第六章(誰もいなくなる) その6
(筆者が経営する羽曳野の霊園のバラ園。池田厚司氏撮影)
カシオペア・ファミリーでの売上が無くなる前に、十一月末に営業の解雇を、龍平が俊平に願い出るも却下され、売上入金が殆ど無いまま、十二月の給料日を迎えた。
ファミリー営業担当者として残った六名の営業の給与支払いができないから、責任者である野須川常務が、給与資金二百万円を用意されたしと経理の林部長から言って来た。龍平は林部長に大反発した。
「林君、それは誰の指示なんだ。会長の指示なのか」
「勿論、会長の指示です」
「馬鹿言え、だから会長には全員解雇しましょうと前月末に言ったのじゃないか。カシオペア・ファミリーの従業員の給与支払の責任が、僕にあると言うなら、それこそ会長、あなたの責任だ、とそのまま言葉を返したいと僕が言ったと伝えろ」
林部長が再び会長室から戻って来て、
「常務、なにしろこの会社には、ファミリー部に用立てる資金は全くありませんので、不足する二百万円を、俊平会長と龍平常務とで折半してご負担願うことになりました。給料日は明日なので、今日中にご入金を宜しくお願いします」としゃあしゃあと言ってのけた。
林は、カシオペア南関東販社の末期の時代に、浜松町本部の財務担当として大阪で採用した人間だったが、言われた仕事はきちんとこなすが、それを誇りとして、何年勤めても愛社精神を持とうとはしない人間だった。
林は長村の下で経理部長の職にあって、最初龍平にも頭を下げていたが、昭和五十九年に入ってカシオペア事業が不振になると、いずれ和議弁済が出来なくなると感じ出したのか、龍平には次第に横柄な物言いになっていた。
龍平は仕方なく智代には内緒にして、銀行で定期預金を崩し、百万円を降ろして会社に入金した。
龍平は納得が行かず、五年前の東京での解雇事件の父俊平への憎しみが、再び蘇って来るのだった。
年越しの休日、自宅のあやめ池で龍平は、年が明けるとファミリーの部隊七名で、冷凍食品の宅配事業を立ち上げてくれと俊平に命じられた。
そんな事業を俊平が思いついたのは、あやめ池の自宅に定期的に、大正乳業の冷食宅配業者が注文をとりに来ていたからだ。
布団は要らないという人は多かろうが、食品なら話は別だ、セールスが気に入れば、食品なら買っても良いと思うのではないかと俊平は単純に考えた。
だからファミリーの営業の殆どが、十二月は羽毛布団一枚も売らなくなっても、解雇せずにいたのだ。
年が明け、昭和六十年になった。
俊平はなみはや銀行の山村頭取に照会状を書いてもらって、大正乳業大阪支社冷食部を訪問し、関西のもう一社、宅配業者を創る許可を申請した。
大正乳業は野須川寝具の参入を快く受け入れた。
そして龍平以下、七名の宅配ルートセールス志願者には、埼玉県の冷食宅配業者に研修に行くことを薦めた。
早速、隆平たちは、大正乳業が薦める埼玉の冷食宅配業者で、三泊四日の研修をした。
セールスが回るルートは、月曜から土曜日まで毎日変わるのだが、どのルートでも一日で回る家は百軒を超え、八割の訪問家庭から毎日十万円前後の売上を上げていた。
つまり一ヶ月に二百五十万円は上げられる勘定だ。
その報告を聞いた俊平は喜んだ。
「やっぱり食品は良いな。うちに回って来るセールスだって、真面目だけが取り柄の男で、うちの訪販セールスと比較しても、そんなに営業能力を有るとは見えないしな。やっぱり、この冷食の宅配って奴は、営業マンを選ばないのだ。これならセールスさえ増やせば、どんどん売上が上げられそうだ」
俊平は八幡工場に冷凍庫を設置した。それも二基で、七台の軽トラ保冷車の購入を合わせると、一億円近い設備投資だった。
何故冷凍庫を、二基も購入する必要があったのだろう。もしも事前に龍平がこのことを聞かせられていたなら、絶対に一基にすべきだと猛反対した筈だった。
しかし俊平には、そうしなければならない事情があった。
迫る待ったなしの第三回目の和議弁済に必要な資金は出来ておらず、冷凍庫メーカーに見積もりを上乗せさせ、それ用に銀行から借りた資金の余分に払う分をキックバックさせて作る裏金で、弁済の不足資金を補充したのではないだろうか、と龍平は勝手に推理した。
俊平は、長村や林と相談しながら、和議弁済の方策を練ったのであろうが、龍平はまったく和議の弁済では蚊帳の外に置かれた。
