序章(廃業の決断)その6


思わぬ創業者親子の大喧嘩に、一時は参加者にどうなるかと心配させた決算会議だったが、終了時刻となれば何事も無かったように解散となった。

野須川俊平は、販社の売掛金管理のずさんさや、販社が持ち始めた独立意識に強い危機感を持つようになった。そこでこれまでの方針を改める三本の矢を放ったのだ。勝に経験豊富な事業家、俊平ならではの即断であった。
第一の矢は龍平がいる銀座本部の閉鎖である。営業本部は浜松町店へ、経理部・総務部・管理部はコンピューターと共に池袋店に即時移転を命じた。
俊平が自分の都内移動目的で銀座本部に預けていた真新しいベンツも大阪への返却を命じたのである。
そして俊平は、不良売掛金の問題は南関東だけで無いとにらみ、急遽信販会社と提携するや、全国の販社に郵便振替による月賦販売から、信販によるクレジット販売への切り替えを指示した。しかもクレジット認証不可の顧客にはカシオペアは商品を売らないと宣言したのだ。これが第二の矢である。
第三の矢は秘密裏に放たれた為、一部の関係者しか知らない。カシオペア統括事業部に密かに南関東販社の社員の分断策を講じるよう指示が飛んだ。龍平の南関東販社の従業員は結束した一枚岩に見えていたが、実際はそうでは無かったのだ。大阪の統括本部が南関東販社の左遷組の吹きだまりだった千葉店との交信を極秘に開始したのを龍平はまだ知らずにいた。
(写真は私の前の会社の毛布工場。泉州忠岡に三千坪の敷地を持つ、日本最大の毛布工場だった。)


本部銀座京橋ビルからの撤収は翌十月末までかかった。龍平には売掛金調査の返答期限を引き延ばす良い口実になる。
その間に管理部に未入金の顧客と接触させ、それがセールスとの口裏合わせの架空売上だったと発覚するや、龍平は即時売上の取り消しを経理部に命じた。
十月には五百万、十一月には七百万、架空売上が取り消されて行く。このまま行けば、どんなに遅くとも年度末の八月までに全額処理できるだろうと思われた。
ところが過去の架空売上の取り消しが、従来の月賦販売から信販売上の移行時期と重なった為に南関東販社の中は大混乱に陥っていた。
購入をためらう顧客にも、とりあえず契約書にサインさせ、どうしても要らないのなら、返品させるのでも良かった四ヶ月払いの月賦販売から、第三者の信販会社が、顧客の購入意志や、支払意志を確認するクレジット販売に移れば、そんな「なあなあの販売」が許される筈はなかった。慣れない信販の扱いに加え、過去の売上まで取り消されて、歩合給が大幅に落ちるセールスマンたちは、揃ってトップの龍平を怨むことになる。
昭和五十四年の年が明けると突如、ミツバチマーヤ軍団によるカシオペア南関東への反攻が始まった。龍平の南関東販社の売上は大打撃を受けることになる。そんな龍平の最悪な状況に加え、三月中旬には千葉店の幹部が浜松町店に押し寄せ、船橋店、八王子店に、発祥の池袋店まで味方に付けて、龍平を横浜西店改め横浜店に追いやる事件が勃発した。龍平は直ちにこの窮状を大阪本社に訴えたが、驚くことに統括本部は暫く状況を見たいと返答し、動く気配を見せなかった。

直後、大阪本社の長村(おさむら)財務担当専務の下にいた近藤経理部長が、カシオペア統括本部のスタッフたちを引き連れ、大挙して南関東販社の監査の為に浜松町本部に入った。
セールスから聞き取り調査が始まる。近藤は三日がかりで、架空売上は売上が欲しかったトップに無理強いされたものだとの多数のセールスの供述書を集めた。この作業は俊平や上司長村の指示では無く、龍平を後継者候補から外そうと企む野須川寝具の営業担当専務たちからの依頼によるものだった。
しかも不良売掛金は、優に一億円に登ることも彼らは掴んだ。龍平の指示で、架空の五千万円の売上が取り消された上で、まだ一億円残っているというのだ。
会社が架空売上を取り消した日に、当のセールスが同額の架空売上を新たに上げたに違いない。それが自分の家族の生活を守るための宿命だった。そんなセールスの弱みに近藤はうまくつけ込んだのだ。
大阪ではこの問題の役員会が開かれ、喧々囂々の議論となった。俊平は、息子とセールスとの分断策が、こんな深刻な事態を招くとは思ってもみなかった。
役員たちの目は俊平の任命責任をも追求しそうな構えだ。俊平は何も言えず、天を仰いで、息子龍平の解雇を決断し、四月二日月曜日朝九時の大阪本社出頭を命じた。
龍平は解雇通知を受けても何一つ弁解はしなかった。これで野須川寝具・カシオペアグループとはおさらばだった。
大阪本社出頭の前日の日曜日、彼は妻の実家近くに引越して東京で新たに職を探そうと、自由が丘の社宅の荷物を引越屋のトラックに乗せ、引越屋が、それでは先に奥様が待たれる船橋に行っております、と帰ろうとした時だ、電話がけたたましく鳴った。カシオペア関西販社の田岡社長からだった。
(序章⑦に続く)