第四章(報復の応酬) その2

(現在の東京都港区芝公園、増上寺境内へと繋がっている)

池上にすれば、着荷後とりあえず保管した場所から、羽毛布団が全ケース無くなったことに、店長の自分が関わっていないことを、上司の龍平や、大阪の俊平会長に示したかったのだろうが、浜松町店のセールスたちは、店長が部下全員をひっくるめて容疑者に仕立て上げ、警察に疑われるように仕向けるなんてとんでもない、と一斉に池上に反発することになる。しかし池上が愛宕警察に被害届けを出しても、警察の捜査は一向に開始されなかった。
事件から二日後、銀座の京橋ビルに愛宕警察から電話が架かった。署まで代表者の呼び出しだ。
捜査の進展があったのか、と龍平が浜松町の愛宕署に行って見ると、一人の刑事が対応した。
「お宅が会社の代表かい、お宅は可笑しな会社だね」
「何がでしょう?」と怪訝な顔で龍平は刑事の顔を覗き込む。
「羽毛布団だっけ? 五十枚も無くなったと言いながら、それを証明するものは何も無いのだよね」
「大阪の本社から店宛て送った納品書ならあります」
「そんなの、布団が盗まれたという証拠にはならないさ。商品の出入りを書いた在庫帳さえ無いそうだし、毎日出て行くセールスに商品を預けながら、払い出しを記録する伝票も無いんだって。だから羽毛布団が、パッキングケースに入ったまま無くなったといくら言われてもさ、それを証明するものがない。聞けば倉庫には鍵も掛かっていなかったそうじゃないか。もしもビルのシャッターが壊された、とかだったら、我々もまだ動けるのかもしれないが、店長の誰だっけ? そうだ池上さん、犯人は社内の

人間と決めつけておきながら、その論拠は何も示さないんだから。ああ、分かったよ。ひょっとして、お宅さん、商品に盗難保険かけてるのかな」
「いいえ」
「それなら、何の為の被害届けなのさ。よくあるんだよ、保険金欲しくて、やたら警察に被害届け出す会社。でも保険入ってないのだったら、それも意味ないよね。そちらの管理が悪かったのだから、どうしようもないさ。もしも保険に入っててもさ、こんな杜撰な管理状態なら、保険会社も相手にしないさ。だからこんなのはね、刑事事件にはならないのさ」
「そこを何とか捜査に踏み切ってもらう訳にはいかないのでしょうか。この通りお願いしますよ」龍平は刑事に深々と頭を下げた。
「駄目だって。そちらが何か確たる証拠を持って来ない限り、我々も捜査を開始できないから。分かったらさっさと帰ってよ。こちらも忙しいから。被害届けと社員名簿は、暫く預からせてもらうからね」
刑事に背中を押されて部屋から追い出された龍平は、仕方なくすごすごと帰るしかなかった。

銀座に戻る道中、龍平はそれまで訪販事業の自分の右腕だと評価してきた池上に対し、もしかしたら取り返しの付かない思い違いをして来たのではないだろうかと考えるようになっていた。池上は唯訪販の技術に長けているだけの人間で、人格も人徳もなく、管理能力も無い、そんな人間を右腕にしてきた龍平を中川は非難し続けてきた。
「中川君の言っていた通りなのかもしれない」と心の中でつぶやいた。

銀座京橋ビルに戻ると、事務の女性から、統括事業部の牛山本部長に電話するよう、本社から依頼があったことが伝えられる。
浜松町店の商品紛失事件の経過報告を求めているのだろうと思いながら、牛山に電話をした。
「本部長ですか、野須川です、とんだ不祥事を起こしまして申し訳ありません」
「隆平君、警察なんか行っても、犯人捜査が始まる訳でもないやろ」
「仰る通りです。犯人も分からぬまま、全損となる可能性が大です」
「その話はもう少し様子を見てからや。先ほど例の申請書の回答が会長からあったので、伝えておくよ。日報の店別売上を見ても、池袋の店長に杉山君では、やはり荷が重いようやな」
「では申請は通ったのですか」と龍平は目を輝かせた。
「違うんや。よく聴いてくれ。杉山君は店長代理に降格や。代わりに千葉店の中川店長が池袋に転勤し、店長をやってもらう。千葉店店長には申請通り、藤原君が就いてもらうことになる。さて浜松町店やが、しばらく池上君は店長のまま置いておくそうや。だが今後の事件の経過次第では、降格や転勤もあると思った方が良いやろ」
「分かりました。池上君には今回の事件で相当反省してもらわねばなりません。昇進なんてありえません。それでは失礼します」と龍平は電話を耳から離そうとすると、
「おっと、電話を切らないで。まだ話があるんや」と受話器が叫んだ。
「何でしょう。まさかまだこの上に、どこかに出店せよとでも仰るのですか」
「そのまさかや。会長はミツバチ・マーヤの大部隊が、相模原を拠点に多摩丘陵で稼いでいるのをよく

