第二章(個別訪問セールス)その4

(新しく父の会社の本拠地となった大阪市鶴見区茨田横堤の現在の風景)

扶桑紡績による融資が実行された後、何か月が経とうが、野須川商店に出向役員が派遣されることはなかった。野須川商店の再建と五年後が期限の一億八千万円(今の十数億円)の債務弁済は完全に俊平に任されたのだ。
京町掘の本社ビルは原料部の仕入先の松陰商事に売却された。但し売却代金の大半は同社への溜りたまった買掛金の支払いに充当される。そして長年家族の様に俊平と喜怒哀楽を共にしながら原料商に携わってきた営業部員たちは解雇され、数名の本社要員だけが、城東区(今は鶴見区)茨田(まった)横堤の寝具工場内のスーパーヤスカワだった建物内に移ることになった。
しかし俊平は原料商をこれで止めるつもりはなく、朝晩は茨田横堤で寝具事業を差配しながら、昼間は市内をひとり走り回って原料ブローカーを続けた為に、原料部の経費はゼロになったにも関わらず、扶桑紡績への一億八千万円の返済期限である昭和四十三年まで、原料商で稼ぐ粗利益を急激に落とすよう

なことはなかったと俊平は後日になって述懐している。
昭和四十三年十二月までの扶桑紡績との約定返済は、約定通り履行された。しかしそれは五年間の原料売買や寝具部門の利益の累計が、一億八千万円に達した訳ではなかったのだ。
元はと言えば、俊平の満二ヶ月に及ぶ夜討ち朝駆けの努力のお蔭であろうが、上場会社の扶桑紡績からの資金援助が得られたことの信用回復から、新たに城東区内の銀行が、なみはや銀行、福祉相互銀行、幸運相互銀行、そして都市銀行の三葉銀行までが取引銀行に加わったことからの借入金増加や、京都山本とのパイプが次第に太くなって、寝具部門の売上が伸びたことから支払手形の振出額の増加によって、扶桑紡績からの借入金が肩代わりされて行ったと言うのが正確であろう。
銀行に勧められて、将来の布石にと、門真や大東市に土地を買ったのもこの頃である。また俊平は不動産屋に勧められ、南河内郡丹南町に山林二千四百坪を購入した。
松原市から南に入り、丹南町の深い山の中の小高い丘陵で、そこに立って眺めると西南方向には和泉平野が広がり、遠くは泉大津まで遠望できる眺めの良い土地だった。不動産屋はにんまり笑って、発展される御社の社宅用地としてはきっと最適の土地ですと言った。
俊平は上機嫌でこの山林を購入した。
ところが数年後の昭和四十三年六月、全国に土地計画法が施行され、市街化用地に定められた以外の日本の国土の殆どが、この山林も含めて、建物が建てられず、開発もできない市街化調整区域と定められたのだ。俊平は不動産屋にまんまと騙されたのである。
後の霊園丹南メモリアルパークになる土地だ。

さて茨田(まった)横堤での工場の稼働が始まった翌年の昭和三十七年から毎年、将来の幹部を養成するために俊平は大卒を採りだした。中でも三十七年入社の牛山と、翌年入社の井川の二人は群を抜いて有能だった。
俊平は彼らにやる気を持たせる為、頑張ればどちらかが、俺の後継者になるだろうと言ったから、この二人はすっかりその気になって、京都山本相手の営業に専念しながら、寝具の素材研究に余念なく、新商品企画にも果敢に挑戦するように成長して行った。
野須川商店は、繊維原料の商いは社長の俊平一人で行ったことや、優秀なスタッフが寝具部門にいたお蔭で、原料部門も寝具製造部門も黒字経営を続け、良いことずくめだったが、それがいよいよ扶桑紡績への返済が始まる昭和四十一年頃から、じわじわと「洋布団」が売れなくなりだしたのだ。
明らかに消費者の「洋布団離れ」が始まったのだ。だが俊平は驚かなかった。寧ろ、やっぱり来るべきものが来たと思った。
往時の寝具製造業者は、総じて自分たちの作った「洋布団」という製品に、生産者としての誇りは持ち得なかった。洋布団の製造が始まった頃は、プリントした表地に比べれば、無地の裏地は粗悪なものだった。消費者がカバーを洗濯しようと布団から外して見れば、無数に綿が裏地から噴出していたのだ。
裏地はその後改良が加えられたが、その嵩が保たれるのは、せいぜい二年くらいのものだった。
それは「洋布団」に詰められた中綿の、往時のポリエステル綿やアクリル綿の品質が悪かったからだ。
野須川商店が作った「ヤスロン洋フトン」は、そんな粗悪な品質でも、旧来の掛け布団に比べれば、けた違いの値段の安さだから、飛ぶように売れてきた。

だが俊平はそれが喜べず、生産者の誇りはどうしたのだ、と実は自分を責める毎日だったのだ。
しかし洋布団が売れなくなったのは、品質の問題だけではない。日本人が寝具に保温性を求めなくなったからだ。つまり冬の気温が暖かくなった。俊平の家族が奈良に移った最初の冬の昭和三十年の一月二月の朝は、庇から一メートルを超えるツララが無数にぶら下がり、雪が二十センも路上に積もった。
ところがその十年後にはツララなど見ることが無くなり、積雪があったとしても昼には溶けてしまう暖かさである。
加えて日本の住宅が良くなった。だから寝室に風が吹き込むこともない。
そこで大都市に住む日本人が求める寝具への要件は、暖かさよりも、軽さや、涼しさや、吸汗性に変わったのだ。

第二章 個別訪問セールス その⑤に続く