第七章(終わりなき闇夜)その14

 

(四ツ橋筋から見る現在の道頓堀川、湊町船着き場付近。右側はレストランやバーが並ぶ)

バブル景気がもたらしたのは不動産の高騰だけではなかった。不動産は既に高止まり状態だったが、株価は平成元年になっても上がり続け、遂に十二月二十九日には、日経平均株価が三万八千九百十五円という異常なまでの水準に達した。
昭和六十三年から既に「日本の株価は高すぎないか」と日銀に問い続けた米連邦準備理事会(FRB)議長の忠告を受け、元年の夏から外国人投資家による大量の「ニッポン売り」が始まった。
にも関わらず、年末に向けて株価が高騰を続けたのは、日経平均株価(あるいは東証株価指数)そのものに投資するインデックス・ファンドなどが新たに開発され、株式投資をするなら猫も杓子も利益を出してきた一年であるから、新たに参入した素人の俄投資家が、そんな新商品を競って買ったからだ。
また不動産バブルを煽(あお)って来たノンバンクが、個人対象の融資まで始めるようになったのも、平成元年からである。
これまでの銀行なら考えられないことだが、銀行マンとしての理念や使命感が叩き込まれた人材を送り込んだ筈のノンバンクが、無名の個人に何十億から何百億もの資金を融資し、株やファンドを買わせて、その株式やファンドを担保にとった。
株価もファンドも、一本調子に上昇するのだから、資産や経済力が無い個人に、どんな巨額融資をしようが、融資に見合う担保さえとっていたら、何のリスクも生じない筈だった。

ところが翌二年二月二十一日、日経平均が一日にして一割も下がったのだ。
俊平に株を買うよう、浪銀ファイナンスの秦田社長が、半ば強制的に薦めて来たのはこの時だ。秦田にすれば複数の得意先に薦めて買わせていた銘柄が、これ以上下がらぬよう新しい顧客を集めて買い支えなければならなかった。
野須川寝具は初めて浪銀ファイナンスから融資を受ける。それから浪銀の株式融資は急上昇して行った。次にどの銘柄の株を買うのかは、秦田が決め、俊平には事後報告で済ませていたのが実情だ。
俊平に送って来るのは、株式の買い付け明細だけで、株式の預かり証ではない。だからその内俊平は、何の銘柄を何株持っているのかも分からなくなった。
そして三月末に日経平均が三万円を切る。今年に入って株を購入した人々は大損をし始めた。
俊平は株式の取引を秦田に任せていたが、知らない間に何千万円もの損失を負わされていた。つまり買った株式全部を処分しても、何千万もの借金だけが残るのである。
一方、大蔵省も、日銀も、監督する銀行から派生したノンバンクの融資実態を掴まなければ、と思い出すのは、平成元年の夏頃からだ。しかしその調査は遅遅として進まない。殆どのノンバンクが、銀行の子会社ではなく、まったく別の法人になっていたからである。
因みに浪銀ファイナンスは、一兆円近い資金を政府系三銀行から調達して、名も知れない不動産会社、建売会社、そして個人に、不動産担保あるいは株式担保の融資を行っていたが、人材の出身母体である「なみはや銀行」からは、僅か二百億円を借りているに過ぎなかった。なみはや銀行の子会社ではなく、同銀行の管理監督下にある訳でもなく、全く自由気儘に融資活動を行っていたのである。

何の責任もとれない一介のサラリーマンに過ぎない秦田が、浪銀ファイナンスの社長に就任したことで、何か勘違いをしたのか、親会社のなみはや銀行にも真似が出来ない大胆不敵なことをやってしまった。政府系の三銀行は、その後、総てが破綻し、その責めは総て上司の山村頭取が被ることになる。

さて俊平が進めて来た、丹南町の開発調整区域にある山林を宅地に変えて販売する事業だが、当初俊平は友人の宇陀総理の力を調整外しに利用しようとした。俊平はその成功報酬にはそれ相当の金が掛かることは覚悟していただろう。しかし宇陀はそんな大胆なことを引き受ける勇気もなく、俊平の話も充分に聞かぬまま、宇陀自身が書いた書を額にして俊平に贈った。
そんな小心な総理だったが、就任から三ヶ月後、宇陀の昔の愛人が、手切れ金があまりに少なかったと騒いだことを、マスコミが面白おかしく取り上げたから、宇陀は総理の座を返上するしかなくなった。前代未聞の惨めな総理退陣劇だった。
もしも宇陀内閣が長期政権になっていたら、宇陀総理自身が大阪府に全く圧力を掛けずとも、俊平が宇陀総理を知己と言うだけで、官僚たちは忖度し、丹南町の山林の調整解除は、もしかしたら成ったのかもしれない。
宇陀が総理を辞したので、俊平は、南大阪の陰の実力者、濱田会長が経営する「南河(なんか)不動産」を頼って、丹南町山林の宅地開発を進めるしかなかった。
だが南河不動産の地元での力は強く、丹南町役場などは敵ではなかった。かくして四十五件の宅地開発計画が実行に移された。

