第八章(裁かれる者たち)その2

 

(筆者の現在の職場、美原ロイヤルメモリアルパーク。現在未使用の墓地は十パーセント未満である。小説の第九章に登場する丹南メモリアルパークのモデルだ。事業許認可は平成四年六月。付近住民の同意書を揃えて開園したのは平成六年春。阪神大震災の一年前である)

龍平が今になって宗教書をどんなに読もうが、まだそれほどの信仰心も無く、人生の舵取りを信仰の道に切り替えようなどの気持ちも無かった。ただ経済的な苦境から脱するヒントが得られないかと欲にかられていたまでのことだった。
心の中の善と悪が相克する世界、そして悪を成そうとする者たちを懲らしめる「神」、それらはただ龍平の心の中に作ったイメージに過ぎないとしても、過去に龍平の行動を変えたことがあったのだ。
龍平が形式的であれ、信仰に触れたのは、特に病弱だった小学校時代の龍平の身体を鍛え直そうとした母親の薦めで、小六から中一の約一年間入っていたボーイスカウト奈良第十団のスポンサーが、たまたま近辺のキリスト教会だった為に、日曜礼拝に義理でも何度か通わなければならなかった時のことだ。
それはあくまでも団の一員としての義理を果たしただけだったが、その後、キリスト教の「神」が、何時の間にか、龍平の潜在意識の中に根を降ろしていたのだろうか、あるいは、その頃に観た「ベンハー」だとか、「キングオブキングス」と言った七十ミリのハリウッド大作映画に登場する「イエス・キリスト」のイメージが、龍平の潜在意識の中に居座ったのだろうか。
龍平にもよく分からないが、「悪」の誘惑に惑わされそうになった時、それを叱りつける恐怖の「怒る神」、姿こそ見えないが、「神」の使いのキリストを、十字架に架け、磔刑(たっけい)にした者たちを叱りつけるように、怒りに任せて昼間の青空を真っ暗にし、雨を降らせ、雷を落とされる、そんな「怒りの神」のイメージが心の中に出来上がっていた。

そのような「怒る神」が、不意に龍平の前に現れたのは、昭和四十四年、龍平が大学四年生の時の十二月の、意を決して恋人の桂綾子に求婚しようとした時だった。
学生時代の龍平の側にいたのは、そして龍平に結婚を考えさせたのは、二人の女性だ。言うまでも無く、二人とも龍平の妻にはならなかった。
一人は中学三年生の時のクラスメイトの谷川淳子。彼女はその後、家族と共に東京に引っ越したから、以後龍平とは文通の相手であって、言うならば遠距離恋愛の対象だ。龍平同様、彼女は何事にも好奇心が強く、発展的で、中学時代も彼女の容姿よりも闊達さに惚れる男生徒が多くいた。
桂綾子は、高校の同期生で、三年間クラスは違ったが、夜間に通う英語塾で同じ塾生だったことから知り合った。高校卒業後も彼女が入学した短大が、龍平の大学と同じ兵庫県であったことから、彼女からの積極的な接近で、龍平が下宿する三年生までは、同じ電車で通学する日々が続き、いつからか休日にはデートを楽しむ関係にまでなっていた。
綾子は器量好しだったから、それにも曳かれたが、それよりも、毎回三十枚もの便箋を使って手紙を交換する、淳子との関係を、魂が魂を引き合う関係などと重く優先的にとらえるようになっていた。
大学三年生になる昭和四十三年の春、即ち綾子が短大を出て、大阪北浜の商社に入社する時期だが、龍平は京都禅寺の庭園でのデートを最後に綾子との交際を打ち切った。
龍平は容姿よりも、谷川淳子の自分に似た挑戦的で学究肌の人柄を選んだのだ。
そしてその年の六月、東京の私大のESS部の遠征合宿で関西にやってくる淳子を、奈良の自宅に連れて来て、親に引き会わせようと計画した。

