第八章(裁かれる者たち)その4

 

(現在の近鉄南大阪線、河内松原駅。小説に出て来る南河内郡丹南町のモデルである美原町(現在は堺市美原区)の玄関口であって、町役場(今は美原区役所)へはここから南へ車で十分から十五分の距離である)

平成二年の六月に入る。
深刻な問題は二十五日に払う予定の給与資金の不足だ。約百五十万円不足するのだから、必要資金の六割以上不足しているのだった。
一方月末の仕入支払は問題なさそうだ。大口の仕入れ先は手形の回し払いで了解していたからだ。つまり現金払いの先への商売が細っていたのだ。それにも俊平が絡んでいる。俊平は本業に次第に口出しし始め、利幅が少ない敷布団の中芯綿にフラットな固綿を入れる商売には、難癖を付け出した。
その指示に従うと、ホームセンター、量販店、デイスカウント店向けのチャンネルは閉ざされて行く。
今まで商品入荷の数日後に振り込んで来た上記の様な先との取引が減ってしまった。
月中の現収が少ないのは俊平の指図に従った結果だ。だからと言って、従業員への給与資金を不足させるのは許さず、俊平は、毎日の様に龍平を呼びつけては「なんとかするのだ!」と怒鳴りつけるだけで、資金援助する素振りは見せない。
その内に本社の社員も、工場の従業員も、「会社が儲からないのは、俊平会長と龍平社長の仲がうまく行ってないからだ」と噂するようになった。
龍平には、俊平が龍平のなすことの総てを否定するようになったに見え、それも龍平が言うから、ことさらに反対意見を言っているようでもある。しかも龍平の肩を持つ得意先や仕入先は、それを俊平の前で明らかにした途端、例外なく取引停止にされて来た。

なぜ俊平がそこまで龍平を嫌うのか、龍平には分からない。龍平が国立大学出だったのに対して、俊平は商業学校出だったコンプレックスであろうか。そんなことは、あろう筈がない。
商売一筋の俊平は、電気技師として技術畑を歩いて来た妻美智子の父、伊勢源三郎とは相性が良くなかった。俊平は、龍平の顔も性格も、自分には似ておらず、自分が嫌いな伊勢源三郎そっくりだと揶揄したことがある。俊平は色黒で、眼は他人を睨む鋭さを持ちながらも、顔はふっくらとして、太っ腹な親分のイメージだったが、龍平の顔は、商売人らしさはなく、学者の様な理知的な冷たささえ感じさせ、顔は青白く、頬は痩せ、貧相な顔だったので、外見血を分けた親子には誰からも見えなかった。
龍平は親子の感情のもつれを解くには、光明の家の教えがしっかり身についている宗教家に、一度相談したいと思うようになった。
しかしどこへ行ったら良いのか、まるで見当がつかない。そうこうしている内に、極道の壷井の怒りにふれて、壺井の仲間に龍平は本当に殺されてしまうかもしれない。
龍平は、昔昔、光明の家の信徒だった伊勢源三郎が、上本町にある、教会のような施設によく通ったと、母の妹たちが語っていた話を思い出す。上本町と言っても広く、それだけでは訪ねて行くことは出来ない。

そんなタイミングで、郵便受けに「希望の鳩」という光明の家の薄い月刊誌が自宅のポストに放り込まれた。しかもたまたま龍平が郵便受けを開いて見つけた。恐らく龍平以外の家族の誰であっても、「新興宗教のPR誌か」とそのままごみ箱に捨てていたかもしれない。

