第七章(終わりなき闇夜)その7
(現在のクリスタ長堀地下街の心斎橋付近。中央の天窓は長堀通りの中央分離帯。)
二月二十三日木曜日、大葬の礼の日の前日、岩出富太郎は昇天する。龍平は仰天して、先に実家に帰っていた智代が待つ下総中山に急いだ。
龍平は、東京に向かう新幹線の中で、八年前の和議の頃の岩出富太郎を思い出していた。世界を跨ぐ海運会社に勤め、海上貨物のコンテナー化の歴史と共に要職を勤め上げた後、定年退職して、東京郊外の千葉県船橋市中山にマンションを買って、悠々自適の生活を送っていた。
野須川寝具が和議申請を大阪地裁に出した翌日の九月一日、富太郎は妻を連れて、千葉県船橋市の自宅から、俊平や龍平が住む奈良のあやめ池まで、息咳切って自家用車を飛ばして来たのだった。債権者がもしも俊平の資産を腕力で押さえに来たら、娘夫婦の個人財産がそれらと一緒に押さえられぬよう、身体を張ってガードする気だったのだろうか。智代のグランドピアノは、俊平の応接室にあったりして、確かに俊平と龍平の財産は、大きな屋敷に混在していた。
しかし来てみると会社の業務は平常通り営まれていたし、債権者の誰一人、経営者宅に押し寄せることも無い。それどころか自宅に付いていた抵当権ですら、銀行によって外されたくらいだった。
六百キロ以上の遠距離を、不眠不休で車を走らせて来た富太郎には、拍子抜けだった。
結局富太郎夫妻は数日後の日曜日、龍平、智代、雅代、美千代らと共に奈良公園を見物した後、安心して東京へ帰って行った。
富太郎はいつも龍平の味方だった。もしも俊平と袂を分かつようなことになれば、龍平は自分が守るのだとの意気込みを見せて来た。
龍平は、大きな後ろ盾を失ったのである。
富太郎の通夜は、国民揚げての大葬の礼が終わった翌日の夜に行われ、その翌日の告別式には、奈良から俊平夫婦も参列した。
三月に入った。民自党政府によって早くから予定されていた、我が国初の消費税、産業・商業に従事する総ての人や法人が、一律に税を負担する一般消費税が、いよいよ来月一日から実施されるのだ。取り敢えず、三パーセントからのスタートだが、行く行くは十パーセントになると国民は知らされていた。
製造業者は、課税前の駆け込み需要で大忙しだった。いつもの二倍は注文しておきながら、総てを月末迄に出荷せよと、流通業界からせっつかれ、製造業者はどこも悲鳴をあげていた。
ようやく三月の中旬になって、消費税を掛ける掛けないは、出荷日基準ではなく、仕切日基準だとの追加説明が出されると、製造業者は一斉に胸をなで下ろす。
八幡工場の寝具の生産も、三月は大忙しだった。
そんなある日、ようやく浪銀ファイナンスの秦田社長が、四ツ橋の事務所に現れた。
この日は裁判所から、大村商店が八幡工場の一部を差し押さえたとの通告書が届いた日でもある。
「すみません。遅くなりました。ようやく御社八幡工場の処分案が固まりました。野須川会長、喜んで下さい。十四億円で売却することに決まりました」
「えっ、いよいよ廃業が決まったのですか」と喜ぶどころか、俊平は泣きそうな顔になる。
言い方が不十分で、正しく伝わらなかったことに気づくと秦田は言い直した。
「違うのですよ、会長。売るのは前半分だけなのです。龍平さんには、これまで通り、仕事を続けて貰います。あの工場は大谷川の堤に沿って後ろに伸びる鰻の寝床みたいな形でしたね。だから国道一号線に面した前半分の五百五十坪を、思い切り高値で売ろうという訳です。残す工場には大谷川の堰堤から入ってもらいます。前半分の敷地にある機械は何でした」
「製綿プラントです。これをどうしろと」
「すみませんが、製綿プラントを、後ろの工場に移してほしいのです。できるだけ早く」
「今からだと、早くても六月の中旬までかかるでしょうな。あの機械は背が高くて、後ろの工場の二階の床を壊して容れなければなりません。費用もかなり掛かるでしょう。それにしても、五百五十坪の土地を売っただけで、十四億にもなるのでしょうか。えっと坪単価は」
「はい、建物二棟が八千万円、土地は坪二百四十万円で見ています」
「へー、そんな高値で売れるのでしょうか」
「やだな、今に関西の幹線沿いの土地が殆ど、そんな価格になるのですよ。いずれにせよ、機械の移設工事が完了した時点での受渡になります。後ろの土地は面積が同じでも、価値は四階建RCの建物込みで七億円くらいかと私は思います。機械の移設工事をしている間に、抵当権が十三億以下で外れるよう交渉して下さい。それ以外にも買掛金の未払いとか、税金社保関係の未払いもあるのではありませんか。この売買にかかる税金だって要りますし、何より製綿プラントの移転費が要りますから。和議債務をできるだけ払ってやりたい会長のお気持ちは分かりますが、殆どそんな支払いは出来ません。心を鬼にして、うるさく言って来ている処だけに絞って下さい」
「実は工場の敷地を差し押さえしてきた業者があるのです。大村商店、羽毛の未払い額は一千万円です。それに羽毛業者のグランフエザー社の破産管財人から、七百万円の支払い命令が来ています」
