第五章(和議倒産) その12 

(筆者が経営する第二霊園(羽曳野市)の、モデルさんを使った販促用写真)

龍平は「えっ」と俊平から「支払手形内訳表(三月十五日現在)」を取り戻して見直した。
「加賀商事に何時の間に十億も手形を振り出したのだ」と俊平に指摘され、龍平はうろたえる。
加賀商事とは、同じ帝紡グループ企業で、大阪船場にビルを構え、帝都紡績製造の原糸、加工糸、生地、縫製品を扱う繊維商社で、社長は尾仲と言って、石川県出身の俊平とは古くからの友人であった。
同じグループにあって、代表が俊平と親しいが故に、坂本専務や、日商帝紡合繊らによって、商社間を遊泳してきた毛布の損失金の買い戻しの窓口に利用されたのである。
総ての手形振出伝票に俊平会長の承認を得ているのだから、龍平自身に落ち度はないが、毎月数百枚の数の支払伝票であるから、俊平が盲目判で押したのだとしても仕方なく、龍平は自分が俊平に念を押すべきだったと反省し、唇を噛みしめた。

「儂は最初の二億円だけを了解したのだ。それを毎月続行して降り出したと言う訳か、坂本にしてやられたな。それで今、向こうに残った手形は二億円ずつ五通の合計十億円なのだな。それじゃ、儂らがもし月末に和議を出し、支払いを停止したら、何の関係もない尾仲さんは十億円の債権が未回収となって、連鎖倒産になるじゃないか」と俊平は泣きそうな顔になる。
全員が顔色を無くす中、「善意の第三者の加賀商事さんを連鎖倒産させるのは、それは大問題です」とひとり他人事の様に冷静になれる香川が、龍平に振り返り、尋ねた。
「それで最後に手形を降り出したのは何月で、最後の決済月は何月だったのかな、龍平君」
「確か毛布の粉飾で、混乱していた前月の月初に頼まれました。これを払わないと入金が二億円減ると坂本さんに言われて承知し、月末の支払計画に入れたのです。期日は七月末です」
「七月末ね」と加賀商事に払った最終期日を確認する香川の意図を、怪しむ者は誰もいなかった。
「だから毛布事業部の簿外債務の問題を、慌てて一月に出さなくても良い、と会長に申し上げたんだよ」との井川専務の言を無視し、俊平は秘書の女性を呼び、尾仲社長に電話するよう指示する。
役員たちも部門長らも顔色を変え、揃って俊平を止めに入った。
「会長、待って下さい。今から和議の準備と言うときに、会長から債権者に先に教えてどうするのです」
「野須川さん、これは皆さんのおっしゃる通り。和議の準備がある程度進むまでは待って下さい」と原口弁護士までが俊平に苦言を呈した。
「会長、尾仲社長は今東京にご出張中で、お帰りは来週とのこと。お急ぎの件なら、出張先まで連絡をとりますとおっしゃっていますが」と秘書が電話を保留したまま、俊平の指示を待つ。

「急用ではありませんので、それには及びませんと、会社にお戻りになってからお電話下さいと伝えろ」と俊平は答えた。
全員が安心し、原口の指導を受け、申請書類の作成にかかる。俊平は香川常務を呼び、声をかけた。
「香川さん、言うまでもないが、なみはや銀行に和議のことは内密にお願いしますよ」
「当然です。ここで働かせてもらっている以上、私も野須川寝具の人間ですから」

大阪に戻った加賀商事の尾仲社長が早朝の電話を受け、船場の事務所から淀屋橋の俊平に会いに飛んで来たのは、月末迄後九日に迫った、二十三日月曜の十時だった。
毛布事業部で発生した簿外債務の経緯や、野須川寝具の再建策を巡ってのなみはや銀行と帝都紡績のやりとりを、俊平から聞き、ことの深刻さを理解した尾仲は、「今から帝都紡績の社長室に乗り込み、お前の所の子会社、日章帝紡合繊から頭を下げられ、無理難題を聞いた結果が何たるザマだと、何の関係もないグループ会社が、なんでこんな目に合わせされなければならんのだ、日章帝紡合繊は詐欺会社なのか、と怒鳴り込んで来ます」と息巻いて駅前ビルに駆け出して行った。
この尾仲が帝都紡績に怒鳴り込んだお蔭で、事態は急転直下動き出すのだが、それは後の話。
さて、一般的に債権者に、当月末、手形が落とせぬかもしれないとか、和議を申請するかもしれないない、などと教えてしまったら、聞いた会社は自らの債権回収に走り出し、収拾のつかないことになるだろう。しかし俊平にはそれが分かっていても、尾仲への友情を優先したかった。
二日後、三月二十五日になった。

