第四章(報復の応酬) その1

(現在の東京都港区大門付近。前方にJR浜松町駅、手前が芝増上寺。)

昭和五十三年九月の、銀座京橋ビルの会議室を使用した、カシオペア販社社長会は、序章でも書いたので、重複して語ろうとは思わない。会議の中での俊平親子の激突は、参加者の誰もが予想だにしなかった。会議の前は、俊平社長を以後、「会長」と呼ぶことにするのと合わせて、龍平が野須川俊平社長の後継者であると公表されるのでは、との噂さえあったくらいなのに、それがまさか、深刻な親子の仲違いが勃発し、これが基で、この二人の不和が、以後十五年も続くことになろうとは、正に神のみぞ知ることだ。
俊平社長から、突然前触れも無く糺された、南関東の売掛金の異常な膨らみについて、まともに答えようとしない龍平の態度が実に反抗的であり、セールスを人質にとったかのような開き直りの姿勢は、俊平がずっと自慢してきた我が子への期待や信頼を、一挙に失望や憎悪の念に変えてしまった。
カシオペア南関東販社は、登記上は親会社の野須川寝具の俊平社長が最高責任者であるけれども、実際には毎日東京にいて、指揮を執ってきた龍平が真の代表者であって、ここまで会社を伸ばして来た業績も、龍平ひとりの努力の賜物であったことは間違いないだろう。
もしも赤字が累積して、巨大赤字になって、経営が行き詰まったり、あるいはこの訪販事業の骨格を形成するセールスが、組織に不満持ったり、競合他社に引き抜かれたりして、大挙していなくなったりしたら、その責めは大阪の俊平ではなく、間違いなく龍平ひとりの責めとして追及され、彼も一介のサラリーマンである以上、選手交代は覚悟しなければならないだろう。

だが龍平は、選手交代、即ち南関東販社の現地責任者の首のすげ替えはどうしても避けたかった。
それは不遜で、傲慢かもしれないが、この販社を自分の人生や生命を注いだ「自分の会社」だと、そしてその百人のセールスを「自分が面接して集めた、自分の手足となる部下」なのだと思う様になるのは、至極当然の帰結なのかもしれない。今の地位を失うことは、龍平には生命を失うに等しかった。
俊平に指摘されるまでもなく、売掛金が異常に膨らんだことには龍平も深刻に受け止めていた。
その原因が単純に顧客の支払い忘れなら、問題と言う程ではなかった。
しかし入金遅れは、決まって四回払いの第一回目から発生し、管理部の大山が電話で問い合わせると顧客は、元々商品など買った覚えがなく、セールスに頼まれ、会社からの確認電話の時には口裏を合わせたまでだと開き直るのだった。契約当日の初回金もセールスが払っていた。つまり南関東販社の売上には、かなりの架空売上が紛れ込んでいそうだったのだ。
「兎に角、架空の売上と分かったものから、どんどん取り消して行こう。その間に滞留売掛金を片端から調査してくれ!」と、龍平は大山に頭を下げた。
若くて経験も浅い管理者の龍平が、これまで順調に事業を伸ばして来られたのは、いつも大阪の俊平社長に、なんでも直接電話で相談し、人生の先達であり、熟練の経営者である父親の判断を仰げたこと、そして俊平からの素早い資金援助があったからなのだ。
ところが龍平は、あの会議以降、ばったりと俊平に電話をしなくなった。販社の中で突出した売掛金について、本社の野須川寝具産業が、南関東販社の売上に、何千万円と架空売上が入っていたなどと知ったなら、龍平は今の立場におれる筈が無かった。だから俊平に不良債権の総額を、今暫くは知ってほしくなかったのだ。

