第一章(家族、夫婦の絆)その8

(昭和二十六年頃、現平野本町二丁目にあった自宅から南海「西平野」駅に向かう途中で撮影、現在内環状線が走る辺りではないだろうか)

戦争中の物不足の混乱をうまく立ち回って一財産を作っておきながら、闇で入手した原材料を官憲に押収され、総ての財産を失った野須川俊平は、その後三年間、農場主、蒲鉾屋と、それこそ貧の中、何でもして食い繋いでいたのだが、昭和二十五年の、俊平に吹いた思わぬ二つの「神風」によって、その後の化合繊原料商の元手を掴んだと言えば、俊平が生きておれば、顔色を変えて否定するだろうが、これは間違いの無い事実である。もっとも仮に俊平がそれを認めても、世間に決して大きな声では言えないだろうが。
長男の龍平は三歳となり、そろそろ幼年期の微かな記憶が残る時代に入った。昭和二十五年八月、滋賀県河瀬村の実母からの電報によって、父親、平三郎の突然の死を知った俊平は、顔色を変え、龍平を連れて東海道線に飛び乗り、河瀬駅へと急いだ。
龍平はしっかりと記憶しているが、両手を挙げたまま布団に仰向けに寝かされた平三郎の顔を覆う布をとると、断末魔の苦痛の中で死んだかのように、口を大きく開き、目は天を睨んでいた。龍平は怖さのあまり泣き出したに違いない。平三郎の目を瞑らせたのは俊平だった。長男、次男、その家族たちを救ってやれなかったことへの慚愧の思いが顔に現れたのかもしれない。
龍平は後で知ることだが、外地から帰国した長男次男の家族を追い払った後、俊平は父、母に頼んで、その家の名義を自分のものにしてもらっていた。


その後、平三郎は認知症を患う。
龍平は葬儀の日に、大人たちがひそひそと小声で話し合うのを聴いてしまった。事実ではなく根も葉もない噂かもしれないが、平三郎は蔵の中で死んでいたのを発見されたというのだ。
つまりその話が意味するのは、平三郎はひどい認知症を患い、徘徊性まで強く、為に妻や娘によって蔵の中で軟禁状態にあったということになる。
俊平には都合良く、腹違いの兄弟は誰ひとり葬式に間に合わなかった。それは俊平の実母がわざと知らせなかったのかもしれない。
平三郎の最期が最期だけに、家の名義が俊平ひとりのものになっていることを知ったら、父親がぼけたのを良いことに勝手に名義を変えたなどと、あらぬ疑いをかけられ、きっと一悶着があったに違いない。龍平は後日、それを恐れて父親があの晩、自分を連れて血相変えて彦根に急いだのだと理解した。
葬儀の後、俊平は平三郎を、村墓地の平七夫婦の墓の前に埋葬した。そしてその上に手際よく墓石を載せた。それはどこかの石材店の在庫品だったのか、土葬なのに火葬用の墓石だった。
とにかく俊平は財産の継承者らしく葬式を出して墓まで建てたのだ。そして屋敷も実に手際よく売り払った。買ったのは彦根の紡績会社で、屋敷は撤去され、跡地に何軒かの社宅が建てられた。
小作に貸し出されていた嘗ての田畑は、戦後のGHQによる農地改革によって、ただ同然の価格で国に買い取られて既に無かった。
俊平は姉と母を大阪に連れ帰り、姉は自分が決めた相手と結婚させた。決して仕事が出来そうな男ではないが、生涯姉を裏切りそうにない誠実性だけが取り柄の男を選んだのだ。


昭和二十五年と言えば、龍平には今も忘れられないもうひとつの事件がある。平野の長屋は屋根の上に物干し台があって、下の居間と一本の木製はしご段で繋がっていた。ある日龍平は幼児期の興味本位で、ひとりで物干し台に登ったのだ。登るは良いが、問題は降りる時だ。登る時と同じ姿勢で降りれば良いのに、そこは幼児のこと、頭を下にして降りようとしたから、あっと言う間にバランスを失い、はしご段を真逆さまに転がり落ちたのだ。
どこのはしご段にぶつけたのか、頭が激しく痛む中、龍平はゆっくりと顔を上げ、居間の中を見回した。大きな物音に、たまたまその部屋にいた父と母が仰天してこちらを振り返り、目と目が合った、と思う間もなく、ぱっくりと開いた額の傷口から、真っ赤な血がどろどろと流れだし、顔中が血に覆われた龍平には二人の姿も何も見えなくなった。俊平はすぐ様タンスを開け、抽斗から洗濯した下着を取り出すと、引き裂い包帯にし、龍平の頭をぐるぐる巻きにして、龍平を抱き上げるなり、病院へと全速力で駆け出したのだ。
お蔭で龍平は一命を取り留め、額に真一文字の縫い痕を残すだけで済んだが、もしもあの時、物干し台から落ちた居間に俊平がいなかったら、龍平の生涯はそこで終わっていただろう。

さて纏まった資金を手にした俊平は、蒲鉾屋を止め、化合繊原料商になった。
さて現代なら化合繊とは何だろうと思われる方もおられるだろう。
人類は永く天然の植物繊維や動物繊維を使って衣料品を作って来た。木綿、麻、絹、羊毛などがそうである。文明が進むと科学が発展し、それまで捨ててきた綿花の「かす」でも、化学技術で加工すれば繊維に変えることができるようになった。それがレーヨンとかスフと言われる化学繊維、化繊である。


そして高分子化学の発達とともに、石油から合成して繊維が作られるようになった。それがナイロンであり、ポリエステルであり、アクリルという合成繊維、合繊である。それらの総称が化合繊だ。
ある日、隣の家との壁が壊され、広い大きな部屋が出来たかと思うと、綿を打ったり、針で梳いたりする機械が設置されたのを龍平は覚えている。しかし機械はすぐに無くなった。それはそうだろう。ここ平野(ひらの)は、古くから静かな住宅地であって、騒音の激しい繊維機械が大量に設置された泉州地方の様な産地ではないのだ。ご近所の苦情を受けて俊平夫婦はやむなく機械類を撤収したのだろう。その後その広い室内は化合繊原料の倉庫として使われた。

仕事が終わったら、俊平は家族を連れ、よく周辺を散歩した。平野は空襲を受けず、昔の密集地のままだったが、一歩外に出れば、田畑ばかりが拡がっていた。
日が沈み行く西の方を見れば、春なら夕焼け空の下に真黄色に染まった菜種畑が拡がり、その向こうには阿倍野辺りまでが望める程に建物が少なかった。
俊平が始めた繊維の商いは順調に進んだ。それもその筈である。昭和二十五年六月、北朝鮮軍がソ連製大型戦車に乗って、大挙三十八度線を越え、韓国領内に侵攻した。
最初は北側が優勢だった。韓国軍は一時半島南岸に押し込まれる。しかしマッカーサーが仁川に上陸した九月以降、韓国側が優勢となった。戦争は途中から中国の義勇軍が参戦して泥沼化し、昭和二十七年七月まで続いた。この戦争での戦死者数、行方不明者数は、二百万人とも言われるが、この戦争による米軍からの特需は大きかった。大阪の繊維産業は一挙に息を吹き返す。それが俊平の第二の神風だった。

(第一章 家族、夫婦の絆⑨に続く)