第四章(報復の応酬) その12 

(現在の大阪市城東区今福。筆者は昭和五十四年の四月から十一月まで写真正面のマンションに住んでいた。道路は大阪生駒奈良線、前方が生駒奈良方面)

昭和五十四年五月のゴールデンウイークが終わると、関西販社大東店長の龍平は、全国カシオペア四月度最優秀店長賞が俊平会長から授与された。潜在能力が大きいセールスに恵まれたこと、また店長の龍平にも、それを見定める能力が備わっていたということである。
その数日後、南関東販社の小島専務が大東店の龍平を訪ねてやって来る。小島の話によると、龍平と入れ替わりに赴任して来た田野倉社長とは、そりが合わず、しかも体調も優れない為に、前月末で辞表を提出して、関西に戻って来たとのことだ。
俊平会長に挨拶をしようと淀屋橋本社を訪れたが、生憎不在だったから、せめて龍平に挨拶しておこうと大東店までやって来たと言った。
俊平は、小島に南関東の経営の総てを任せようと期待していたが、自分よりも龍平が経営者として相応しいと小島から辞退され、失望して考えを翻し、関東に住む旧友の田野倉に頼み込んで、社長として送り込んだのだった。だからここで小島が自ら辞めてくれることは、俊平には好都合だった。小島とは考えが違うと俊平は決めつけて、わざと居留守を使って会わなかったのではなかったか。
小島は、龍平が去った後の南関東販社の苦境を語り出す。
「田野倉さんは採算が合わない赤字店の大宮、船橋、平塚、八王子をこれから閉めるそうや。なんでそれらの店の売上を伸ばそうとせんのかな」

「えっ、八王子も閉めるのですか。あんなに勇ましく、僕に啖呵切ってた店なのに」
「原川なんか、黒字にもって来れないものやから、前月末にギブアップして、自分から辞めたのや。しかし何店か閉店することで、全社的な共通経費の割当負担が、これからは残る店に重くのしかかる筈や。すると今までなんとか黒字だった店も、割り当て経費が増えて、赤字に転落するやろ。するとまたその店も閉めることに。田野倉流で防戦の経営になったら、終いには全店閉鎖になるのやないか」
「そんな状態なら、前月の資金繰りはどうだったのですか。運転資金を本社の借金で賄ったのですか」
「資金はあった。君は知らないのか。お父さんの俊平さんは、息子の不始末の責任をとると言われ、息子が作った不良資産の半額の五千万円を振り込んで来られたのだ。あれは親友の田野倉さんへの、俊平会長の見栄でしょうな。だから運転資金が底をつくようなことにはならなかったんや」
「えっ、父が五千万円を弁償したのですか。そんなこととは知りませんでした。誰も言ってくれませんでしたから。ちょっと待ってください。その金は、言うならば、入金が無い売掛金の入金に充当する金で、代表者の父が法人に寄贈した五千万の特別利益で、同額の不良資産を償却して特別損失を計上し、入金した資金は使わずに、本来なら本社に送金して、それまでの借入金の返済に充当すべきものですよね。それをそうしないで、運転資金に使ってしまったのですか。なんてことだ」
「そのくらい、今南関東販社は混乱した状況だったということや。君が残っていたら、売上は悪くても横ばいで推移したやろうにな。俊平会長は、稀代の経営者には違いないが、残念ながら、人を見る目をお持ちや無かった。少なくとも息子さんの評価は間違っておられる」
小島はカシオペア南関東販社の行く末を心配しながら、淋しく東生駒の自宅に帰って行った。

その小島が自宅で病に倒れ、入院して検査した結果、末期癌だと分かり、しかも手当の仕様も無く、そのまま絶命したことを龍平が帝都紡績の社員から聞いたのは、翌六月の中頃だった。
一方、智代は今福に移り住んでから、週に一度は欠かさず、雅代の手を引き、今福から市バスに半時間乗って、近鉄奈良線の布施駅まで行き、布施駅から半時間、近鉄電車をで菖蒲池駅まで乗って、定期的に姑に孫の顔を見せに行っていた。
五月も大東店は全国一位だった。六月には同じ敷地内に野須川寝具産業が発注した新築ビルが完成し、関西販社の本部と淀屋橋店がその中に引っ越して来た。一階の大きな部屋の中で、大東店と淀屋橋店が共存し、売上を競うことになった。
さて、六月になると淀屋橋本社の統括本部の後藤チームによる監査が、関西販社に一斉に入る。同社の監査は六月中には終わらず、月を超えて継続されたが、調査すべき対象は、龍平の南関東販社と同様、既に百パーセント信販売上に変更しているにも関わらず、一向に減少しない売掛金の中身だった。その額は二億円を超えていた。田岡は龍平とは違って、架空売上と分かっても、今まで一度もそれを取り消してはいなかった。
六月も龍平が率いる大東店が全国一位になる。
七月に入った。ある日、監査チームの実務の責任者である近藤部長は、直属の上司である牛山には相談せず、野須川寝具産業の役員の中で、今や俊平会長と肩を並べる発言力を持つようになった毛布担当の坂本功専務に判断を仰ごうとして、坂本の部屋をノックした。そこにはたまたま寝装担当の井川専務も同席していた。

