第一章(家族、夫婦の絆)その15
(筆者が商社時代を過ごした大阪市中央区の地下鉄御堂筋線本町駅付近の現在の風景)
「縁談! 縁談って? どうしてそんな大事なことを言ってくれなかったの?」
「ご免なさい、でも信じて、私は乗り気では無いのよ、ただ親が気にいってどんどん話を進めるの」
「待ってくれよ、そんな話なら、黙って退ける訳ないだろ、来週の日曜日、もう一度そちらに行くから、君のご両親に会わせて」
龍平は、自分が寝具の京都山本の生産を引き受ける野須川商店の社長になるのなら、そのプライドに賭けて絶対に退けないと思った。
土曜遅くまで残業して、龍平は日曜早朝の雷鳥で金沢に向かう。
逢えば俊子は、前言を翻し、龍平との結婚を前提に話を続けるのだった。だが、俊子は龍平を親には逢わせなかった。自分が責任をもって親を説き伏せるから、二週間だけ待ってほしいと言うのだ。
龍平はすっかり気を取り直し、夜遅くまで金沢の城下町でのランデブーを楽しんだ。
妻となる人の故郷は、自分には第二の故郷だと、龍平は歩きながら金沢の地図を熱心に頭に入れようとする。
その日の夜行で龍平は大阪に戻った。
十月に入って上期の決算が始まる。この間に龍平は仕事の引継ぎを平行して進めた。決算が終了すれば、お隣の編物製品課に移って、早く営業が体験できるよう、向こうでの仕事を全速力で覚えなければならない。
毎夜深夜まで決算事務をしながら、あの日から俊子が連絡して来ないのが、龍平には気がかりだった。
決算の伝票入力の最終の日になる。他の課がまだ決算事務をしている中、龍平は午前中に決算書のチエックを完了し、課長に最終の決算書に検印をもらうと、午後からの半休を申請した。
課長は目をむいて怪訝そうな表情になるが、事情を薄々知っていたのか、渋々許可印を押す。半休でも全休でも良いのだが、当日になっての申請は規則違反なのだ。
龍平は北陸支社の俊子に電話して、大阪駅から特急「雷鳥」に飛び乗った。
俊子の結納は数日後に迫っている。
その日の夕刻、金沢駅に着いた龍平は、駅前の喫茶店で俊子を待つ。八時にようやく俊子が現れた。
彼女が漆黒のコートを脱ぐと、胸の膨らみを見せる真紅のセーターが、龍平の眼に飛び込んだ。
龍平の不安は的中し、俊子は縁談を断ってはいなかった。
縁談の相手が、俊子の心の迷いに気づいて、毎日彼女に連絡してくるようだ。彼は上場会社のグループ会社に勤務するサラリーマンだった。
俊子は、もっと早く出会っていたら、と店の客に聞こえるような大声で泣いてみたり、今から縁談を断りに行く、と言い出したりして、龍平を慌てさせた。
本当に泣きたいのはこちらだ、社内の羨望の的だった男が、嘲笑の的になってしまうのだ、と龍平は思う。明日からは心を集中して、製品課の業務を全速力で習得しなければならないのだ、これ以上俊子に構ってはいられないと龍平は決断する。
龍平は笑って俊子の結婚を祝福し、その夜の夜行列車で、泣きながら大阪に戻った。頭の中に、金沢の街の風景が、走馬燈のように浮かんでは消えて行く。
龍平の製品課で扱う総ての商品の、そして仕入先と販売先を形態別に知る勉強が始まった。
二刀流の大谷翔平ではないが、龍平は製品課が扱う肌着類の生産管理と、総ての商品アイテムのバランス管理(売約の無い商品買約や商品在庫をゼロに統制する)という内勤の業務をしながら、九州地方の量販店や、問屋への製品販売まで担当することになる。
一挙に覚えることが増える。肌着を作るには素材や縫製方法の知識だけでなく、日本人の年齢別の標準サイズから、日本の女性の胸のサイズまで知らなければならない。
製品課に移って一週間程したある日、父親の俊平から珍しく食事に誘う電話が入る。
その夜、俊平の行きつけの割烹料理店で二人は語り合った。龍平には生まれて初めての経験だ。
酒が飲めない俊平だったが、息子に酌をしながら、顔を赤らめて話題を変えて来た。
「お前の社内恋愛は遂に終わってしまったのか。聞けば、向こうの職場では評判のお嬢さんだったそう
だな、お前たちの交際は認めてやるつもりだったのに、まあ人生には何度もこういうことがあるさ」
いつも監視されていることを知って驚くが、今夜はそんな父親が許せる龍平だった。
年が明け、俊子の結婚式の日がやって来た。龍平は机に座って仕事をする気にはとてもなれず、製品課が専用で使っていた商品展示室の片付けをしていた。何度も何度も頭の中に「ラ・ノビア」の唄が流れて来る。
その夜は更に辛かった。龍平には自分の胸を掻きむしりたくなる程に一睡もできない夜だった。
(第一章 家族、夫婦の絆⑯に続く)