淀屋橋本社の一室に部門長が集められ、原川弁護士から書類作成の進捗具合のチエックを受ける。
よく出来ている部門は七割、酷い部門では五割しかできておらず、弁護士は「今日までどれだけ日にちがあったのです。自分の会社を破産させたいのですか」と怒鳴らなければならない場面もあった。
そこへ俊平に、なみはや銀行本店融資部長から電話が入る。
「詳しくは、そちらに行った時に詳しく説明しますが、当月はまた当行が資金を出すことにしましたよ。帝紡さんは十億の損失負担は了承してくれませんが、代わりに自分の商社への売上を、当月から毎月二億円、野須川さんに回すと提案してきました。野須川寝具にダイレクトで十億迄の与信枠をくれるそうです。それなら四月からの資金繰りが、これ以上悪くなることはないだろうと、一歩前進と理解して了承したのです。そこでだが、もうひとつ、だから今そっちで私らに内緒で進めておられることですが、その必要は無くなりましたから、弁護士さんには、今すぐに帰ってもらって下さいよ」
受話器を耳に当てたまま、俊平は香川を探して、その顔を睨んだ。香川は融資部長が本題に補足して伝えた内容に気づき、顔を赤らめ、下を向く。
四日後に迫る月末の和議申請は取りやめになったことで、その場にいる全員で万歳を三唱した。
原口弁護士は「ほんとうに良かった。私はこれで失礼します。また何かあったら呼んで下さい」と帰って行った。

原口弁護士が帰った直後、香川に大阪市住宅供給公社から電話が入る。
買収の条件が整ったので、来月にも取引したいと言って来た。

香川から報告を聞いて、俊平は「それは良かった」と喜んだが、井川は渋い顔になる。
そこへ秘書の女性が「会長、東京の有働さんという方から電話が入っています」と伝えに来た。
「有働、誰だったか。そうか今度、うちに入って来る、ミツバチ・マーヤ新宿の課長だな」と気づくと、俊平は「電話を儂の部屋に回してくれ」と指示する。
有働は、仲介人の竹中には内緒で、俊平と直接話がしたいと言って来た。
俊平は有働に、翌週の日曜日、四月五日に自宅のあやめ池に来るよう指示をする。
「月末の倒産の危機は、なんとか乗り切ることが出来そうだ。有働君の転職意志も本物だと確認が出来た。そして鶴見の寝装工場の売却も本決まりとなった。今日は儂に幸運が固まってやってくる日だな、やはり祈りは通じたのだ」と俊平は快心の笑みを浮かべる。
翌朝、カシオペア事業部の傘下で、掛け布団、敷布団、羽毛布団を製造する八幡工場の木綿の製綿機が火災を起こした。
鋼鉄の針に木綿の綿かすが絡み、摩擦熱で発火する。天然繊維を製綿するなら、よくある現象だ。
火災は直ぐに鎮火した。製綿機が全焼した他は、天井や間仕切りが焦げ付き、取り替えが必要になっただけで、怪我人もなく、火災保険を結ぶ保険会社も、大した保障をしなくて済むかに見えた。
だが、ここでも俊平は、火災による製造停止で蒙る生産付加価値額を補填する利益保険を掛けていた。俊平の幸運はまだ続いている。
俊平は、保険請求の担当を八幡工場の現場管理者にせず、寝装事業部の井川専務を指名した。
「井川君、この八幡工場の利益保険を使って、儂は君のところの五千万の粉飾が消えるよう、知恵を働

かせてみるよ。だから儂と相談しながら保険請求の書類を作成するのだ」と俊平は豪語するが、井川に俊平の考えは推測すら出来ず、もしも保険詐欺でも目論むのなら、その片棒を担ぐのだけはご免蒙りたいと正直思った。
かくして昭和五十六年三月三十一日火曜日、野須川寝具は、その日の銀行借入返済、支払手形決済を総て済ませ、何事も無かったように四月を迎える。