ご存じや。だからカシオペアも西に拡張しろと、そして振るわない横浜東店を閉鎖せよと仰っている」
「横浜東の閉店は仕方ないです。私が店長の能力を過大評価したようです。だからこそ新店の店長が問題です。もう人材がいません」
「兎に角、会長の指示を伝えたよ。断るのなら自分で会長に直接電話してよ。それからな、毎日毎日、南関東は派手に売上の取消を入れてるから大阪で問題になっているの、知っているね」
「あれが無ければ、一日五百万円そのまま売上となるのですが」
「あれってキャンセルではなく、実際は架空売上の取消やな」
「いいえ、あれは契約のキャンセルですよ、本部長」と誤魔化して龍平は慌てる。
しまった、足を踏み入れてはいけない話題に入ってしまった、と龍平の心臓が早鐘のように鳴り出す。
「いいんだよ、会長には分からなくても、一緒に南関東販社を創った仲やろ、僕には嘘をつけんよ」
「済みません、毎日の取消の約半分は、確かに過去の架空売上の取消です、でも会長には内緒にしておいて下さいね」
「それは黙っておく。だが隆平君は、どこの店が多いのか、分かっているんか」
「古い店は同じ様なものです。売上が大きい横浜は、やはり架空も多いです。しかし池袋もかなりあります。全店満遍なくありますね」
「会長には黙っておくから、その間に膿を出し切って、一日も早く売掛金を綺麗にすることやな」
「分かりました、全力で早く処理いたします。新店の件は会長に直接相談します。では失礼します」
新店出店の問題は龍平に重くのし掛かっていた。もう少し遅らせたいのが龍平の本音だった。

毎日、俊平に電話をしようとするのだが、どうしても俊平には架けることが出来ない。もしも俊平から、売掛金の件や、今月の売上取消について、突っ込んだ質問をされたら、答えようがないからだ。誰にも知られないまま、売掛金を綺麗にする時間を、龍平はなんとしても欲しかった。
そんな十月中旬のある日、横浜店の久保店長から京橋ビルの龍平に電話が入った。
「常務、常務は運強い人ですね。実はミツバチ・マーヤ相模原店の現役の営業係長の大神という男から電話がありまして、会社を辞めてカシオペアに転職したいから、一度トップに会わせろと言ってきたのですよ。話が付けば、複数の部下も連れて来れるそうです。ベテランセールスが来るなら、横浜店は大助かりです。彼は今夕四時に、この横浜西店にやって来ますが、常務のご都合はどうですか」
「いいね、今からそちらに車で向かうから、四時には着けるだろう」
過去の架空売上を取り消す為には、その何倍もの売上が必要だ。だからすぐに売上が上がるセールスが喉から手が出る程欲しかった。転職して来てくれるなら、支度金だって出そう、社宅だって用意しようと思いながら、横浜へ,権太坂へと龍平は車を急がせた。
車は、俊平が龍平に与えた、五年前に俊平が乗り捨てた中古の日産プレジデントだ。俊平は今のプレジデントも乗り捨て、京橋ビルで買った品川ナンバーのベンツを既に大阪に運ばせていたので、これからはそれに乗るつもりだ。
確かに南関東販社のセールスの五人に一人が、ミツバチ・マーヤにいた人間である。しかし彼らは一度失業した後に自ら南関東販社の扉を叩いたのだ。現役のミツバチ・マーヤのセールス、それも役職を、部下込みで引き抜くという、今からやろうとすることの意味を考える余裕さえ、売掛金問題で追い詰められる隆平には無かったのだ。

第四章 報復の応酬 その③に続く