第二章(個別訪問セールス)その2

(筆者の父が昭和三十五年に本社を構えた京町堀。今はその地に高層マンションが立つ)

西区江戸堀(JR福島駅南)で化合繊原料を商う会社を設立して僅か五年後の昭和三十三年、野須川俊平は大阪の都心から東に寄った現在の鶴見区鶴見に四百坪の土地を購入し、洋布団工場を建設した。往時その辺りは城東区の一部であって、工場の周りは田畑が広がっていた。
この事業拡張は、野須川商店の後援者であった扶桑紡績の重役の、いつまでブローカーのような仕事をするのだ、これからはメーカーの時代だぞ、の一言から俊平が発奮して取り組んだ事業だったという伝説が社史に残っている。
だが戦後の復興が進み、もの不足の時代から、繊維業界も生産力がついて来ると、やがてはもの余りの時代へと移行するであろうこと、そして合繊メーカーによる繊維加工業者の系列化が進み、原料取引は次第に閉鎖性を高めて行く中で、合成繊維が公開で取引される市場は限りなく小さくなるだろうと俊平が五年後、十年後を見越していたと言うのが正しいだろう。
鶴見の工場で木綿(もめん)綿の代わりに合繊綿を詰める「洋布団」の生産が始まっても、野須川商店の業務は合繊原料の商いがまだまだ主力であった。営業社員は十名を超え、俊平を囲んで上下の隔たりなく屈託なく言葉が交わせる、次郎長を囲む清水一家の様な結束の固い集団だった。
因みに、この昭和三十三年という年の会社の社員旅行は、五月の連休を利用した富山県の宇奈月温泉での一泊旅行だった。俊平はこの社員旅行に十歳の龍平を連れて行っている。

宇奈月から黒部渓谷を行く電力会社のトロッコ道を歩いて、旅行の参加者全員が、残雪の日本アルプス(立山連峰)の美しさを満喫した。
龍平は立山の雄姿を写真に撮り続ける。そのカメラは一年半前に俊平が買い与えたシックス版のリコーフレックスだ。
カメラの他にも、顕微鏡、天体望遠鏡、ステレオ蓄音機など、龍平が欲しがるものは殆ど何でも与える俊平の溺愛ぶりだが、総ては親子で共通の話題を作るためであって、例えば楽器とか、油絵や水彩の画材とか、俊平が興味のないものは一切与えなかった。それは龍平に読ませる為に買い与えた書籍でも同じことが言える。その殆どが偉人や英雄の伝記物であり、戦記物や歴史物だったのだ。
俊平と古参の従業員たち数名は、すっかり社員旅行から日本アルプスに魅了され、それからも共に山登りをするようになった。勿論龍平も一緒だ。
この古参の原料部隊の営業たちは、その六年後には俊平が涙を呑み、断腸の思いで切り捨てることになるが、彼らは職場を去った後でも俊平から登山に誘われると、ザックを背負って俊平の周りに喜び勇んで集まった。

さて俊平が作った洋布団は心斎橋の老舗百貨店、大信で販売された。詰め物を天然の綿から合繊に変えるだけで製造原価を大幅に下げるが、詰め物なら二等品の原料が使えたことや、側にする生地も大量仕入れで買い叩いたものだったから、それまで何千円で売られていた掛け布団が、何百円という超破格値での販売が可能となった。

商品の陳列台はあっと言う間に空になり、工場で出来た尻から製品をトラックで心斎橋に運ぶのだが、係員が台車に積んで陳列台に運ぶ間もなく、全量が売り切れた。寝具の老舗の京都山本から業務提携の話が持ち込まれたのはこのような時代だった。
昭和三十五年、俊平は江戸堀の事務所が手狭になったからと、西区京町堀に新築した鉄筋四階建ての自社ビルに移転した。
布団の中に詰める原料だが、財閥系合繊メーカーの五稜レーヨンから試作のアクリル綿百七十トン(布団八万五千枚分)が直接取引で廉価提供されるという幸運に恵まれ、寝具製造部門の利益が次第に合繊原料の売買部門の利益を上回るようになったのもこの年だ。
アクリルは人造のウールを目指して石油から作られた合成繊維であるから、バルキー性と言われる伸縮性・弾力性が出なければ無価値なのだ。
アクリルの先発メーカーは、カシミアのような繊維だと謳って生産・販売をしていた日章化学だ。五稜レーヨンも、日章化学の後を追ってアクリル繊維を開発したが、衣料品の素材として自信が持てるバルキー性が出せるまでは、その用途先として思いつくのは、布団の詰め物くらいだったのであろう。
俊平は同年、現在の鶴見区茨田(まった)横堤に二千坪の土地を新たに購入し、洋布団工場の建築に掛かって、翌昭和三十六年に竣工した。
新工場では総計九十名の従業員が投入され、洋布団の大量生産が始まった。
京都山本から全国の寝具専門店に卸されるルートとは別に、「ヤスロン洋フトン」の名称で俊平が作った洋布団は全国を席巻するようになる。

さて京都山本と提携する前の洋布団の主力販売先だった大阪心斎橋の百貨店「大信」の寝具バイヤー(仕入係)は田岡と言った。
田岡、読者はこの名に聞き覚えがあるだろう。寝具訪販カシオペア関西販社の社長として序章に登場した人物だ。
田岡は百貨店に勤めながら、アメリカの小売業の形態や動向を勉強し、これからの日本の小売業を牽引するのは専門店でも百貨店でもなく、量販店つまりスーパーだと確信するようになった。そして自身でスーパーをやってみたいという夢を、俊平と食事をした時に語った。共感した俊平は、茨田(まった)横堤の布団工場の敷地は、半分以上余裕があるので、野須川商店がスポンサーになるから、そこでスーパーをやってみないかと田岡を誘った。
すると田岡はその気になり、老舗百貨店を辞めて野須川商店に転職し、「スーパー・ヤスカワ」の事業部長になったのだ。
俊平は、後援者である扶桑紡績の反対を押し切って、爆発的に売れた洋布団で得た利益の総てをこのスーパーの店舗作りに投資した。総額一億円だったと言われている。
俊平自身は京町堀の本社を拠点に合繊メーカーや紡績会社の重役幹部の接待業務を続けなければならず、茨田(まった)横堤でのスーパーの事業は田岡に任せ、同所の工場での寝具事業を任せる人材を探すことになった。俊平が白羽の矢を立てたのは、俊平の船栄時代の上司、森本だ。
かくして郊外の茨田横堤での洋布団製造事業とスーパー小売事業が、都心の京町堀本社から遠隔操作で行われることになった。

第二章 個別訪問セールス その③に続く