひとつ、癌になるのを極度に恐れたことだ。癌以外の病気は、治療や手術で治せることが多くなった。だがこの頃は、胃癌でさえ、まだ不治の病だった。癌の宣告は、そのまま殆ど死の宣告であったのだ。
治療する術はあっても、効果が保証できないのであるから、レベルが進んでしまった癌患者は、病院から退院を薦められ、死ぬまで自宅で静養するしかなかった時代である。
ところがこの頃、宗教団体の光明の家の練成を受けると、不思議にも癌が治ったという噂が全国の癌患者に口コミで拡がっていた。
医学よりも宗教とは、藁をも掴むような思いなのかもしれない。

癌患者を初め、不治の病いの人が大挙して光明の家の練成合宿に押し掛けたのは、今にして思うに平成三年頃がピークだったのではないだろうか。
光明の家の宇治練成道場の正規の練成合宿は九泊十日である。毎月の中旬にある十日練成を都合で受けられない人の為に、宇治練成道場では月初に三泊四日の短期練成を設けていた。
龍平が淑子に誘われ、これから受けようとするのは、光明の家宇治練成道場の五月の短期練成である。
初日の朝、上本町駅で淑子と待ち合わせ、淑子のポルシエで宇治の練成道場へと向かった。五月晴れの雲ひとつない清々しい日だった。
名神高速の京都南を出て、南に下って、途中から宇治川の堰堤を走る。宇治川の流れは、強い太陽光線を受け、きらきらと輝きながら流れていた。宇治茶を売る店が多い商店街を通り抜け、平等院の前辺りから、右手の山の中に車を入れる。そこが宇治練成道場の入口だ。時刻は十一時。
平等院の前を走って来た道路の右手にある道場の入口を、十メートル程昇った小高い丘の上に、お堂のようなものが幾つか建てられている。
宇治川を見下ろすように一番北側に建つのは神道系の神殿。それに接続するように建つのが大拝殿。これがこの敷地というのか、境内地というべきか、その中で一番巨大な建築である。
何か有名スターが来るイベント会場の様な人だかりだ。大拝殿は二階建てで、拝殿そのものは二階にあって、その下には事務所や宿泊所が設けられていた。
受付で練成費用を払う。それも随分並んでだ。

龍平は驚いた。三泊するのは龍平だけで、淑子は今夜の行事が終わると一旦自宅に帰るのだ。夜にでも大村社長の最期について聞き出そうとしていた龍平のあてが外れた。
「心配しないで、明後日の最後の晩には戻って来て、私もここに泊まるから」と淑子は笑った。
それはそうだ、自分の問題の為に受けるのだからと龍平は心細い気持ちを抑えて自分を納得させる。
受付を済ませ、これから寝泊まりする部屋を確認すると、淑子は龍平を書籍部へと案内した。
練成を受けるに必要だからと、誦行に使うお経の類や、講話のテキスト、副読本など、鞄が一杯になるほどの書籍を淑子は龍平に買わせた。
その中に「喜びの先祖供養」と題して、この神社の宮司、宇治練成道場の最高責任者が著した先祖供養に絡む練成の受講者の体験談集が入っている。淑子はこれは後で暇な時に読んでおいてと龍平に耳打ちした。龍平はまだ気づいていないが、中には淑子の体験談が載っている。
書籍以外の荷物をあてがわれた部屋に置いた後、龍平は淑子に連れられ、大拝殿と地下道で繋がる更に南側の棟に移動し、地下の食堂で精進料理の様な昼食をいただいた。
講話が始まる20分前には、地下の食堂から階上に上がって講堂へと移動する。
淑子は講堂では演台のすぐ前に座って話を聴くよう龍平に薦めた。練成の効果もその聴く姿勢で決まると言うのだ。そのくせ淑子は後ろで話を聴こうとする。
講話は一時から始まった。この練成に参加する受講者の数は優に五百名を超え、用意された講堂には入りきれず、入れない者は宿泊する部屋に置かれたスピーカーから流れる声を聴くしかない。受講者がふと不安になるのは、今夜泊まるにも寝具が当たるのかどうかだった。

年老いた講師が部屋一杯に座り込んだ聴衆をかき分け、演台にやっとのことで辿り着いた。
その後を付けるように、「ごめんなすって」と時代劇に出て来るやくざ者のように、人をかき分けながら、前へ前へとやって来る若い女性がいた。ジーンズにブラウス姿、髪はショートカット、どこかの体育会系の女子大生のようだ。
「ちょっとごめん」と言って、彼女は演台の真下に座る龍平の真横に座った。聴衆の中には彼女を見知っている者が多いようで、後ろから「まりあちゃん」とエールが飛んだ。名前を呼ばれた彼女は後ろを振り返り、それらの人々に笑顔で手を振る。
龍平は並んで座る人の間に割って入ってきた彼女には、ちょっぴりむっとなった。
近くでその横顔をじっくり見れば、若くは見えるものの、年齢は龍平に近く、恐らく淑子と同じくらいの年ではないかと気がつく。
彼女の名前は、宮本まりあ。龍平の事務所のすぐ近くの西区新町で事務所を借りて、販促のコンサル業をしているが、そちらが本業というよりも、光明の家の伝道が本業だという女性だった。この翌年には繁栄経営者会の中央支部の女王様になって、龍平に最も影響力を発揮する女性だが、龍平が彼女の名前や職場を知るのは、奇跡的に二人が再会する年末のことである。
「皆さん、ありがとうございます」と老講師が挨拶すると、室内は水を打ったように静まりかえった。
老講師は相当遠視のようで、魚眼レンズのような眼鏡をしていた。
「皆さん、自分って一体何でしょう」と老講師は聴衆に向かって問う。
誰も手を挙げて答えられなかった。

「分からないかな。それではこれが自分だと思う人、手を挙げて」と老講師は胸を指さした。
会場の三割くらいが手を挙げた。龍平も手を挙げた。
「違うでしょう。これは自分ではない。ただの胸だ」
聴衆は爆笑した。それはそうである。講師が指さしたのは胸に違いない。
「それじゃあ、これが自分だと思う人、手を挙げて」と自分の顔を指し示した。
今度は一割くらいの人しか手を挙げないが、龍平は再び手を挙げた。
「馬鹿だね。これは顔だよ」と老講師は高笑いする。
再び聴衆は爆笑した。しかし龍平は笑えない。自分とは何なのかの命題に、いやが上にもどんどん引きずり込まれる。
龍平には一時限目の講話は、あっと言う間に終わった。
淑子が側にやって来て、感想を尋ねる。
「結構面白いです。普段考えたこともないことを考えさせられる、何か大変為になる時間です」
「それは良かった。あの先生は、たくさんの人の病気を無かったことにしたのよ。凄い先生。でも社長の問題は経済的なことだから、私は他の先生に社長の個人指導をしてもらおうと考えているの」
「それは楽しみです。だけどこんなに多数の人が練成を受けると、個人指導はできない相談じゃ」
「そこは私に任せて。私は何人の人を、宇治練成に放り込んだと思ってるの。私、ここでは顔だから」
この日は最後まで龍平の横に宮本まりやが座った。講師が笑わせると彼女は大きな声でゲラゲラと笑い、それが不謹慎に思えて彼女とは口をききたくなかった。

第九章 祈りの効用 その③に続く