龍平は急いで、雑誌の最期の頁に記載されていた光明の家の全国の拠点の住所録から、「大阪教化部」を見つけ出し、手帳にその住所を書き写した。親子の相克という自身の問題が切羽詰まっていて、まだ雑誌の中身に目を通す心のゆとりすらなかった。
六月中旬のある日、ふと時間の余裕が生まれた龍平は、上本町の光明の家大阪教化部を訪ねた。
龍平が想像していたよりも小さく、古くて、かなり傷んだ建物だった。
中は薄暗かった。靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、受付窓に進んだ。
龍平は「個人的な問題があって、その解決方法を相談させてほしいのです」と言うために来たのだが、この期に及んで、料金が高額ならどうしようかとためらっていた。
するとそんな相談に来る人の心を見透かす様に、窓口のすぐ横に「個人指導 千円」と大書してある。
「千円か」とほっとする。きちんと給与ももらえず、最近は小遣いにも不自由する龍平だった。
「あのお、野須川と申しますが、ここに書いてある個人指導をお願いしたいのですが」と受付窓口に座っている女性に恐る恐る声をかけた。
「はい、それではここにお名前を書いて、千円をお納め下さい。・・・はい、ありがとうございます。これが受取です。あいにく只今お昼休みなので、個人相談は一時からになります。午後は他に申し込みがありませんから、野須川さんが午後一番になります。ご指導下さるのは、泉南の竹原講師です。ご高齢の方ですが、ベテラン講師ですから、きっと良い解決方法をご指導下さると思います。それまでそちらの椅子にかけて、お待ちください。失礼ですが、野須川さんは、今日初めて光明の家にお越し下さったのですか」

「はい、そうです。ですから私は何も知りません。宜しくご指導ください」
「まあ、それは良かった。野須川さんにとって、今日が人生の最良の日になりますよう、お祈りいたします。ありがとうございます」
龍平は戸惑った。「ありがとうございます」と言われても、今日から光明の家の信徒になるつもりはなかった。
千円の相談料で、八卦見に診てもらうように、人生が開ける鍵がひとつでも見つかるなら、龍平はそれで良かった。義理でも宗教団体に入ることだけは御免蒙りたい。龍平の悩みは、お金が無い、この貧しい境遇から脱したいと言うことだ。その原因である父親との相克を解決したいということだ。だからどんなに請われても、お金は無いのだから、宗教団体に献資することは初めから不可能だった。
一時になった。龍平は先ほどの女性職員に案内され、部屋の奥へと進み、二階の小さな和室に案内された。既に部屋の中にいたかなり高齢の老人が、にこにこ微笑みながら龍平を出迎えた。女性職員は龍平が部屋に入るのを確認すると階下に戻って行った。
光明の家の講師の竹原は、龍平の祖父の伊勢源三郎によく似た雰囲気の人物だ。源三郎は既に亡くなっていたが、もしも生きていたら、この竹原くらいの年齢になっていたのではないか、などと龍平は考えていた。竹原は先ずは龍平の悩みを聞こうと言った。
約半時間、龍平は竹原に自分の悲惨な境遇を語った。父俊平の悪口ばかりを、今日初めて会った竹原の前で嫌という程並べた立てる龍平だった。

「もうその辺で良いでしょう。あなたのお話はお聞きしました。これから神様に解決方法を聞いてみましょう。それでは、胡坐ではなく、正座の姿勢になって下さい。はい、それで良いです。では目を瞑って、両手は顔の高さまで上げて、合掌しましょう」
竹原は床の間の「神性」と書いた軸を向いて正座し、やはり顔の高さで瞑目合掌して、二礼二拍手一揖(ゆう)した後、いきなり祝詞のようなものを大声で歌い出した。
龍平は突然の大声の歌にびっくりしたが、「これが生命の光に出てきた、瞑想行をするときに歌う神を招く歌なのか」と冷静さを取り戻す。
歌が終わると、数分間瞑想していた竹原は、再び軸に向かって二礼二拍手一揖し、にっこり笑って龍平の方を振り返った。
「野須川龍平さんでしたね。お喜びください。あなたの問題は、少し時間はかかるが、必ず解決します。大丈夫ですよ。心配することは何もありません。良かったですね。光明の家の神様、ありがとうございます」と竹原は龍平に向かって合掌しながらお辞儀した。
龍平には拍子抜けだった。「解決しますって、解決する為の方法を聞きに来たんじゃないか」龍平はまさか千円も出して、このまま、こんな返答で、ありがとうございますって帰る訳には行かない。
「すみません、竹原先生。それで私の問題はどのように解決するのでしょうか」
もしかしたら俊平はこの先交通事故ででも、死んでくれるのだろうか、などと想像した。
「ああ、そこが聞きたいと。分かりました。肝心なことはそこでした。それはね、当たり前の答えでした。最後にあなたのお父様が助けて下さるそうです。善いお父様ですね。お父様に感謝ですね」