但し調整区域解除は府の権限で、丹南町は府にそれを申請する責任を押しつけられた。
南河不動産は、丹南町に調整解除を申請させる為、造成工事を強行し、既成事実を積み上げて行った。
造成工事は濱田会長の配下にある丹南町の西原建設が担当する。濱田会長の回りには、虎の威を刈る極道まがいの男もいたが、西原建設の社長もその一人だった。
彼はバブル時代らしく、造成工事に掛かる費用は総て多い目に見て見積もりを出していた。ダンプ一台数万円かかる土砂の運び出し代も、ダンプ台数をふっかけた。いくらの造成費になろうが、負担するのは野須川寝具だ。しかも販売時点まで、経費を立て替えるのは南河不動産だったから、西原はいくら経費を使おうが、自分の腹は痛まなかった。
周辺は谷や斜面ばかりであったから、したたかな西原は「境界は責任持って復元いたしますから、土砂を入れて平坦な土地にしてはどうか」と、周辺地主を回って提案した。周辺地主は皆両手を挙げて賛成し、西原に感謝して、野須川寝具の山林の開発にも無償で同意したのだ。西原は土砂の運び出し費用を親分の濱田会長にも内緒で実質ゼロにしたのである。

平成二年の四月に入る。龍平たちの寝具事業は、昨年の九月以来、なんとか赤字を出さずに来た。今期も五ヶ月を残すのみである。
そんなある日、珍しく門真の西日本健眠産業の矢吹社長が四ツ橋の事務所にやって来る。その日、龍平はたまたま外出していた。
矢吹には俊平が会うことになった。矢吹は用事は無いが、近くに来たからと、応接ソファに座った。

だがこの二人の話し合いは、予想もしない、とんでもない方向へと向かった。
「確固たる信念を持たずして、問屋の言いなりに商品を作っているのだから、儲からないのは当たり前」と、龍平たちを批判する俊平に対し、矢吹は「あなたこそ現場を知らぬ大馬鹿者だ」と言い返してしまったのだ。
矢吹は「株や不動産を触って、バブルごっこをするのも良いが、会長こそ、地に足つけて本業に取り組んだらどうです。息子さんは今どんな苦労されているのか知っているんですか。国立大学を出て一流企業に入った息子さんの友人たちは、家族で世界旅行を楽しんでいる時代ですよ。それなのに龍平さんには、旅行どころか、日曜日も与えていないそうじゃないですか。もうちょっと本業をみて下さい。私が言いたいのはそれだけです」と言って、さっさと帰ってしまった。
龍平が事務所に戻って来ると、俊平に呼ばれ、「以後、西日本健眠産業との取引も、矢吹と会うのも禁止だ。譬え約定残が残っていようが、今日限り出荷停止だ」と命令された。
龍平は何がどうなっているのか、分からなく、おろおろするばかりだった。
矢吹の会社には毎月コンスタントに三百万円以上、掛敷セットを買ってもらっていた。とても代わりの販売先は探せない。

龍平は明くる日、門真の西日本健眠に飛んで行った。
矢吹は、龍平から取引中止を告げられると
「そうか、それなら仕方ないな」と簡単に諦めてしまう。

「そんな、もう一度父に会ってもらえませんか。父は矢吹社長を誤解しているんだと思います」
「いや、もういいんだよ。今後、あんたが売れなくて困った商品があったら、儂の所に来いよ。その時は現金で買ってやるから。それだけ覚えておいて、もう帰った、帰った」
と龍平店の外に追い出すのだった。
四月はそれが原因で、大赤字になった。
俊平は龍平に「お前が責任者なんだから、給与は返上してくれ」と言い出す。
「私の二十七万の給与なんか、取り消しても黒字にはなりませんよ」
「だったら、なおさらだ。絶対に給与をとることはならん。ところでお前、太平洋商事を辞めて儂の会社に入ったことを後悔しているそうじゃないか。しかもそれを外で吹聴してるだろ。なんて恥知らずな奴だ。そんなに儂の会社が嫌なら、今すぐ辞めてくれたって良いんだぜ」
龍平は、本当にこんな父親のいる会社にはいたくなかった。しかし今は辞められない、龍平にはまだ処理ができていない龍平名義の借金が残っているからだ。平成二年四月二十五日現在、東京の壺井から五百五十万、オートローンが二百三十万、カードローンが四百万、サラ金が八社で四百万、合わせてまだ一千五百八十万円もの借金が残ったままだ。
こんな鬼の様な父親の下でも、今は耐えて、龍平は仕事を続けるしかない。
それにしても今月の給与が無いなんて、智代には何と言ったら良いのだ、と龍平は沈み込む。
しかしこの時、俊平も、浪銀の秦田も、東京の壺井も、皆揃って運命が大きく変わろうとしていた。

 

第八章 裁かれる者たち その① に続く