俊平も彼女に会うことを快く了解する。良いお嬢さんなら、二人の婚約を許そうという雰囲気だった。
この話は第一章で触れたから、これ以上は省略するが、淳子はなぜか龍平の自宅訪問を拒絶した。代わりに神戸の街で龍平と逢って「友達のままでいましょう」と告げるのだった。
以後友達としての二人の交際はその後も続くが、龍平が淳子に愛の告白をすることは二度となかった。
恋人ではなく、友だちでいようと淳子に告げられた数ヶ月後、龍平は再び桂綾子と逢っていた。
年が明け、昭和四十四年になると龍平は神戸での下宿生活を切り上げ、再び奈良の自宅から大学に通った。授業の帰りに仕事を終えた綾子と夕食を共にしたいからである。
彼らは淀屋橋のスポーツ用具店の前で待ち合わせをした。
やがて勃発した大学紛争。反日共系全学連諸派の学生たちに学舎は占拠され、新学期(龍平には四年生の前期)の授業の開始が望めなくなった。卒論の作成に繋がるゼミナールだけは、担当教授の自宅に生徒を集めて、やっと続けられるという有様だ。
大学紛争が終結した九月の中旬から、ようやく大学の前期が始まる。
九月から十一月まで、龍平は綾子とは逢っていなかった。龍平はその時期、勉学に集中する為だと言いながら、綾子から逃げていた。
その年の春、龍平は父親に今度は綾子と会ってくれと頼んでいたのだ。淳子を両親に紹介しようとした時期から、まだ一年も経っていない。
俊平は驚いた。龍平が、綾子のことを、高校の同窓生であって、今は太平洋商事の競争相手である、大会社の瑞穂花井商事のOLだと話した。

すると俊平は「商社の女なら、わざわざ会う必要はない。お前こそ、そんな女と付き合うのはやめておけ」と、龍平に綾子との交際まで禁じたのだ。
そんな女とは、どんな女なのか。往時女性が働く幾多の業種の中で、商社のOLの仕事は、男性社員との区別がまるで無いのが特徴だった。営業ノルマまで与えられる女性もいた。ストレスが溜まるのは男性社員と同じだ。そんなストレス発散に、男性社員と深夜まで飲み歩く、中にはごく一部だが、まるでスポーツジムのシャワーで汗でも流すように、相手をとっかえ、ひっかえ、刹那の欲望を満たす女性もいた。俊平の目に映っていたのは、そんな商社の女性だった。俊平は偏見を持って、商社レデイーを差別していたのだ。

五月のある日曜日、龍平は綾子を自分が住む学園前でのデートに誘った。綾子はいよいよ龍平の両親に紹介される日が来たのだとわくわくしながらやって来た。
ところが龍平は綾子を連れて何度も自宅の前を通りながら、綾子を家には入れないまま、デートが終了してしまった。自分の不甲斐なさに龍平は泣きたかった。
日没が迫り、綾子を学園前駅に送って行く。
綾子は「今日は楽しかったわ」と明るく笑って見せた。綾子が乗った電車が奈良方面に向かって出発し、駅の踏切を越えるまで閉じられたままの遮断機が開くのを龍平は待つしかなかった。そんな龍平を見たくて、綾子はドアの前に立つ。龍平も電車のドアのガラスにへばりつく綾子に気づいた。そして綾子の眼が真っ赤に腫れ、その頬に涙が溢れ出すのを見てしまう。
綾子は理由は知る由も無かったが、野須川家の嫁として拒絶された事実だけは受け止めたのだ。

その後も何度も綾子に会ってくれと俊平に頭を下げたが、俊平は頑として拒否続けた。
それから暫く龍平は綾子に逢わなかった。綾子にかけてやれる言葉もなく、龍平の心も定まらずして、このままでは逢えなかった。
次に二人が逢ったのは、八月の奈良の大文字焼きの日だった。
待ち合わせの近鉄奈良駅に行くと、すぐ上の姉が綾子の横に立っていた。姉は「じゃ、綾ちゃん、あの話、きちんと考えといてよ」と言いながら、龍平とは視線を合わさぬよう、その場を去った。
九月には、ようやく授業が再開され、十一月に前期の授業が終了し、ぎりぎり龍平たちは三月に大学を卒業できる見通しがつく。
予定通り、四月から太平洋商事で働けるのだ、親から独立した社会人になれるのだ、と龍平は嬉しかった。だったら、綾子と結婚するのに、俊平の同意が絶対的に必要な訳ではない。
俊平の反対は気にせず、今こそ勇気を出して綾子に求婚しようと思うようになる。給与が貰えるまで、後五ヶ月の辛抱だ、と龍平は自分に何度も言い聞かせた。
龍平の周囲には、確かに綾子程のあどけなく、可愛い女性はいなかった。しかも商社に入ってから綾子は益々綺麗になった。
綾子は淳子と違って、学生時代から龍平を除けば、ひとりのボーイフレンドも作らなかった。
だから綾子には自分が求婚してやらねばならないのだ、というような不遜な考えが、大学卒業を控えた龍平を支配し出していた。
どれだけ綾子を真剣に愛しているのかと問うこともなく、もしかしたら欲しているのは綾子ではなく、

