第三章(東京と大阪)その3

(写真は現在の川越街道大山金井町交差点。斜め右側に大山駅、手前左側が板橋区中丸町、南町)

昭和五十二年、東京の八月は連日の雨の中で始まった。弱り目に祟り目とはこのことだ。初月七月の売上はさっぱりで、月次決算は開店経費も加わり、大赤字だったのに、その翌月は長雨と来るのだ。
売上が芳しくなかったのは、龍平自身が会社設立に絡む雑務や、新規の銀行取引や、税理士、司法書士との契約に振り回され、ろくに営業に出られなかったこともあるが、アタックする地域を牛山の指示で、移動時間のロスを無くそうと、東武東上線沿線に絞ったことが裏目に出た。
この川越街道沿いの地域は戦国時代、小田原北条氏配下の城下町があったところで、住民は昔ながらの頑固な武蔵国人気質。「テレビで宣伝するような菓子なんぞ、子供に食わせられるかってんだ!」と、関西ではとっくの昔に消滅していた駄菓子屋を、意地でも付近住民で支え、菓子だけでなく、石鹸やタワシなど、生活用品まで買っていたのだ。東京を、関西よりあか抜けた大都会だと思っていた関西人の彼らを、完全に面食らわせることになる。そんな地域に関西弁で物売りに行ったものだから、昔気質のよそ者嫌いの人々に相手にされる筈がなかった。
三十日土曜日は、早めに営業を切り上げ、心ばかりの赴任手当を付けた七月の給与が支給された後、牛山の発案で、翌日の日曜の夜まで、家族を連れて来ている大山を除く全員が、一旦関西に帰って休養することになった。

ところが日曜の夜になっても、月曜の朝になっても、東京に戻らない最初の脱落者は、まさかの総責任者、牛山本人だった。すっかり戦意を無くし、真っ先にケツを割ったのだ。
月曜の朝、「もう東京には参りません」と野須川寝具本社の自分の机に座り込んでしまった。当然ながら俊平社長とは大喧嘩になるが、しかし俊平はどんなに腹が立っても、経験豊富な牛山を解雇する訳には行かない。それに今の東京の営業力では到底、牛山の給与は払えないと考える方が妥当だった。
牛山や龍平が東京で苦戦していた七月は、大阪では一大進展があったのだ。
六月末の日寝を吸収合併する交渉が決裂した後、俊平が用意した実弾(支度金)を使って、田岡は日寝の営業幹部との交渉を開始し、僅か一週間で日寝の営業全員の引き抜きを完了したのだ。彼らはカシオペア関西販社の従業員に迎えられ、田岡が社長になった。
田岡は長年の枕の製造業者らしく、つつましく南部郊外の河内松原に倉庫を借りて、関西販社の本社兼一号店としてスタートさせた。勿論初月の七月から、二十名以上のプロセールスが揃っていた田岡の関西販社は黒字経営だった。
因みに営業が全員いなくなった日寝は最早立ち直れず、結局は廃業したと龍平は風の噂で聞いていた。
東京の山崎が手を引いた以上、野須川寝具としては南関東販社とこの関西販社を統括するカシオペア事業部を作る必要があって、その責任者として他に人材もなく、どんなに腹が煮えくり返っても、牛山を頼る以外に俊平には道が無かったのである。
俊平の頭の中は、北海道から九州まで、全国津々浦々に販社や販売店を立ち上げ、カシオペアが寝具小売業の全国制覇をする夢でいっぱいだった。

俊平が心配したのは、寝具事業部の長年の提携先、京都山本との関係が壊れることだ。最初は京都山本に気づかれないよう、東京の片隅からスタートさせようと考えた。
ところが、親会社の帝都紡績の安藤社長や、関西の新興地銀、なみはや銀行の山村頭取が、野須川寝具産業が自社販売力を付ける為に、製造直販に乗り出したことに、揃って諸手を挙げて賛成したことが、俊平の考えを大きく変えることになる。
中でも山村頭取は前のめりだ。「必要な資金は何十億でも出そう」と、取引店を城東支店から本店営業部に変更させ、なみはや銀行が上方相互銀行に代わって、野須川寝具産業のメインバンクになった。
一方、八月が始まって数日経ったある日の朝、大阪の俊平から龍平に電話が架かった。
「大阪から応援したいところだが、八月は自分も事業部も、ほかにすることがあって忙しく、行けるのは九月中旬だ。その間、お前一人で、何が何でも会社を存続させるのだ。八月は絶対に赤字を出すなよ。これ以上赤字を出せば、そのせいで、カシオペア事業そのもののに悪影響を及ぼすのだ。それで八月は最低いくらの売上があれば、収支とんとんなのだ?」
「経費をぎりぎりまで詰めて、四百万円の売上が必要です」
「そうか、東京のことは全てお前に任せるから、四百万の売上を絶対に死守するのだ。頼んだぞ」
と言うと俊平は電話を切った。
八月は龍平もできる限り、皆と一緒に営業に出ようと思った。
アタック先は毛布の製造部門から来た天川の発案で、同じ板橋区でも、荒川の南にある新興の団地、高島平に絞ることにした。そこなら様々な処から移住して来た人が住んでいるだろうから、関西人でも相

