序章(廃業の決断)その3


山崎はその後、二兎追う者は、の譬え通り、そのどちらの会社からも距離をおかれるようになるのだが、その話は次章に譲り、昭和五十二年の夏、野須川寝具産業は高級寝装品の訪問販売部門、カシオペア事業部を立ち上げ、先ずは関西(大阪)と南関東(東京)に販社を設けた。
大阪にいる俊平が、南関東販社の代表取締役社長を兼任したが、龍平(三十歳)は同社常務取締役に就任し、東京の板橋区に赴任して、本社の取締役東京支店長にも就任した。龍平が実質の南関東販社の代表者となったのだ。
同年の秋には龍平は大阪本社の俊平の指図で、最初の板橋店改め池袋店に加え、横浜市保土ケ谷区に二号店の横浜店を出した。
更に翌々月、埼玉県に大宮店、年が変わって千葉市東金町に千葉店、東京都心の浜松町に浜松町店、龍平の妻の実家があった千葉県船橋市に船橋店、そしてミツバチマーヤの南関東の本拠地である多摩地域には八王子店、横浜店を横浜西店と改称し、山下公園に横浜東店を開設した。
それらは総て野須川寝具産業の直営のカシオペア南関東販社の売上拡大を急ぐ俊平の指示によるものだった。龍平に無理を強いる本社の業務命令ではあったが、龍平は淡々と俊平からの宿題をこなしていったのだ。龍平の一年間の孤軍奮闘の苦労は想像に難くない。
なぜ俊平がカシオペアの売上拡大をそれ程急いだのか、は後に述べよう。
(写真は往時大阪鶴見区にあった布団工場の主力商品、肌布団。京都西川の専売商品だった。)

 東京板橋区に進出してゼロから出発した龍平だったが、僅か一年後の八月には、百名以上のフルコミ訪販セールスのプロ集団を雇って、南関東全域に日産キャラバン五十台を稼働させ、遂に月商一億円、月に六千万円の粗利益を稼ぎ出す販社に仕立てたのである。
その前月、大阪本社の俊平社長の指示で、本部を板橋区から東京の銀座のど真ん中、京橋に移転していた。ビルのワンフロアー全部を借り切り、中型のビジネスコンピューターが設置され、そこに三十名以上が会議できる会議室も用意された。
その頃には、野須川寝具産業の大阪本社も、大阪市鶴見区の布団工場の敷地から都心の淀屋橋に移転していた。市役所に向けて大川を渡る路の角地、地下鉄、京阪の淀屋橋駅を上がったところにそのビルはあって、二階から五階までのフロアーを借りきっていた。
カシオアペア事業部は、南関東、関西に加え、北海道、東北、北関東、東海、中京、北陸、中国、九州と全国で十社の販社が生まれ、販売拠点は全国で六十店を数えるようになり、セールス数も、月の売上高も、遂に寝具の訪問販売で早くから全国展開をしていた大先輩のミツバチマーヤ社に追いつき、もう少しで追い越そうという体制を成し遂げたのだ。
なぜ俊平がカシオペア事業の拡張を急いだかは、その理由は明白だ。野須川寝具の年々の生産拡張を支えて来たのは、ふとんの山本というブランド力を持つ山本産業グループの一社、野須川寝具と永く業務提携を結んで来た京都山本の販売力だった。
この両者の固い絆が、帝都紡績が野須川寝具を自社の系列に強引に組み入れた理由でもあった。京都山本は勿論、山本産業各社とは親しい関係だ。帝都紡績が野須川寝具を系列企業にすることの意味は、帝

都紡績が全国一の寝具の販売ネットワークを持つ山本寝具産業グループと手を結ぶのを狙ったものだったのだ。
ところがこの京都山本は当然ながら、下請けメーカーが新たに創ったカシオペア事業を腹立たしく見ていた。今まで製造業者の地位にあって流通の世話になって来た者が、流通を飛び越え、消費者直販とは一体どういうことなのだと。しかしいかに腹立たしくても、野須川寝具が製造する多針キルトを使った製品(肌布団、コタツ掛敷)と同じ物が作れるメーカーを、京都山本は直ぐには見つけられずにいたのだった。
それでも俊平は恐れた。自分が禁じ手の製造直販に乗り出したのだから、いつ京都山本との業務提携が切れるかと。
不思議なことに親会社である帝都紡績では、応援するカシオペア事業が、自分たちの目論みをもしかしたら粉砕することになるかもしれないなどとは考えが及ばなかったようだ。俊平と肩を組んで行け行けドンドンで、カシオペア北陸販社やカシオペア中国販社には人材まで提供する協力ぶりなのであった。
それは帝都紡績自身が、単なる繊維原料メーカーではなく、化粧品、食品、薬品、住宅など生活関連の全事業に拡張するようになって、特にインペリアル化粧品で知られる同社化粧品部門は、製造直販事業の先達(せんだつ)だったことが感覚を麻痺させ、本業の繊維業界の長年のルールや因習伝統に疎くなってしまっていたのかもしれない。
野須川俊平は考えた。やがて京都山本に製品を専売契約で供給する布団事業部は廃止せざるを得なくなるだろう、問題はその後だと。
(序章④に続く)。