綾子の肉体ではないのかと自問することもなく、龍平は綾子を強く自分のものにしたいと思うようになっていた。
龍平は綾子に十二月に入った最初の金曜日の夜、学園前駅の前にある洋食堂の近鉄パーラに呼び出す。
龍平はレストランの中で彼女を待つ間、これから彼女に話さなければならないことを順序だって整理し、頭の中で二人の会話をロールプレイしたりしていた。外は既に暗くなり、店の中の眩しいばかりの照明の温かさに引き寄せられるように人が集まって来た。
店の入口を見ながら、綾子が現れるのを待っていると、黒ずくめの修道服を着た外国人の男性が入って来る。何かをテーブルの上に置きながら、テーブル毎にお祈りをして回っている。
そこへ約束の時間通りに綾子が入って来た。
綾子はレースの付いた純白のブラウスに、ネイビーブルーの糸とグリーンの糸が交織されたジャカードのツーピースのスーツを着て、髪の毛を外巻きに巻いて、先端を左右に挙げたヘヤースタイルだった。
こんなに着飾った綾子を見たことがなかった。しかも綾子は珍しくお化粧までしていた。
綾子はきっと今日ここに呼んだ理由が分かっているのだ、と龍平は直感し、こんな美しい彼女を見たことがないと感激で胸が一杯になった。
これなら話は早い、単刀直入にプロポーズをしようと、「綾子さん、僕が今日話したかったのは」と言いかける龍平を遮ったのは、先ほどの修道士だった。
「ミナサマニ カミノ ゴカゴガ アリマスヨウニ。シュクフクガ アリマスヨウニ」とお祈りして、テーブルの上にカードのようなものを置いて、隣のテーブルに移動した。

龍平がもう一度「僕が今日・・・」と言いかけると、今度は綾子が「待って、先に私の話を聞いてくれる」と遮った。
綾子は思案するよう暫く黙り込み、龍平から視線を外して俯きながら、一言、一言、語り出した。
「野須川君、私たちが二人だけで逢うのは、今日限りにしなければならなくなったのよ。実は、私、お見合いをしたの。野須川君はどう思って」
龍平は予想だにしなかった綾子の言葉に仰天する。なにか適切な言葉を選ばないと、綾子は自分のものではなくなってしまうのだ、彼女を止めなければならない、と思った瞬間、先ほどの外人の修道士が目の前に置いたクリスマスのミサに誘うカードが、眼に飛び込んで来た。
と同時に黙って自分の膝の上を見下ろす綾子の上に、磔刑のキリストが浮かんで来た。
「これから幸福になろうとするこの女性を祝福せよ」と命じる声が耳の中で聞こえた。
龍平は金縛りにあった様に身動きひとつ出来ず、しゃべることさえ叶わない。
やっと口が動いたが、勝手にしゃべり出した。「どう思うって、君はお見合いをして、その縁談を承諾したんだろ。もう返事をしたんだろ」
綾子は俯いたまま、頷く。「だったら、僕はただ君におめでとうって言うしかないじゃないか」
何を言ってるのだろう、思っていることとまるで違うじゃないか、と思っても後の祭りだった。綾子はにっこり笑って顔を上げた。
龍平は自分の前途を照らす光が総て消されたように感じる程、心の中に激痛を感じる。「是非もなし」とは、こんな龍平の気持ちを言うのであろうか。

第八章 裁かれる者たち その③に続く