俊平は今朝届いた大阪地裁の通告書や、前月末に来ていたグランフエザーの破産管財人からの支払命令書を秦田に見せる。
しかし実際は、一月の龍平の売上入金から、グランフエザー分が保留され、資金は何時でも払えるよう用意されているのだ。
「会長も大変ですね」と目を通した書類を丁寧にたたんで、秦田は俊平に返した。
「秦田社長、息子には苦労させられますよ。さて設定抵当額以下の支払いで済まされるのは商社だけです。実は、一番下に抵当権を持つ商社が、五億円を一億八千万円にするから、一括で払ってくれと言って来ています」
野須川寝具の毛布事業に対して、多大なる応援をしてきた帝都紡績の谷本常務が、昭和五十三年秋に左遷されると、太平洋商事大阪本社は、手の平返して野須川寝具との取引を無くして行った。財閥系の井筒商事も、野須川寝具への出資金まで引き揚げて行った。日本の五大商社の三社は財閥系で、残る二社は、戦前の太平洋商事がGHQによって分割されたのだ。その下に大阪に本拠を置いた総合商社ではあるが、未だに繊維が強い三商社がある。八幡の工場に上位三社の十億円の抵当権の下に、殆ど価値がない五億円の根抵当を付けてきた商社は、この内の一社で、帝都紡績と同じ三葉グループのメンバーだ。
「相手から一億八千万に落とすと言って来たなら、会長はそれを一億円になる様、更に交渉して下さいよ。それで、なみはや銀行には、八億三千万円を返済してやって下さい」
秦田は不貞不貞しく笑ってみせた。
「八億三千万円ですって、御行の根抵当権は確か六億五千万円でしたね」
「だから、総ては、なみはや銀行サイドでやっている訳ですから。そこらは良くお考え下さい。後は第一位の政府系年金財団の三千万、第二位の上方相互銀行、今年一月から、上方銀行になったのだった、
その上方の二億九千万円、それになみはや銀行に八億三千万円払って貰うと、締めて十一億五千万円か。いっぱいいっぱいだね。やはり商社は一億円しか払えませんよ。元々何の価値も無い抵当権だったのですから。但しなみはや銀行には、別に六億五千万円、後ろの工場に抵当権を付けて頂きますね」
俊平は驚いた。八年前は、毛布で二十億の損失が出た時に、なみはや銀行で十億損金を負担するから、帝都紡績で残りの十億の損を持てと言った筈なのだ。それでなみはや銀行は、十億円を無担融資、二割しか配当が得られない和議債権にしたのではなかったのか。
秦田の話を進めていくと、結局なみはや銀行は、二億しか請求権が無い無担の十億から、一億八千万円を回収し、残る八億二千万円の無担保融資から、六億五千万円をちゃっかり有担にすることになる。
俊平はそれでも仕方がない、工場をこれほどの高値で売却するのは、他ならぬなみはや銀行の子会社なのだからと、自分に言い聞かせた。
「それは良いのですが、帝都紡績には何と言ったら良いのでしょう。それに、あの無数の和議債権者には何と言ったら良いか」
「帝都紡績ですって、俊平会長もお人好しですな。帝都紡績のせいで俊平さんの会社は倒産したんじゃなかったのですか。そんなところのことなど、考えてやる必要はありません。そりゃあ、あの何百とある和議債権者には気の毒しました。しかし分割弁済が滞って何年ですか、今年でもう四年ですね。誰か何か言って来ましたか。しつこく言って来るのは、いつも大口の担保権者だけですよね。だったら悪いが、一般の和議債権者には、この辺で諦めてもらいましょ」
「諦めてもらいましょって、そんなことが許されるので」
「もう諦めているのですよ、連中は。だから何も言って来ないのです」
「こんなことが許されるのでしょうかね。帝都紡績がどう出て来るか、それが恐ろしいです。それで、どちら様が買って下さるのでしょう」
「国道に面している土地と建物なので、デイスカウント店とか、電気店などになるのでしょうが、そこまでは未だ決まっていないのです。御社もお急ぎでしょうから、私のよく知った建設業者に、当方から全額資金を出して、一旦抱かせようと思っています。ボスの山村も了解してます。心配要りません。来春には最終ユーザーが買っているでしょうから。これで俊平会長も、長く苦しんで来られた和議の弁済から、ようやくおさらばができるのですよ。今すぐ許す人はいなくても、時が解決するでしょう」
俊平はぽかんとした顔をして、しばらく秦田の顔を見つめていた。
話を傍で聞いていた龍平は、これで大村商店の支払いが、六月には出来ると、ほっと安心した。
龍平は、秦田が帰った後、「大村商店にこの旨、連絡しておきましょうか」と俊平に尋ねるが、「そんなもの放っておけ」とつれない返事だった。
一方、俊平はこの八幡工場の前半分の売却辺りから、心が折れてしまったのか、まるで人間が変わって行くのだった。
ただ浪銀ファイナンスが建設会社に抱かせた土地の購入者は、その後一年経っても現れなかった。そのことが事態を更に複雑にして行く。
第七章 終わりなき闇夜 その⑧ に続く