第一章(家族、夫婦の絆)その2
平成十二年ともなれば、全国どの銀行も、担保物権を処分した後に残った不良債権全額の貸倒引当金を積んでいただろう。その代わり、各行とも天文学的な損失を抱えていた。政府は直接の銀行支援は行わないが、銀行のコストである預金金利を殆どゼロに落とさせ、一般の会社なら繰越損失で免税されるのは五年だが、銀行に限ってその期限を撤廃した。また銀行はこの頃から振込手数料を始めとする手数料率を大幅に引き上げ、手数料収入を収入の大きな柱にした。国民にはダブルパンチである。
しかし政府は銀行には貸倒引当金と不良債権の相殺を禁じ、不良債権は第三者に売却した後に償却するよう指示していた。往時の日本の銀行が持つ不良債権を買ったのは外資系金融機関だ。何十億という不良債権を何万円、何十万円で購入する外資を往時、ハゲタカと言ったものだ。
俊平が残したバブル債務を、「ノンバンクからこちらが買ったから、今後はこちらに弁済してくれ」と「ハゲタカ」が内容証明を送ってきたのは、俊平の膵臓癌が脳に転移した十二月の初めだった。
俊平が亡くなると、会社の顧問弁護士が龍平に知恵を付ける。俊平には子が三人いるが、俊平は野須川寝具産業の債務の幾つかの連帯保証人になっており、「相続」でも「相続放棄」でも無い、「限定承認」を裁判所に願い出るという策に出たのだ。
「限定承認(限定相続)」とは普通、財産が少しでも債務より大きい場合に使われる制度である。
だが今回は勿論債務の方が圧倒的に大きいから、俊平の子らの相続権はない。
それなのに弁護士がそれを推奨したのは、「相続放棄」を選んで動産処分を裁判所に任せてしまうのを避け、裁判所に龍平を「限定相続管財人」に任命させ、龍平が父親の財産を、なるべく丁寧に現金化させて行く狙いがあったからだ。
俊平が残したゴルフの会員権(奈良国際)、書画骨董類、ゴルフ道具等総てをじっくりと現金化して、数千万円を作った龍平は、管財人として弁護士と共に、平成十三年三月に債権者に債権額に応じて配当した。
債権者の中で、金額的に圧倒的な債権を持つ外資系金融は、その債権を何万円かで購入したのだろうが、その数ヶ月後には千倍の数千万円にもなったのである。
勿論、買った債権の全額から言えば微々たる配当だが、いくらハゲタカでも、そこまで払えと言う程の厚かましさは持ち合わせなかった。
龍平は驚いた。まさか、父の死によって、巨額のバブル債務から、自分が解き放たれるとは、夢にも思わなかったことである。
俊平はそれを知りながら死んだのであろうか。それともあの世から神通力を発揮して、龍平を守ったのであろうか。
龍平には分からないが、霊園開園以降、二人に巡って来た幸運を、俊平は自分の分を掴まずに、それまで龍平に回したようだった。
造成工事が進む中、関西石材が販売し入金した墓地代の総てが、造成工事代や建築費に消えて行くのを、俊平は兼ねてから不満に思っていた。
そこで霊園の門構え、周囲の塀、桜台西自治会との境界線に作った高さ八メートルの擁壁に建つ土塀の色塗り工事など、俊平が途中で工事を止めていたので霊園は未完成だった。
平成十三年、新しく霊園の代表になった龍平は、工事を先ず完成させようと、業者に発注をかけた。
そしてそれまで霊園で営業待機する関西石材が、霊園の管理運営まで引き受けていたのが、墓地の販売は実にゆっくりとしか進まず、それに伴う墓地管理料もまだまだ微々たるもので、とても霊園の運営経費に見合う額では無かった。
そこで俊平が亡くなったのを幸いに、関西石材はそれが本来の姿だからと、霊園施主の宗教法人側に管理人付きで霊園の管理運営の仕事を振って来たのだ。
龍平は喜んでそれを受けた。経営手腕の見せ所だと考えたのだ。
春に独立会計の霊園管理組合を作り、お盆の直前に霊園新聞を発行し、墓地使用者に霊園がリフォームされたこと、お盆ウイークの日曜の被葬者の供養行事を広報した。
その結果、とんでもないことになった。墓地使用者が友達や親類を連れてきて、それぞれが何台もの車で霊園に押し寄せたから、駐車場に入るのに長い列が出来、霊園の中も墓参者でごった返した。しかしその顔は良い霊園を選んだと満足の笑顔だった。
かくして霊園と墓地使用者が一体となって、霊供養のコミュニテイーを作る、不思議な霊園、丹南メモリアルパークが誕生した。
(第一章 家族、夫婦の絆③に続く)