第三章(東京と大阪)その10

(昭和五十三年八月、筆者は僅か二日間だが、仕事を休んで夫婦で東北を旅行した。平泉の毛越寺の庭園にて)

中川らのクーデターの企てが未遂に終わった社員旅行から、早くも二か月の月日が流れた。


カシオペア南関東販社の左遷組、中川ら十名の社員らによって開店にこぎ着けられた千葉店を含め、六月一ヶ月間の売上合計は六千五百万円を突破し、翌七月には七千五百万円をも突破した。
龍平は、横浜店とは言っても、港横浜からほど遠かった東海道権太坂の横浜店を横浜西店と改称し、山下公園に外国の旧公館だった物件を賃借し、五号店の横浜東店として、八月のオープンに合わせる用意にかかった。店長を横浜店から、池袋店からは二名の営業幹部を派遣し、後は現地調達を図る。
また同時に龍平の妻の実家がある船橋市にも、六号店の船橋支店を、池袋店から数名幹部を出す形で、これも八月のオープンを目指した。
七月は池袋店から千葉店までの四店で、八月は更に六店全店で求人広告を出し、大幅な増員を行った。
本社の野須川寝具産業の会計年度に合わせ、八月を決算期末にしていたが、昭和五十三年八月は、板橋区大山に会社を創設して十四か月目に当たる月である。
七月末に龍平率いる南関東販社の総従業員数は、事務官や、見習い営業を加え、総計百名に達し、八月の売上目標は、遂に創設時からの夢であった一億円に設定されたのだ。
南関東販社が月一億円を売り上げるには、野須川寝具産業から月に四千数百万円の商品を仕入れなければならず、そのことは仮に今後月商が増えず、一億円のままであっても、年間五億円の商品を購入する「大得意先」になったことを意味したのである。
北海道カシオペアの同月目標は八千万円、関西販社は一億二千万円、九州カシオペアが五千万円の目標が掲げたから、それら先発四社と、東北、北関東、東海、中京、北日本、中国を合わせると、カシオペア販社の年度最終月の八月の売上総計は、なんと五億円にも達したのである。

今度は営業の拠点である店舗数を見てみよう。北海道から九州までのカシオペアの店舗数は、六十三箇店にも達し、月商でも、営業の数でも、店舗数でも、先を走るミツバチ・マーヤの後ろ姿が遂に見えて来たと、カシオペア側の誰もが実感するようになった。
扱う商品構成は、羽毛布団の比率が金額的に三割を超え、四割に迫る勢いだった。羽毛布団に限るなら、往時はカシオペアがリーデイング・ヒッターだと言っても過言でないだろう。
龍平が全国の寝具訪販に先駆けて販売した羽毛布団が、実はダウン率六十パーセントという廉価物だったが、この頃にはそんな企画は既に廃番になり、ダウン率七十パーセントの上代七万八千円のランクが主流になっていた。
因みに後世の羽毛布団は、信販の普及と共に、更にダウン率を上げて高級な規格になって行くが、往時と現代の羽毛布団の違いは、ダウン率だけでは無かったのだ。
往時の羽毛布団の中身は、鴨肉が好きな中国人の為に同国の農家で飼われた茶色のアヒル(合鴨)の胸毛だった。しかし日本人は寝具の素材として白い色に清潔感を感じるから、数少ない白色のアヒルの胸毛ばかりを求めるようになるのだ。
ホワイトダックと言われるのがそうであり、旧来使われていた茶色がかったアヒルは、グレーダックと言う。
だが布団に詰めるダウン(胸毛)に求めるべき特性は、色よりも弾力性だが、過剰な洗浄・選別によって、布団の充填剤として必要なパワーを減少させることさえあるのが現状だ。更に高級な規格として、この後に日本では、ホワイトグースというガチョウの、玉の大きな弾力性の強い胸毛まで使うようになった。