「そういう訳で、こんな金額に迄なってくると、私では判断が付き兼ねまして、後一週間で最終の結論が出せると思いますが、そのまま俊平会長に報告して良いものやら」
「俊平会長が鳴り物入りで進めて来た製造直販なんて、みなこんな結末なんだね。これを見ても分かる通り、我が社は、業界に寝具を製造卸しながら事業を伸ばすのが筋なのです」
「坂本さん、私もそれが言いたい。俊平会長が、なみはや銀行から、何十億もの金を引っ張って、息子の龍平まで使って、進めて来た製造直販事業だが、結果はこんなザマだ」
「井川さん、なみはや銀行、なみはや銀行と言ってもだね、その融資の担保になっているのは、私たちの工場じゃないですか。田岡社長がこのビルの二階にいた頃は、毎日会長と二人で相談しながら、関西販社を経営していたのですからね。正に二人の蜜月状態でした。やはり二人を切り離して正解でした。今近藤さんが仰った金額ともなれば、田岡社長に、元日寝の倉本、渡瀬両部長も共に責任をとらせて、全員追放してしまいましょう」
「坂本専務はそのままこの数字を公表せよと。それでは関西販社は立ち行かぬことになりますが」
「近藤さん、仕方ないでしょ。それが事実なんだから。関西販社は一旦塩漬けにしましょう。そうだ龍平君に、田岡さんや倉本、渡瀬たちが去った後、全店の閉店処理をする部署の責任者になってもらいましょう。資産売却を有利に進め、できる限りの資金を返済してもらわなければなりませんからね。それなら常務になってくれても、専務になってくれても良いです。じゃあ、そういうことで近藤さん、あなたの考えで進めてください」
「分かりました。坂本専務、お考えに沿って進めさせて頂きます」

「坂本さん、龍平はその後はどうするんですか。本社に戻すのですか」
「井川さん、何を言ってるのです。龍平は俊平さんの後継者を目指す僕ら二人にとって、最大の邪魔者ですよ、本社に戻す筈などないでしょ。勿論、関西販社と共に消えてもらいます」
「そうですよね」二人の仲の良い専務たちは大声で笑い合った。

南関東販社に続く、カシオペア関西販社の不良資産問題は、再び野須川寝具に激震を走らせることになった。しかも金額が金額だけに、俊平がいくら同社の再建を主張しようが、俊平を除く全役員が、同社の営業停止を強く要求したので、俊平もそれに従うしかなかった。八月には田岡も倉本も渡瀬も会社を去った。田岡は、社長になって辞めるまでの二年半、いくら役員報酬をとったのか定かではないが、少なくとも彼が関西販社創設時に個人資産をかき集めて出資した資本金の一千万円は紙屑になったことだけは間違いない。
その頃、東京で営業部長をしていた楠本が、小島同様、田野倉社長とそりが合わないと、辞表を出して大阪に戻って来ていた。龍平は牛山の助言に従い、彼に会って、関西販社に残ったセールスを大東店に集め、彼らの指導や管理を楠本部長に委ねることで、暫くは関西販社の営業を続けることにした。
自身は牛山本部長と相談の上、常務取締役に就任し、関西販社の全店の閉店処理の陣頭指揮を執った。
しかし楠本がセールスを使って営業を指揮出来たのは、十一月までであって、楠本はセールスを引き連れてどこかに姿を消してしまった。
各店の閉店処理には多くの管理要員を使っていて、今や閉店処理の仕事に一区切りが付いたとは言え、

管理職はと言えば、龍平一人で、残ったスタッフ要員の就職先までも、考えてやらなければならなかった。
その年の秋、龍平の一人娘の雅代が喘息で苦しみだす。今福の社宅の南側の寝屋川の周辺には化学工場が集中していた。智代が必死になって様々な医者に診せるのだが、雅代の喘息は治らず、夜も苦しみ続けた。龍平にはまったく打つ手が無い。雅代の為にどこか、空気の良い環境に住居を移転する必要を龍平は痛切に感じだしていた。
助け船を出したのは、奈良のあやめ池という風致地区に住む龍平の母、美智子であった。夫の俊平を説き伏せ、孫の雅代の為に、空気の良いあやめ池で、親子が同居しようと提案したのだ。

第四章 報復の応酬 その⑬に続く