手にしてもらえるだろうと期待されたからだ。
読みは当たった。梅雨のようにいつまでも降り続く雨だったが、初日から順調に売上が上がりだした。龍平と中川と天川の売上が特に順調だった。
しかし、大阪から来た彼らが、最初に高島平の団地を見た時は衝撃だった。往時、賃貸の世帯が約八千、分譲で入った世帯が約二千、合わせて一万戸弱の世帯が住む東洋一のマンモス団地だった。これなら一か月、どこにも行かずに、毎日ここで営業できると喜んだ。

ある日、営業から大山の事務所に戻って来ると、コンピューターから総務経理を担当する大山が、留守中に架かってきた電話の内容を書いたメモを龍平に手渡した。中に高校時代から太平洋商事時代までの十年間、文通相手だった、今は埼玉県に住む、谷川淳子からのものもあった。
龍平は大学三年生の一時、彼女と婚約したいと考えたこともあって、彼女に申し入れると、その時は「ずっと友達でいさせて」と拒絶されたのだった。
淳子のメッセージには、明日の夜、陣中見舞いに行きたいから、大山駅まで迎えに来てほしいと書いてある。谷川淳子の自宅が同じ東武東上線の沿線だったことを思い出し、数日前の日曜に社宅から電話を架け、新事業の為に東京に赴任していることを伝えたのだった。新婚旅行から奈良学園前に帰宅した時に、受けた電話から一年ぶりに聞く彼女の声だ。
翌日は五時過ぎに事務所に戻り、六時半に大山駅に淳子を迎えに行き、営業マンが順次帰って来る営業所を見せた。

その後、川越街道沿いのファミレスで、仕事の夢を語りながら夕食を共にした後、再び淳子を大山駅まで送った。
駅の中に入りしな、淳子は笑って言った。
「それにしてもね、あなた、やってくれたわ」
「えっ、何?」
「不意打ちで結婚したことよ」
「不意打ちではないよ。縁談の話が持ち上がった時、直ぐに君の家に電話したのだから」
「母から聞いているわ、私が日本にいなかったのよね、いいのよ。気にしないで、もうお邪魔することもないわ。元気で頑張ってね」
淳子は笑顔で手を振りながら、改札の中に入って行った。

夜遅く智代は頻繁に龍平のマンションに電話して来ていた。智代はそろそろ妊娠八か月だった。智代がふと「誰か、東京にいるお友達が訪ねて来たりはしていないの?」と尋ねたときに、「埼玉にいる中学時代の同窓生の谷川さんが、今日陣中見舞いに来てくれたんだ」と龍平は正直に言ってしまった。
不用意な発言の先にどんなことが起こるのか、龍平の思考はそこに及ばなかった。
一週間後、再び智代から仰天の電話が架かって来た。
「喜んでよ。お義父(とう)様が、私の東京引越しの許可を下さったの。来週から私たち一緒に暮らせるのよ」

「ちょっと待ってくれ、ここは狭い二DKなんだよ、引越して来るなら広い部屋を探そうか」
「牛山さんの部屋は少し広かったのでは?」
「あそこは牛山さんが出た途端、直ぐに中川君が入って、大阪から奥さんを呼び寄せたんだ」
「じゃあ、今の部屋でいいわ、そこに入るものだけ持って行きますから」
「しかし君の身体で引越は無理だろう、もう少し時期を考えようよ」
と言い終わらない前に智代は電話を切ってしまっていた。
学園前の家は、三LDKのマンションでも入りきれないほど、家具や荷物でいっぱいなのに、一体智代は何を考えているのか、龍平は訳が分からなかった。

第三章 東京と大阪 その④に続く