しかし先達のミツバチ・マーヤが販売拠点の全国ネットワークを完成するのは、その一年も前であり、この年の五十三年の春には、既にテレビコ・コマーシャルを全国に流すまでになっていた。それは力士を引退し、芸能活動に専念していた名高い相撲取りが、三つ折りした布団を持ち上げ、「ハッチ、ハッチ、ミツバッチ」と唄いながら踊るものだった。
流石に、関西、南関東、北関東、中京の直営会社四社の立ち上げと出店に、巨額な資金を投入していた野須川寝具が、これに直ちに追随するのは不可能だ。
半年遅れて、相撲取りのように太った女が、布団を持って踊ると言った、ミツバチ・マーヤのパロデイー版を作って、関西系のテレビに流したのが、藤崎が創設した「おふとん屋」だ。
セールスが集めにくい大宮店の出店という失敗もあったが、会社創設十四か月で、全くのゼロから月商一億の販売会社に仕立てた輝かしい実績は、龍平にも大満足だったであろうが、本人よりも喜び、他人に龍平のことを自慢したのは俊平だった。
ど素人が集まって創った寝具訪販会社のカシオペアなぞ、歯牙にもかけなかったミツバチ・マーヤも、二か月後にはこの実態を知ることになり、同社営業の発祥の地である東京都での覇権にも、少し影が差してきたと気づいて危機感を持つのは、それはまだ先のこと。

八月になって、大阪の俊平が、龍平に言って来たことは、東京の都心に、できれば羽田空港か東京駅に近い場所に、南関東販社の本社、と言うよりも、カシオペアグループの東日本の本部を構えよ!というものだった。


カシオペアグループの月商が五億になったから、それによって本社の統括本部の売上が月商二億を超え、野須川寝具の年商が百億の大台に乗せられそうだから、有頂天になって、そんな贅沢な妄想を俊平が口にしたのではなく、丁度当月がグループ全社の初めての年度末になるので、翌月中旬にグループの代表者たち、野須川寝具の全役員を集めて決算会議をする場所が、俊平は日本の中心地の東京に欲しくなったのだった。
龍平は賛成できない。そんな経費を南関東販社で負担できる筈がないと思った。しかし板橋区大山の小さな建物を、池袋店などと呼んで、代表者である龍平の部屋はおろか、机さえ置くスペースが無い店を、月商一億に達した会社の本部にしておくのも無理があった。
ただし池上は大賛成だ。「高級寝具の老舗メーカーとしての、カシオペアのイメージを消費者に意識させるには、本部はやはり銀座でなければならない」と、龍平が乗り気ではないのを知ると、池上は直接電話で大阪の俊平社長に、銀座に本部を設ける意義を口酸っぱく口説くのだった。
池上のビジョンのまま、本社として、九月から銀座の京橋で、年輪さえ感じる古式なビルのワンフロアを借りることになった。
ビルの管理人は、龍平の名刺から、賃借する企業や、親会社の名を聞いて怪訝な顔をするばかりだ。銀座の賃貸ビルに入居するような企業は、大体古くから上場した老舗企業の子会社などが多く、賃借人はおろか、その親会社すら聞いたことのない新興企業が入居するのを、管理人は正直戸惑いを隠さなかった。
しかもビジコンを部屋に入れると知って更に驚くのだ。新たにそれ用の電源工事を設備しなければなら

ない。銀座に事務所を構える中堅の老舗企業で、新式のビジコンを使う企業は、まだまだ稀であった時代である。
龍平は関西系の製造メーカーの親会社に習って、八月十五日と十六日に二日間、会社を休業にして、一歳になろうとする娘の雅代を妻の実家に預け、夫婦水入らずで、一泊の東北仙台旅行を楽しんだ。思えば、カシオペア事業部を発足させて以来、龍平が妻の智代と過ごした日はどれだけあっただろうか。

 

第三章 東京と大阪 その⑪に続く