財務部門から、なみはや銀行から移籍した香川がいなくなっているが、実は前年の五十九年に、日本に来てぶらぶらしている外国人を、教師に使う英会話学校を経営する男が現れ、現状の何倍にも事業規模を拡大したいのだが、今のスポンサーならそうも行かないので、この際、頼り甲斐のある新たなスポンサーを探しているんだなどと言われ、なみはや銀行の資金援助を当て込んでいた俊平はその気になって、淀屋橋ビルで残ったワンフロアを英会話学校に渡し、自分たちは難波に引っ越しして、常務の香川を英会話学校に入れ、数千万円の資金を出したのだ。
英会話学校と言うのは、募集に応じた受講生が、入学と同時に纏めて多量の受講券を購入することになっているので、学校運営が仮に黒字でなくても運転資金に困ること無く、受講生が半年分とか、一年分とかの受講券を買って、途中で辞めても、券は買い戻す義務は無く、学校は丸儲けだと説明を受けていたのだが、最初の投資資金すら一銭も返って来ないばかりか、なにかと運転資金の追加を要求され、いくらでも資金が要るばかりで、一年後にはすっかり嫌になり、俊平は投資した資金の返済は求めないと約束してまで、縁を切ってもらうことになった。しかし香川はその英会話学校に残る道を選び、二度と野須川寝具に戻ることは無かった。
冷凍食品の宅配を始めて、その仕事の実像を龍平らは初めて知る。一人のセールスが一日に百軒の常連客の家を回り、月曜から土曜まで回る六百軒の常連客を開拓するには、一年以上の月日がかかるのだ。考えてみたら、当たり前のことだった。研修に行った埼玉の会社は、もう十年以上その仕事を続けているのだ。
しかも問題は食品業界の粗利率の低さだ。言うなら寝具訪販の半分以下だった。だから冷食で、たとえ月に二百数十万円売っても、粗利では羽毛布団百万円を売るのと一緒だった。
だから大正乳業の冷食を売る部隊が黒字になることは一年間無く、十二月にはこれ以上続ける訳には行かなくなり、遂に彼らは龍平を除いて全員解雇になった。
龍平が軽トラの保冷車に乗って、冷食の営業をしたのはほんの数ヶ月だった。すぐ気の変わる俊平によって龍平は冷食から外された。俊平が見つけてきた得たいの知れない二人の営業と共に、心斎橋で屑のようなダイヤモンドを学生たちにシステム販売(実際はネズミ講)をさせていたロンドンダイヤモンドが店を構えていたすぐ近くに、サロンになる部屋を借りて、ある大阪の健康食品メーカーにそれように作らせた健康食品で、龍平にシステム販売を開始させたのだ。
まだこの時は、カシオペアの寝具訪販も、健康器具・寝具のリッチライフも、ロンドンダイヤモンドも元気だった。
だが俊平は、リッチライフやロンドンダイヤモンドのようなネズミ講的なシステム販売はそう長くは続かないだろうと、アメリカ西海岸で栽培される果物のシロップが身体に良いと組織販売を地道に続ける○○プルーンが気に入ったからか、健康食品、健康食品と言い出したのだった。
だがいずれにせよ、訪販も、ネズミ講まがいのシステム販売も、総ての外販を駄目にしてしまう事件が、この年の六月に起こった。
豊原商事事件。豊原商事は金を訪問販売で売る会社だった。その顧客は独居の老人ばかりだった。セールスたちは、実の子も振り向かない独居老人を訪ね、実に親切にしたそうである。
風呂を沸かして、湯船に入れて、身体を洗ってやった。風呂の後は、老人たちの愚痴をきいてやりながら、何時間でもマッサージを続けたとか。
例え押し売りでも、騙し売りでも、彼らが本当に金の延べ棒を売ったのであれば、こんなに被害は出なかった。彼らは老人たちから代金を受け取っても、手渡したのは、金の預かり証と書いた紙切れだった。老人たちが払ったお金は、会社の代表者と販売したセールスで山分けされ、会社には資金は残っていなかった。極悪非道の詐欺会社だったのだ。
世間がこの実態に気づいて、豊原商事に非難の集中砲火を浴びせた時だ、会社の代表者が自宅でマスコミやテレビカメラが見守る中で、やくざに刺殺されてしまい、膨大な被害額を残したまま、この事件は一件落着となった。
ただこの事件によって、消費者は教訓を得た。飛び込みのセールスとは、口をきいてはならないということだ。これで我が国の外販が大きな被害を受けることになる。
カシオペアの西日本の責任者だった廣川は、早くからこのような世の中の変化を見越していたのか、カシオペアからは早く去って北海道に帰っていた。
その後は、東日本の営業責任者だった有働が全国の責任者になった。
だがその半年後には、新宿本部の解約を提案しなければならないくらいに有働は追い込まれた。
昭和六十年の暮れは、野須川寝具には絶望の年の暮れだった。
龍平の乗った列車は、京都駅に到着し、龍平はそこで降りて、近鉄線に乗り換える。
第六章 誰もいなくなる その⑦に続く