四月五日日曜日、東京から有働健一が、奈良のあやめ池の俊平の自宅にやって来る。龍平も同席した。
有働は、やはりプロのセールスらしく、サラリーマンには見えないが、しかし極道の一団の様なニュー渋谷店の谷川たちとも違うタイプの男だった。芸能人と見間違うほどの柔らかな印象で、年齢は奇しくも龍平と同い歳だ。
有働は、俊平たちへに慣れ親しく、敬語も使わず、なんでもぶっきら棒にしゃべったが、俊平は返って親近感を持つ。
「会長、言っておくけれど、竹中なんかと付き合ったらだめでしょ。この前の谷川さんらの引き抜きにいくら使ったの」
「有働君、それはここでは言えないな」
「いくら会長が払ったのか知らないが、あの金殆ど、谷川さんたちには渡ってないと思うよ」
「じゃなんで、谷川君たちは、こちらに転職したのだ、そんな少ないスカウト料で」
「それはこっちが聞きたいよ。谷川さんは遠藤会長の右腕なんだから、谷川さんから辞める理由はない筈なんだ」
「じゃ、遠藤会長から袂を分かたれたか」
「そうかもしれない。だって会長も分かるでしょ。ミツバチ・マーヤも、どんどん会社が大きくなって、社会的な責任も求められるようになったのだから、極道の様な連中が、幹部社員を固めているのって、遠藤会長から見れば、具合も悪くなって来たのじゃないの」
「じゃ彼らは追い出されたのか」

「それは知らないって。そっちで谷川さんに聞いてみたら」
「そうだな」
「会長、誰でも金で動くと思ったら、大間違い。谷川さんは、谷川さんの考えがあって辞めて来たと思うし、僕だって竹中に誘われて、ミツバチ・マーヤを辞めたのじゃないからね。だから僕たちはスカウト料なんていらないよ」
「えっ、もう辞めているのか」
「前月末にね。なんで僕が長年頑張って来たミツバチ・マーヤを辞めたのか気になるでしょ。新宿本部に転勤になって、尊敬して来たトップの本性を知って、げっそりっしたんだよ。ちょっと会社が大きくなったら、高級外車を乗り回し、若い彼女を作ってしまうんだ。社内の女子社員にもちょっかい出すしね。がっかりするよね。あんたの高給を作るのに、こちとら朝から晩まで、汗水流して団地の隅から隅まで駆けずり回ってんだって。もうやってられなくて、辞めようと思ったさ。うっかり部下に漏らしたら、七十名もの部下が一緒に辞めますってさ。その点、会長は仕事一筋だから、全く違うからね」
「そんな話はいいから、何時からうちに来れる。七十名なら一旦横浜店に入ってくれ。その後のことは、相談の上で決めよう。社宅は何軒要るのかも連絡をくれ。直ぐに横浜に事務官を派遣させる。次の日曜には横浜に全員が集結するようにできないか」
同席していた龍平は、同い年の有働健一を、訪販の世界で看てきた誰よりも清々しく頼もしく思い、早くこんな人物と一緒に仕事がしてみたくなる。
これで売上が増大と大喜びで有働を迎えた俊平だったが、企業経営者を見る彼の厳しい目を知って、

見送る時には重々しい気分になっていた。
俊平は銀座本部から持ち帰った、品川ナンバーのSクラスベンツに乗るのは止そうと思う。
そしてもうひとつは、あれは仕事への情熱を燃やす燃料なのだと言い訳して、だらだらと長く不倫の関係を続けて来た彼女のことだ。
一年前から彼女は西宮で婦人向けの雑貨洋品店を経営して生計を立てている。開店資金は俊平が出したが、以後彼女の生活を看る必要は無くなっていた。
しかしそんなことをしているから、会社が傾いたと世間に言われるのも俊平はご免だ。
仕方がない、彼女は嫁に出そうと決意する。
だが俊平にはひとつ、谷川たちの転職理由が、新たに気になりだしていた。

第五章 和議倒産 その⑬に続く