第一章(家族、夫婦の絆)その7

(写真は大阪の南海路面電車、平野(ひらの)駅付近の長屋住まいの時代の筆者の母と妹たち。屋根上の物干し台で撮影。)

昔春日八郎が歌った歌謡曲に「お富さん」があった。歌舞伎「与話情(よはなさけ)浮名横櫛(うきなのよこぐし)」の一場面を歌った歌謡曲である。その歌い出しにある「粋(いき)な黒塀 見越しの松に・・・」のお屋敷が、正に近江産業の名で鞄の縫製業を始めた俊平・美智子夫婦が新居を構えた播磨町の邸宅だった。
この夫婦は屋敷を囲む塀が総て黒く塗られる意味も知らずに購入したのだが、後でそれを知って顔を赤らめたものだ。


黒塀は「妾宅」だと、そういう理由でうっちゃっておいて下さいと世間に頼む符丁(ふちょう)だったのだ。
海に溺れるところを豪商の実の兄に救い出されたお富が、黒塀のお屋敷に囲われたものだから、一緒に海に飛び込み、心中しようとした恋人にあらぬ疑いを持たれる、有名な歌舞伎の段である。
時は職を求める人、生活用品を求める人に溢れ、素人縫製であっても、近江産業の事業は順調に進んだが、戦地から縫製の熟練工が帰国し出すと、素人縫製の製品の売上に陰りが見えだすのだ。
ところで鞄を縫製するのは合法であっても、原材料の綿帆布を調達するのは違法であった。それは闇市場から入手しなければならないからだ。龍平が生まれた翌年、昭和二十三年五月、播磨町の自宅に大挙して警察が押し掛け、中にあった原反を総て押収した。
原反は雀の涙ほどの公定価格で買い取られ、始末書を取られ逮捕されずに一件落着となるが、近江産業はあえなく倒産する。
俊平は播磨町を出なければならず、棲むところを探さなければならなかった。

昭和二十三年と言えば、朝鮮半島三十八度線北に、ソビエト連邦に支援された社会主義国家の朝鮮民主主義人民共和国と、同南にアメリカや国連に支援された反共反日の軍事政権、大韓民国が建国された年である。
話はその三年前の昭和二十年の終戦の時に戻るが、俊平は美智子と再婚し、まだ大阪には出ず、滋賀県の河瀬村犬方で両親や実の姉と同居していた時だった。そこにひょっこり、長兄たちが二十二年ぶりに家族を連れて外地から引き揚げて来る。


「命ながらえて、幸い帰国はしたものの、行く所がない、だから昔のことは水に流して、この家においてくれないか」と五十代後半の長兄は平三郎に頭を下げた。
一緒に話を聴いていた親類たちは、それは気の毒だ、ととりなしに来る。
しかし俊平(二十二歳)は断固反対だった。初めて会った兄弟は激しく互いをののしり合う。
結局最後は父親の平三郎(七十八歳)が、重い口を開いてこの話を決着させた。
「俊平の言うのが筋が通っとる。お前たちが俊平を薄情だから絶縁すると言うのやったら、この儂もお前らを絶縁するから、今すぐここを出て行ってくれ」と小さな声で涙ながらに叫んだ。
長兄たちとは以後顔を合わすことはなかった。
平三郎はその後、急に老け込み、認知症を発症し、妻に介護されなければならなくなった。

さて昭和二十三年に話を戻すが、近江産業の大損を取り戻したいと思った俊平は、ひとに薦められ、アンゴラという繁殖力の強い兎を飼って、その毛を売ろうとした。アンゴラはいくらでも子を産み、ネズミ算式に数が増えて行くのだ。
その為に針中野の広い敷地の一軒家に住むことになった。そこには水道が来ておらず、妻の美智子は毎日水道局までリヤカーで水を貰いに行かなければならなかった。
ところが折角何キロも往復して持ち帰った飲料水の入ったバケツに、幼児の龍平が雑巾を入れてくれるので、泣きたかったと後日美智子は龍平に笑って話したことがある。


ところでアンゴラ事業はうまくは行かなかった。終戦後のことで、街中には野犬がたむろし、朝オリの中を見てみれば、アンゴラが多数野犬に噛み殺されていたこともあった。また伝染病で半数以上が死滅したこともあった。
市況の方もやがては供給過剰となり、アンゴラの毛の取引価格も暴落し、これ以上続けられなくなって総てのアンゴラを泣く泣く処分した。
次に俊平が挑戦したのは、自宅の広い敷地で山羊を飼うことだ。まだ牛乳は入手困難な時代であるので、それに代わる山羊の乳を売ろうとしたのだ。
山羊の乳は牛乳の増量材だったが、少し混ぜても我慢ならない青臭い臭いが残り、消費者に嫌われ、山羊の乳はまったく売れなくなった。
俊平は山羊の飼育を諦め、この広い敷地の家を手放さなければならなくなる。
この頃、龍平には妹が生まれていた。
貧乏のどん底に落ちた俊平一家の引っ越し先は、天王寺駅から出発する南海の路面電車、平野線の終点、平野駅付近の平野流町(現平野本町二丁目)の長屋街だ。
俊平がここに棲んで、阿倍野の中道市場で始めたのは、魚発という蒲鉾屋だった。平野の元蒲鉾屋をしていた女将さんから権利を譲られたものだった。
蒲鉾はある程度しか売れない。だから俊平はその摺り身で天ぷらを揚げた。薩摩揚げのようなものだ。
一日の粗利が二千円、相棒の給料を払うと生活するのがやっとだった。
昭和二十五年になる。繊維産業の事業家に復帰したい俊平に神風が吹いた。それも二つもである。

(第一章 家族、夫婦の絆⑧に続く)