成すべきことは、架空売上の取消だ。総てを取り消してしまうまで、なんとしても時間を稼ぎたい。
龍平の想像では、その総額は五千万かも六千万かもしれなかった。であれば毎月五百万円ずつ取り消しても、全部消すには、向こう一年、つまり今期一杯掛かるのを覚悟しようと腹を括った。
それに加えて、一か月一億円売るなら、顧客からのキャンセルも、五百万円は発生するだろうから、架空売上の取り消しとキャンセルを合わせ、毎月一千万円の取消しを入れなければならない。
では利益はどうか。一億円売ると粗利は六千万円弱、上がるよう設定してあったと既に説明したが、経費総額は毎月ざっと五千万円だから、売上の取消が入らなくても、月に八百万円くらいしか利益は上がらない。
ところが、顧客から商品が返され、キャンセルが五百万円入ると、粗利も純利も三百万円減少する。
過去の、例えば半年前の売掛金五百万円を、架空売上と認定して取り消すと、その商品は会社には戻らないから、五百万円の全損となる。
そこで、龍平が頭の中で作り上げた、今後の南関東販社の月次損益モデルは、月に一億円を売るとしても、売上に計上できるのは差引九千万円、そして月次利益は、八百万円引く三百万円、引く五百万円の純利益ゼロが、向こう一年間続く収益予測であった。
このモデルで進んで行くと、年度末の来年八月には、六千万円の不良債権が売掛金から消えているだろう。それ以上に売上が上がったら、もっと早く不良債権が償却できるし、利益も少しは出せるだろう。
それまで何としても実態を社外には明らかにせず、調査中だと言うしか無く、この会社を守るには、時間を稼ぐしかないと龍平は思い詰めていた。

しかしカシオペア南関東販社のセールスの実際の腐り様は、龍平の想像を遥かに超えていた。それが分かるのは、まだ半年も先だ。
いずれにせよ、結果的に、龍平が「自分の会社」を自分ひとりで守らねばとか、「自分の部下」を失う訳には行かない、という考えに固執し、胸襟を開いて不良債権問題を父親に、この時相談しなかったことが、南関東販社の経営の大失敗、無惨な悲劇の結末へと繋がって行くとだけ、申し上げておこう。

カシオペア社長会の数日後、俊平は統括事業部の牛山を通じて、銀座本部を来月(十月)末で閉鎖し、浜松町店の四階五階に移転しろと、龍平に命じた。それは即ち、不良売掛金の調査を進める大山も浜松町に行けと言うことだが、大山は首を縦に振らず、思いつめた顔で、池袋店に壊さずに残したビジコン室に戻りたいと強く主張した。
銀座ビルを閉鎖せよと俊平は簡単に言うが、ビジコンを入れる為、無理を言って、一階から賃借室の階まで、数十万円払って、ビジコン用の電源工事をしたのだった。
僅か二か月での賃借契約の解消となったが、ビル側の管理人は一瞬驚いた顔を見せるが「失礼だが、実はこんな日が早々に来るのでは、と予感していました。それにしても、あなたのお父様ですか、撤退の決断をなされたのは、あなたにはお分かりにならないでしょうが、凄い決断力です。私だって銀座に本社を置くのは賛成できませんから」と管理人は嫌な顔をせず、そこにいない俊平を褒めちぎった。
返却の原状復帰と言えば、家具屋で買ったパーテッションで仕切った部屋の原状復帰は簡単だが、問題はビジコンの電源工事だった。

だがそこは名門の老舗企業しか入らない銀座の貸しビルだ、他のテナントは全て二十年以上家賃を払ってきた上場企業の関連会社ばかりで、一旦預かった敷金もその間に返却済み、敷金を預かっていたのは新参のカシオペア南関東のみで、その敷金も全額返還を約束してくれるし、ビジコンの電源は使うかもしれないから触らずに退去して良いと、実におおらかな大家さんだった。
大山が浜松町にビジコンを移したがらなかったのは、また浜松町ビルにお金を掛けて、ビジコン用の電源工事やエアコン工事をするのが忍びなかったのだ。
あるいは、池袋での会社の草創時期は、仲が良かった大山と龍平ではあったが、大山も今の龍平とは机を並べて仕事することに抵抗があったのかもしれない。
龍平は俊平に電話せず、池袋店の新任の杉山店長の補佐として、千葉の店長の中川を池袋に戻し、浜松町店の池上と共に、二人を営業部長に昇格させたいと申請書を作って、大阪の統括事業部の牛山にファックスした。
牛山を通じて返って来た俊平会長の返答は、「考えておく」だけだった。
十月に入って、営業を開始したばかりの浜松町店で、前代未聞の事件が発生する。
羽毛布団を集中的に売りたい池上は、羽毛布団を野須川寝具から多量に入庫させていたが、着いたばかりのビニール鞄入りの羽毛布団、五十枚が入った五ケースのパッキングケースが、五階の臨時倉庫から忽然と姿を消したと言うのだ。原価で言っても四百万円弱の商品が失われた盗難事件だ。
池上は直接大阪の俊平に事件を報告し、店長である自分の管理責任を回避する為、愛宕警察に被疑者不詳で、部下の全員を容疑者として被害届を出したのだ。

第四章 報復の応酬 その②に続く