第二章(個別訪問セールス)その9

(筆者の前の会社の本社工場があった大阪市鶴見区茨田横堤を通る大阪生駒奈良線の現在の風景)

「ドア・ツー・ドアとは?」と龍平が尋ね返すと山崎は得意気に話し出した。
「あれ、勉強不足だね、龍平さんは。個別訪問セールスと言えば分かるのかい?」
「例えば、生命保険とか、百科事典とか、化粧品とか、一軒一軒、家を廻って営業が売りに来るのがあるだろ。あのやり方で布団を売っているのがミツバチ・マーヤなのだ。本社は浜松だったね?」と俊平が口を挟む。
「そんな回転の悪い商品ではありませんよ、布団は。ミツバチ・マーヤの普通のランクのセールスでも、一日三件、四件は契約とって来ますからね、本店所在地の浜松にあるのは工場だけ、営業本部は東京の新宿です」と山崎。
「そうか、遠藤社長は東京にいるのか。それにしても山崎先生、昼間家にいるのは奥さんだけだよな、その奥さんが、いきなりやって来たセールスから、何万円もする布団を買うのって、そんなこと本当にあり得るの? 理解できないな」
「野須川社長、ドア・ツー・ドアは、欧米で培われてきた歴(れっき)とした販売技術なのです。それを学んでいなければ、そりゃ何軒廻ろうと一軒も契約はとれませんよ。ミチバチ・マーヤを、寝具訪販業界の全国一位の企業にしたこの私がですね、責任持って御社を指導しようと言っているのです」
「龍平、そういう訳だから、先生の力を借りて寝具訪販事業部を創ることにした。それで今日限りでお前を、毛布事業部のハイゲージタフト生地の担当を解任し、訪販事業部準備チームの一員にする」

「えっ、ちょっと待って下さい、社長。確かに山崎先生という実績のあるコンサルタントがおられるのだから、お力を借りて、寝具訪販事業とやらをやってみたいとは思いますよ。しかしそれは小売業ですよね。この寝具業界で、メーカーが小売業に手を出すのは、如何なものでしょう。京都山本は怒りませんか? 大丈夫なのですか?」
「龍平、お前までがうちの役員たちと同じ様なことを言うとはな。だから隠密にことを進め、しかも素早く立ち上げなければならないのだ。野須川商店寝具事業部に無いものは販売力だ。今のように販売を他人(ひと)に頼っていたのでは、安定した利益の確保は不可能だ。事実、京都山本の肌フトンだって、年々工賃単価が削られて来ており、生産量でカバーしなければならなくなっているのは、お前もよく知っているだろう」
「龍平さん、野須川商店の訪販事業が、絶対に京都山本さんの全国問屋卸商売の邪魔にならないようにしますから、安心して」
「山崎先生、それは本当に可能なのですか?」と今度は俊平が山崎に話しかけた。
「野須川社長、この私と訪販事業育成のコンサル契約を結んで下さったら、その辺りも決して悪いようにはいたしません。私を信用して下さい」
俊平は完全に東京の山崎が持って来た訪販事業立ち上げの計画に前のめりになっていた。コンサル契約金の振り込みは数日以内にと話を付け、山崎は大阪鶴見区の野須川商店を後にした。

山崎を見送った後、俊平は自分の部屋で、しばらく龍平と話を続ける。

龍平は衣料生地の仕事を誰に引き継ぐのか、気になって俊平から離れられずにいた。
「社長、私がしていた仕事は、誰に引き継いだら良いのです?」
「ああ、あれか、あれは取り敢えず、大津工場(毛布工場)の染色部門の人間から一人選ぼうか」
「お言葉を返すようですが、そのような技術系の人材では、販路開拓は望めませんよ」
「あんな仕事はどうでも良いのだ。お前は、アクリルタフト製品が毛布以外の分野でも応用が利くのを実証したと、得意になっているのかもしれないが、お前のやった事は、うちの会社では何のプラスにもなっていない。タフトするアクリルの量は微量で、お前が如何にその生地を売ろうが、テイボーアクリルの生産の増加に何ら貢献するものでもない。それにだ、お前、その生地の無地染めに、外注のウインス(染め釜)を使ったそうだな。それじゃ、うちの染色工程には工賃が落ちないのだ」
「私は自社の連続無地染機を使おうとしたのですよ。だが衣料用素材なので、微妙に色合いが違って、後でクレームになってはいけないと、色の安定するウインスを、工場側の提案で使ったのです」
「それ見ろ、自社でやって染色工賃をもらっても、後でクレームが来るような受注だったのだ。最終製品を作るのと、素材を作るのでは、求められる品質基準が違うのだから、いくら帝都紡績に言われようが、自分の会社の生産設備を活かす仕事でなければ、初めからお断りすることだ」
龍平は父親のこの言葉につい納得はするが、一方ではこんな理屈は岐阜のアパレル業者には通じないことも理解していた。そこには生産側と販売側の立場の違いがあって、仕事への価値観が変わってしまうのだが、後に龍平が寝具の訪販事業部の南関東販社を創った時に、この立場の違いによって父親と激突することになろうとは、この時二人とも想像すらしていなかった。

俊平は続けた。
「それよりも、この訪問販売事業だ。お前の下には社内から若い者何名か選んで付けてやろう。ただもう一人、熟年の人生経験の豊富な人間がお前の相棒になってくれたらなあ。誰かお前に心当たりがないか? 勿論社外でだ」
「ひとりいますね。田岡さんですよ、社長もご存じの」
「なに、田岡、まさか、あのスーパーの田岡か?」
「はい」
「なんでお前が田岡を知っている? どこで会った? 今あいつはどこで何をしているのだ?」
「偶然に大津工場から出るアクリルの起毛クズを有償で使ってくれる企業がないかと探している内に見つけました。田岡さんは今富田林市で大手枕屋さんの下請け工場をされています」
「そうか、その田岡をお前は口説けるのか」
「やってみようと思います。まだ野心を完全に無くしてはおられないはずですから」

第二章 個別訪問セールス その⑩に続く