龍平は愕然となり、ここに相談に来たことを後悔する。時間の無駄だった。
この竹原って言う講師は、高齢故にもうろくしてしているに違いない。俊平がどんなに龍平を憎み、どんなに酷い虐待をして来たのか、この講師は話をまるで聞いていなかったのか、そのままごっそり忘れてしまったのか、のどちらかに違いないと龍平は激怒した。
相談者が自分の指導に失望していると感じた竹原は、このまま帰さずに宥めなければならない。
「ご納得されていないようですね。しかし私には神様がおっしゃる解決方法がしっかりと聴えたのですよ。神様は間違いなくあのようにおっしゃったのです。そうだ、あなたの為に申し上げます。お帰りになる時、祝福讃嘆会に入る手続きを窓口でしてほしいのです」
そうら来た、来た、やっぱりそう来た、宗教団体は結局お金を出す会員を集めたがっているだけだ、と龍平はがっかりし、きっぱりと断るべきだと思った。
「先生、私はお金もなく、時間もなく、宗教団体の信徒になることは不可能です」
「野須川さん、余程宗教団体がお嫌いのようですね。この会に入っても、光明の家の信徒になるのではないのですよ。これに入りますと、教団が、大阪の信徒が、あなたの幸福をずっと祈って下さるという会なのです。入らない方が損だと思います」
「因みに毎月の会費はおいくらなんでしょう」
「月々千円です。それならあなたにも負担ではないでしょう。今日ここに来られたのも神縁です。神様と何かでご縁を作っておきましょう。決してあなたに損な話ではありません」
「でも私は長男ですし、改宗は出来ません。私の家は浄土真宗ですから」

「改宗など必要ありません。私たちは神様の言葉を伝えていますが、その神様も、あなたのご先祖が崇拝して来られた阿弥陀如来様も、同じ神様だと光明の家では考えますからね」
「分かりました。その会に入ったら良いのですね」
龍平は竹原に言われるまま、一階の受付で光明の家の祝福讃嘆会に、七月一日付での入会にしてもらい、七月分の千円を納めて帰った。
龍平は、個人相談には納得が行かず、光明の家にしてやられた気分で、四ツ橋事務所に戻って来る。
自分の机に座るなり、電話が鳴った。初めての京都山本田原常務からの電話だ。
「龍平君かい。先日の話だがな、面白いと思うので、あの指圧敷布団、京都山本で定番商品として扱ってみようと思う。社内の根回しも終わった。あの敷布団な、下手な柄つけるより、無地で勝負がしたい。その色も決めたから、明日にでも色見本をとりにおいで」
俊平も大喜びだ。龍平は俊平にどや!という顔をして見せた。もうこんなに良いことが起こるのか、龍平は祝福讃嘆会に入ったことに悪い気はしなかった。
そこへ壷井商店の女子事務員からの電話で、合計百五十万円になる羽毛布団の注文が入る。二十日に東京に付けてくれと。壺井は商品代を商品が到着したその日に振り込んで来る。
これで二十五日に従業員に給与を払ってやることができると龍平はほっとした。万事こんな調子なら、光明の家の信徒になってもいいのじゃないか、とまで思った。
その日は穏やかに陽が暮れた。しかしその穏やかさは、大きな嵐の前の静けさに過ぎなかった。当月の給与資金は再び不足するのだ。

第八章 裁かれる者たち その⑤に続く